NIDSコメンタリー 第452号 2026年8月25日 日本海軍現用艦艇の海外移転——過去事例が語る防衛装備移転への歴史的示唆
- 戦史研究センター国際紛争史研究室所員
- 石原 明徳
はじめに
近年、日本では「防衛装備移転三原則」の下で、防衛装備移転政策の見直しが進められている1。防衛装備移転は、防衛産業基盤の維持・強化に加え、同志国との安全保障協力を推進する重要な政策手段として位置づけられ、その役割は一層拡大しつつある。こうした政策見直しに伴い、海上自衛隊の現用護衛艦である「あさぎり」型及び「あぶくま」型の海外移転についても報じられており、防衛装備移転は今日の安全保障政策における重要な論点となっている2。
もっとも、日本艦艇の海外移転は必ずしも新たな取り組みではない。今から約110年前の第一次世界大戦期、日本海軍は連合国からの要請を受け、自らが運用する現用艦艇や建造中の艦艇を同盟国へ提供していた。なかでも1916年に実施されたロシアへの艦艇移転は、現役艦艇を同盟国へ移転した事例として、今日の防衛装備移転政策を考察する上でも注目すべき歴史的先例である。
本稿では、第一次世界大戦期における日本海軍のロシア向け艦艇移転を中心に、その歴史的背景、実施過程及び政策的意義を明らかにするとともに、現代日本の防衛装備移転政策に対する示唆について考察する。
青島攻略戦を支えた「戦利艦隊」
1914年8月、日本は日英同盟に基づいてドイツ帝国に宣戦布告し、青島攻略戦に参加した。この作戦で主力として投入された第二艦隊の中核を構成したのは、日露戦争の戦利艦として日本海軍に編入された旧ロシア海軍艦艇であった。旗艦「周防」をはじめ、「石見」「丹後」「沖島」「見島」の戦利艦が主力として作戦に投入され、第一次世界大戦緒戦期の日本海軍による対独作戦を支えた3。
これらの旧ロシア海軍艦艇の一部は、その後1916年にロシアへ移転されることとなる。この事例は、日本が現用海軍艦艇を同盟国へ移転した初期の事例として、日本の防衛装備移転の歴史を考察する上で重要な意味を有すると言えるだろう。
第一次世界大戦中にロシアへ移転された艦艇は、しばしば「旧式艦」とされる。しかし、第一次世界大戦参戦時において、これらの戦利艦は単なる予備艦や練習艦ではなく、日本海軍の実戦戦力として運用されていた4。実際、青島攻略戦では第二艦隊の主力として投入され、青島攻略海軍部隊戦力の中核を担っていた。

当所所蔵「戦艦周防」
日露戦争で捕獲された艦艇は、日本海軍に編入された戦利艦21隻のうち、巡洋艦以上だけでも12隻に及んだ5。これらは日露戦争後の艦艇不足を補う戦力として長期間運用され、1914年の第一次世界大戦勃発時にも日本海軍の重要な戦力として維持されていた。
したがって、1916年のロシアへの艦艇移転は、単なる老朽艦の処分ではなく、当時なお軍事的価値を有し、実戦部隊として運用されていた艦艇を同盟国へ提供した事例と位置づけることができる。
なぜ現用艦艇を移転できたのか
日本海軍はなぜこのような決断を下すことができたのであろうか。その背景には、艦隊近代化の進展による戦力構成の変化があった。
第一次世界大戦参戦時、日本海軍は既に超弩級巡洋戦艦「金剛」「比叡」を保有し、同型艦「榛名」「霧島」及び超弩級戦艦「扶桑」も就役目前であり、さらに超弩級戦艦3隻が建造中であった6。すなわち、日露戦争期の主力艦に代わり、新鋭艦艇を中核とする艦隊への更新が着実に進められていた。

当所所蔵「巡洋戦艦金剛」
もっとも、この時点で旧ロシア海軍艦艇が直ちに軍事的価値を失っていたわけではない。青島攻略戦で示されたように、これらの艦艇は依然として実戦投入可能な戦力であり、日本海軍の作戦行動を支える重要な役割を担っていた。しかし、長期的な艦隊整備構想においては、金剛型巡洋戦艦や扶桑型戦艦が主力として位置づけられる一方、旧式戦艦の相対的な重要性は次第に低下しつつあった。

当所所蔵「戦艦相模」
このような状況の下でロシア政府から艦艇移転の要請を受けた海軍省は、自国防衛への影響を慎重に検討した。その結果、旧ロシア戦艦「相模」「丹後」及び旧ロシア巡洋艦「宗谷」であれば提供可能であるとの判断に至った7。ここで注目すべきは、その判断基準が艦艇の老朽化や艦齢そのものではなく、日本海軍全体の戦力構成と将来の艦隊整備計画に置かれていた点である。すなわち、海軍省は新鋭主力艦の就役によって生じた戦力上の余裕を活用しつつ、同盟国であるロシアへの軍事支援を実施したのであった。
ロシアへの現用艦移転
1916年2月、日本政府は「相模」「丹後」「宗谷」3隻のロシアへの有償移転を決定した。これらはいずれも日露戦争で捕獲された旧ロシア海軍艦艇である。ロシア海軍は日露戦争での損耗と艦隊再建の遅れから大戦勃発時より深刻な艦艇不足に陥っており、特に英仏からの援助物資が到着する白海方面での防衛兵力不足が問題となっていた。
日本側は譲渡に先立ち、必要な修理や改装を実施した。日露戦争後に日本式に改装されていた兵装や装備の一部はロシア海軍向けに復旧され、1916年4月、3隻はウラジオストクでロシア海軍へ引き渡された8。艦名も旧名あるいは新名称へ改められ、それぞれロシア海軍の戦力として再び運用されることとなった9。

当所所蔵「戦艦丹後」
この事例で注目すべき点は、移転された艦艇が旧ロシア艦であったこと自体ではない。重要なのは、日本海軍が現役艦隊の一部を自国戦力から切り離し、同盟国の戦力維持のために提供したことである。そこには単なる武器輸出を超えた戦略的判断を見ることができる。
また、移転に伴う歳入は新造艦建造費に充当されることが想定されていた10。これは、艦隊近代化を進めながら同盟国支援を行うという循環構造を形成していたことを示している。

当所所蔵「巡洋艦宗谷」
艦艇移転を支えた造船能力
日本海軍による艦艇移転は、現用艦艇の移転だけではなかった。
フランス海軍は大戦の長期化による駆逐艦不足に直面し、日本へ支援を要請した。日本海軍は既存の現用駆逐艦の移転は拒否したものの、新造駆逐艦12隻の新造移転を受託した11。これらは一部の装備を除き日本海軍の現用駆逐艦樺型の同型艦として建造され、フランス海軍アラブ級駆逐艦として就役している。

当所所蔵「アラブ級同型・駆逐艦樺」

当所所蔵「第14潜水艇同型・第15潜水艇」
また、フランスで建造途中であった第14潜水艇をフランスへ譲渡し、その代わりに設計図や技術を取得するという柔軟な対応も行われた12。さらに、イタリアへはイギリスで建造中の駆逐艦「江風」が譲渡され、その後日本海軍は代艦を建造している13。
こうした事例が示しているのは、艦艇移転を可能にしたのは艦艇そのものではなく、それを継続的に生産できる造船能力だったということである14。日本海軍は世界有数の造船能力を背景として、現用艦移転、受託建造、新造艦譲渡、といった複数の選択肢を持ち得たのである15。

当所所蔵「駆逐艦江風同型・浦風」
現代への歴史的示唆
今日の防衛装備移転をめぐる議論では、「現用装備を移転してよいのか」という問いがしばしば提起される。
しかし、第一次世界大戦期の日本海軍の事例は、問題の本質が装備の新旧ではないことを示している。海軍省が重視したのは、自国防衛能力を維持し得るかどうかであった。現用艦か退役艦かという区別ではなく、戦力構成全体を見据えたうえで譲渡の可否を判断していたのである。
また、艦艇移転は単なる装備の提供ではなく、同盟国の戦力維持を支える安全保障政策でもあった。ロシアへの現用艦艇移転も、フランス向け駆逐艦新造移転も、連合国全体の海上戦力を維持するという戦略的目的に基づいて実施されていた。
さらに、その実施を可能にした前提には、国内の造船能力と防衛産業基盤の存在があった。装備移転政策の成否は、制度設計だけではなく、その背後にある生産・維持基盤の健全性に左右されることを、この歴史的事例は示している。
おわりに
第一次世界大戦期のロシア向け艦艇移転は、日本海軍による現用艦艇移転の歴史的先例であった。
移転された「相模」「丹後」「宗谷」は、緒戦期の青島攻略戦を支えた戦利艦群と同じく、日本海軍の実戦戦力を構成していた艦艇である。しかし同時に、日本海軍は金剛型巡洋戦艦をはじめとする新鋭艦の整備を進めており、艦隊近代化によって得られた戦力上の余裕を同盟国支援へ振り向けることが可能となっていた。
そこに見られるのは、単なる余剰装備処分ではない。自国戦力の維持、同盟国支援、防衛産業基盤の活用という三つの要素を統合した安全保障政策だといえる。
110年前の日本海軍が直面した課題は、今日の防衛装備移転政策が直面する課題と驚くほど共通している。過去の艦艇移転事例を振り返ることは、変化する安全保障環境の中で日本がどのような形で国際秩序の維持に貢献し得るのかを考える上で、有益な歴史的示唆を与えていると言えるだろう。
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- 石原 明徳
- 戦史研究センター国際紛争史研究室所員
- 専門分野:
防衛装備移転史、軍事ロジスティクス史