NIDSコメンタリー 第436号 2026年5月26日 防衛施設整備に伴う地方協力確保施策③——青野原駐屯地の開設を事例として
- 戦史研究センター戦史研究室主任研究官
- 中村 宗一郎
はじめに
第3回目の本稿では、青野原駐屯地が開設された「青野ヶ原演習の概要及び沿革」及び「青野原駐屯地開設の過程と地方協力確保施策」について紹介する。
青野ヶ原演習場の概要及び沿革
青野原駐屯地の名称の由来となった「青野ヶ原演習場」は、日本の標準時で有名な兵庫県明石市の北約30km、小野市、加西市、加東市にまたがる播磨平野の東端に位置し、総面積約609ヘクタール1(小野市約54.5%、加西市約39.0%、加東市約6.5%)の広さを持つ原野であり、中部方面隊の隊区内に所在する3カ所の中規模演習場の一つである。
陸自の5個方面隊のうち中部方面隊は、大規模演習場を持たない唯一の方面隊であり、他の方面隊に比して訓練環境に恵まれていないことから、中規模演習場である青野ヶ原演習場は中部方面隊の訓練基盤として重要な位置づけにある。
また、青野ヶ原演習場は、3カ所の中規模演習場の中で最も狭く、あいば野演習場(滋賀県)及び日本原演習場(岡山県)と異なり実弾射撃訓練を行っていないことから訓練による騒音被害が比較的小さく、場外弾のリスクがないなど「基地公害」2が比較的小さい演習場といえる。
青野ヶ原演習場は、旧陸軍が民有地を買い上げ、明治21(1888)年3月に「青野軍馬育成場」を設置したことに始まる。民有地の買い上げにあたっては、交渉を担当した大阪鎮台と少しでも有利に解決したい住民との間で駆け引きが行われた。3
日清戦争後の陸軍の再整備に伴い、明治32(1899)年11月に「軍馬補充部」が鳥取県に移転したが、翌年には主に旧第10師団所属の野戦砲兵第10聯隊(姫路)の演習・訓練のため「砲兵射撃場」が設置された。射撃場としては狭隘であったことから、必要に応じて付近の土地が買い足され、一部は住民から無償で土地が提供(献納)された。4
加古川右岸の比較的低い台地状地形にある青野ヶ原演習場は、台地の下に居住する付近住民の生活を支える山林・ため池の所在地としての役割も持っており、旧陸軍はため池の管理のための周辺住民の演習場内への立ち入りを許可し、演習場内の下草や落ち葉の払い下げを行うなど、演習が行われないときには、周辺の村々に演習場の利用を認めていた。5
日中戦争の開始後、青野ヶ原演習場の南端に常設部隊として戦車隊が設置された。設置された青野ヶ原戦車隊は、一般には中部第49部隊という名称で知られている。これは、戦時下の部隊の増設を秘匿するために、旧陸軍が昭和15(1940)年8月から用いた通称号であり、固有の部隊名ではない。すなわち中部第49部隊と呼ばれたのは、昭和14(1939)年に設置された戦車第6聯隊であり、マレー作戦で活躍した。昭和16(1941)年9月に同隊が出征した後は戦車第6聯隊補充隊、更に昭和17(1942)年6月からは同補充隊を基幹として設置された戦車第19聯隊(学徒出陣により司馬遼太郎が入隊)、昭和20(1945)年4月以降は戦車第42聯隊であった。6
敗戦に伴い、演習場内に設置された旧陸軍の施設のうち、北側と東側に設置されていた高岡と大門の廠舎は農地開拓団の住居に転用された。また、演習場の南側に設置されていた戦車聯隊廠舎は、昭和20(1945)年12月に厚生省に移管されて国立兵庫病院となり、その後、昭和22(1947)年に結核療養所に転換して国立療養所兵庫病院、昭和27(1952)年に国立青野原療養所となった。また、戦車聯隊の跡地の一部は、河合中学校(小野市)の校舎として長年使用されていた。7
敗戦直後は、食糧問題が喫緊の課題であり、復員者や戦災者等の受け入れと食糧増産のため、青野ヶ原演習場にも開拓地が設置され、満州からの引揚者と阪神の戦災者、地元農家の次三男などの入植者が開拓事業に従事した。8
しかし、占領軍は、昭和22(1947)年7月、青野ヶ原演習場の全面接収の通達を出し、米軍機械化部隊の実弾演習場として使用するようになり、入植者は入植地の一部を明け渡さなければならなかったようである。9
さらに、昭和27(1952)年のサンフランシスコ平和条約の発効と日本の独立回復に伴い青野ヶ原演習場は、日米安全保障条約に基づき在日米軍の演習場として再接収され、保安隊の発足に伴い同年8月から在日米軍と保安隊との共同使用が開始された。10
同年8月には、河合村青年団が演習場接収反対運動を開始して、「青野原接収反対期成同盟」を結成し、その後、同同盟に滝野町、加西郡九会村、同富合村も参加し、接収反対の陳情活動が展開されたが、政府の決定を覆すことはできなかった。ただ接収された演習場では、米軍の演習はほとんど行われず、もっぱら保安隊及び自衛隊が使用する状態が続くこととなった。11
昭和30(1955)年6月、米空軍が爆撃演習場の候補地として、青野ヶ原を希望していることが明らかになり、大々的な反対運動が展開された。同年7月小野市議会が同問題についての反対決議を採択したのを皮切りに、小野市、滝野町、加西町の1市2町が米空軍による演習場使用を事前に阻止することを掲げて、小野市長を会長とする「青野ヶ原米軍使用反対期成連盟」を結成したほか、革新団体による陳情活動や革新政党の国会における追及、同年9月小野市、滝野町、加西町の市町長、議長による陳情団が防衛庁・調達庁・大蔵省・農林省など関係省庁へ赴き陳情を行った結果、爆撃演習場に対する在日米軍の要求は、事実上断念されることとなった。12
「青野ヶ原米軍使用反対期成連盟」の運動は、米軍の使用を阻止することを目的にはじまったが、運動の過程では、自衛隊による演習の増加に伴い「重車輛による道路橋梁等の決潰や破壊」が生じ「同所中央部にある国立療養所の重症患者の安静障害及び隣接せる市立中学校の学習に対しても悪影響を与えつつあること」を理由に自衛隊による演習場の使用への反対も表明されるなど、青野ヶ原演習場そのものの廃止と、地元への払い下げを求めるものでもあった。13
昭和31(1956)年、青野ヶ原演習場の接収解除をにらみ、小野市、滝野町、加西町は、入植者の開墾地と水利の確保、および傾斜地の演習不適格地を薪炭用材の造成地や牧草地として開放するよう陸自伊丹第3管区総監部(現在の第3師団司令部)に対する陳情活動を展開したが、同年から青野ヶ原演習場は陸自の専用演習場として使用を開始することになり、第3管区隊(現在の第3師団)の演習場として取得・整備された。接収解除に伴い、青野ヶ原に点在した開拓農地の整理統合がなされ、開拓農家は演習場外の新開拓地への移転を余儀なくされた。14
昭和32(1957)年6月10日に正式に接収が解除されたことに伴い返還された演習場用地の管理は、大蔵省から防衛庁に委託され、同年11月1日から姫路駐屯地が管理15することとなり、昭和51(1976)年8月の青野原駐屯地の開設以降、同駐屯地が管理している。
青野原駐屯地開設の過程と地方協力確保施策
青野原駐屯地の開設に至る過程を「久保発言から青野ヶ原演習場の内定まで」、「青野ヶ原演習場の内定から地元の同意獲得まで」、「地元の同意獲得から駐屯地開設まで」の3つの期間に区分し、それぞれの段階における「反対派の動向」、「地元自治体の動向」、「防衛庁・自衛隊による地方協力確保施策」について紹介する。
1 「久保発言から青野ヶ原演習場の内定まで」
(1)反対派の動向
昭和48(1973)年6月21日、衆議院内閣委員会において、阪神地区に編成予定の第8高射特科群の配置に関する質疑に対し、久保卓也防衛庁防衛局長(当時)が「青野原も一つの候補地」と発言した、いわゆる「久保発言」16は、青野ヶ原演習場周辺自治体および住民に大きな影響を及ぼした。以後、革新政党・労働組合・民主団体による反対運動が活発化し、同年9月の長沼ナイキ訴訟一審判決は、反対運動を一層勢いづけた。17
同年9~10月、兵庫県内の革新政党は、知事に対し基地建設撤回を求める申入れを行うとともに、各市町議会への反対請願提出、現地調査、反対運動の組織化を進めた。演習場周辺では複数の反対組織が結成され、署名活動や啓発活動が展開された。18革新各党支部や労組、民主団体など約百団体が共闘を呼びかけ、反対決議の促進、演習場の平和利用構想の策定、基地化による環境破壊の懸念を訴えることなどを運動方針として掲げた。19
同年10月には、兵庫県議会に対し計7件のホーク部隊配備反対請願が提出されたほか、明石市、加古川市、姫路市など周辺10市町の革新系労働団体により「青野ヶ原ホークミサイル反対連絡会議」が結成20されたほか、小野市の革新政党支持団体が組織する「青野ヶ原平和利用の会」21、加西市の革新団体が組織する「青野ヶ原ミサイル基地反対連絡会議」22が結成され、旧式兵器であるホークの軍事的有効性や地域発展阻害等を訴える運動が展開された。23これと並行して、小野市・加西市などでは演習場周辺住民主体の反対組織も結成され、町ぐるみで反対運動が進められた。24
革新系軍事評論家等による学習会や講演会も頻繁に行われ25、その内容は議会質問や請願書に反映され、反対運動の理論的基盤となった。こうした活動の結果、同年12月までに小野市議会では6件(署名8,394人)26、加西市議会では2件(署名2,302人)27の反対請願が提出された。反対理由は、反核・平和主義、有事の安全保障上の危険、基地公害、基地拡張の可能性、都市計画への影響などに整理できる。
革新勢力は、反対決議を後押しするため各地で集会やデモを実施した。同年10月21日には神戸市で約3,500人規模の集会が開かれ、小野市内および演習場近辺でも反戦集会・デモが行われた。2811月以降も、合同訓練への抗議行動29や地方自治体首長への要請30、議会開催時の抗議活動31が相次いだ。
昭和48(1973)年末、49年度の関西地区へのホーク配備が一旦見送られた32ことで反対運動は沈静化したが、昭和49(1974)年夏、防衛庁の50年度予算案に再び関西配備が盛り込まれた33ことから、反対活動は再燃した。
(2)関係自治体の動向
「久保発言」以降、兵庫県は政府から正式な連絡があるまで態度表明を避ける姿勢を維持した。34一方、小野市の林市長は、基地化が生活環境を破壊する恐れがある場合には反対する考えを示し35、危機感をにじませた。
青野ヶ原演習場を行政区域とする小野市、加西市、滝野町の議会は、特別委員会を設置し、昭和48(1973)年9月~10月、既設ホーク部隊所在自治体の視察や調査を開始した。36小野市議会の特別委員会は、ホーク基地の設置について「市当局が防衛庁から正式に通知を受けていない点が共通している」と報告し、基地の設置まで防衛庁から計画の発表はありえず、早急に市としての態度表明が必要との意見を述べた。37加西市議会の特別委員会は、基地公害が確認されなかった一方、税収や地域振興効果が限定的であるとして、演習場の平和利用が望ましいとの結論をまとめ、関係自治体で初めて明確な反対姿勢を示した。38
同年12月、関係2市1町の合同会議では、革新系議員と保守系議員の意見対立が顕著となり、統一した対応は決められなかった。39小野市議会では「平和利用」をめぐる解釈を巡り議論が紛糾した末、演習場は平和利用が望ましいとの結論が採択された40ものの、賛否両請願を同時採択する事態となった。41加西市議会の特別委員会においても基地反対請願1件を審議したが、慎重意見が多数で継続審議となった。42
その後も首長間・自治体間で足並みは揃わず43、石油危機による防衛予算削減の影響もあり、49年度の基地設置見送りが伝えられたことで一時的に事態は沈静化した。44同年8月30日、防衛庁の50年度予算の概算要求と業務計画が決まり、当該計画に第8高射特科群の関西地区配備が含まれていたことから、関係2市1町議会は、情報収集と対策の検討を始めることになった。
同年11月、小野、加西、西脇3市と加東郡、多可郡7町でつくる東播磨内陸住民会議が公表した住民意識調査では反対が約6割を占めたが45、同月26日、防衛庁は青野ヶ原演習場への第8高射特科群配備を正式決定し、県に協力を要請した。46県側は地元の理解と納得を最優先すべきとの立場を示し、慎重な対応を表明した。47
(3)防衛庁・自衛隊による地方協力確保施策
中部方面総監部は、「久保発言」後、ホーク部隊設置に向けた広報活動を開始した。市民向けパンフレットの配布48や、関係自治体議員への説明49、演習場周辺住民への戸別訪問などが行われた。50
また、議員や住民代表を既設ホーク部隊に案内する視察が実施され、その参加者は約600人に及んだ。視察後、基地公害の不存在や地域振興効果を評価する声も多く、反対機運の低下に一定の効果があったとされる。51
この話を裏付けるように、同年12月13日付の朝日新聞播州版には、視察に参加した小野市河合代表区長の次の談話が掲載されている。視察に参加した区長たちの一致した見解だと前置きしたうえで、「まず基地公害がないということですな。発射機の操作訓練はやるが、実弾演習はアメリカに行ってやる。隊員の規律は守られているし、部隊の駐とんで税収は増える。おまけに基地周辺の整備事業に国からの多額の金が出る。むしろ革新団体の主張する平和利用が実現すると、大変な開発公害が起きる。反対する理由が何もないですな。」
既設ホーク部隊及び周辺自治体の視察は、革新勢力が宣伝する「基地公害」がないことをアピールし、ホーク部隊設置の理解者・協力者の獲得に大いに寄与したが、これは、既設ホーク部隊が、周辺自治体や住民と良好な関係を築き信頼を得ていたからこそ効果があったとの側面もあったと思われる。
小野市においては防衛協会の活動が重要な役割を果たし、革新勢力主導の反対運動を批判する声明52や、基地設置賛成の請願が提出された。53これに続き、住民団体からも賛成署名を伴う請願書が提出され54、関係自治体における議論は一層錯綜することとなった。
2 青野ヶ原演習場の内定から地元の同意獲得まで
(1)反対派の動向
「青野ヶ原演習場の内定」を受け、革新勢力は直ちに反発し、昭和49(1974)年11月27日、革新政党は県に対し防衛庁への撤回要請を行い、県議会革新会派も「軍事力強化につながり住民に不安を与える」として反対を表明した。55
同日、地元反対組織は演習場周辺に反対看板を掲示し、ビラ配布や総決起集会を実施した。56同年12月7日には約300人規模の抗議集会が駐屯地建設予定地近辺で開催され、その後もビラ配布、ポスター掲示、議員への説得活動などを行った。57
昭和50(1975)年1月には、革新団体が小野市議会に詰めかけ58、賛否両決議案を廃案に追い込む59など、市議会運営を巡る混乱も生じた。
一方、防衛庁予算の成立、測量・工事準備の進展とともに、反対派は意識調査結果や「見返りの乏しさ」を強調して抗議活動を続けたものの、運動の中心は革新団体と演習場周辺の一部住民にとどまり、広範な盛り上がりには欠けた。
同年7月には、反対派が演習場正門前に団結小屋を設け泊まり込みの阻止活動を開始60し、同月19日には関西圏から動員した約2,500人による大規模集会・デモが行われたが、大きな混乱には至らなかった。61
(2)関係自治体の動向
「青野ヶ原演習場の内定」直後、関係2市1町の首長はそろって反対を表明した。62小野市長は県や国会議員に反対の意向を伝え、基地設置阻止を訴えた。63小野市議会特別委員会も住民代表を交えた協議を行い64、「反対」で一致したと報告した。65
しかし、小野市議会構成では保守系が多数を占め、革新系の反対決議案と保守系の条件付き賛成案の調整は難航した。66最終的に、当面の態度決定を見送り、防衛庁に配備猶予を求める要望書を提出することで一致した。67
兵庫県は「地元の理解が得られない測量は望ましくない」としつつ、自衛隊の存在自体を否定しない立場を明確にした。68関係首長会談では、平和利用を基本に連携して対処する方針が確認された。69
同年12月、小野市が実施した住民意識調査では反対が8割超を占めた70が、加西市議会では反対請願は僅差で不採択となり、議会としての態度は明確にならなかった。71翌年1月の小野市議会でも、反対派の動員などで混乱が生じ72、賛否両決議案はいずれも廃案となった。73
その後、演習場周辺の区長会が相次いで「条件付き賛成」へ転じたことが大きな転機となった。74小野市長は「演習場の全面返還」を掲げつつも、周辺整備拡充を防衛庁に要求し、道路整備や公的施設整備などの具体的条件を示した。75
昭和50(1975)年春の市議会選挙では、小野市及び加西市とも革新系が議席を増やしたものの、保守系優位は維持された。76夏に向け、防衛庁から測量・着工通告がなされ77、態度決定が迫られることとなった。
同年6月、加西市は、区長会長会(9人)のメンバーを集めホーク配備説明会を開いたが、同席した大阪防衛施設局の幹部職員から「防衛庁の行う民生安定事業は基地周辺整備事業法の範囲で行われ、ホーク配備に関する事業法はない。演習場との因果関係が明確にならなければ、大蔵省で予算がパスせず、現在要望が出されているものについて努力はするが応じられないケースが多い」と説明され、区長会は、「危険なホークを設置するのだから精神的補償の意味で特別に事業をしてほしい」と食い下がったが、「防衛庁の事業では現行法上精神的補償は認めておらずできない」と突っぱねられた。78
加西市議会の議員協議会において、市長から「周辺住民が要望していた事業がほとんど認められない見通しだ」と報告があったが、議会の態度決定には至らず、特別委員会で改めて審議し、防衛庁に「測量、着工の延期」の申し入れを決定した。79
同年6月、駐屯地の配備計画図が明らかになったことに伴い、ミサイルの弾薬庫から約600メートルしか離れていない加東郡社町の住民が不安を高め、社町長に住民1,500人の署名を添えて「防衛庁はこれまで何の説明もせず一方的に設置を決定、誠意がない」、「町は早急に不安を取り除くよう対処してほしい」との要望書を提出した。80これを受けて、社町長は、防衛庁に計画変更を求めるため上京した。
同年7月、加西市が住民意識調査で反対が約5割を占めたと公表した81が、同月に滝野町が最初に条件付き賛成を表明82し、小野市、加西市も順次これに続いた。83
7月末までに関係2市1町すべてが受け入れを決定し、基地周辺整備について県の協力を求め84、県も8月9日に地元の意思統一、県議会での基地反対請願の不採択、基地公害が認められないことを理由に同意を表明した。85
(3)防衛庁・自衛隊による地方協力確保施策
内定後の昭和49(1974)年11月、大阪防衛施設局は調査・測量準備を開始するとともに、中部方面総監部は、住民説明会を本格化させた。86小野市防衛協会を通じた説明、協力要請、反対運動抑制を意識した広報活動が展開された。87
同年12月、演習場周辺、とりわけ反対の強かった河合地区では、12回にわたる説明会が開かれ、駐屯地の規模、部隊編成、地域への利益などが説明された。その結果、明確な反対を維持した地区は一部にとどまった。88
この時期、防衛庁側幹部が地元を頻繁に訪れ、関係市の区長らを対象に現地説明を重ねた。89こうした説明会について「説明会も当初は、困難を極めた。酒気を帯びた反対住民の罵声を浴びながら凍りつく様な寒気の中、板の間に正座して数時間説明したこともしばしばであった。雨の日も風の日も、夕方、伊丹或いは姫路を出発して夜の11時12時まで説明会、翌朝の8時の報告文書の作成、又翌日は説明会へといったハードスケジュールが続いた。59ヶ所で総計1,844名に対して説明が行われ地元住民の理解は逐次深まり、協力者との連携も強められ、市役所、町役場及び市町議会内の中に協力者の数も増加していった。更に地元出身の県議会議員、国会議員の協力も得られる様になった。」との証言90もあり、こうした粘り強い説明が住民感情の好転と条件付き賛成への流れを生んだとみられる。
関係自治体が態度決定を先送りする中、防衛庁は測量予備調査91や工事通告を通じて判断を促した。昭和50(1975)年3月には測量予備調査が実施92され、陸上自衛隊中部方面総監と大阪防衛施設局長名での通告文は、部隊配備にあたって、
- 隊舎の建設など地形の変更によって周辺住民の生活に障害が起きないように配慮する。万一、障害が起きたときは誠意をもって補償し、対策をとる。
- 利水関係者の演習場内の立ち入り、通行などの慣行は尊重する。
- ホーク部隊以外の他の部隊の施設を地元と協議することなく配置する考えはない。
- 地元の要望(条件)については関係市町と十分協議し、意向を尊重しながら実施可能なものから計画的に実施する-などこれまでの地元の懸念を払しょくする内容であった。93
同年6月、大阪防衛施設局の施設部長等は、関係2市1町の首長と議長に対し、本測量・建設工事着手を通告、協力を要請するとともにホーク基地の配備計画について説明した。94
久保防衛施設庁長官は「地元の了解なしに着工しない」と国会で明言95し、7月末の地元受け入れ表明、8月の県同意を経て、作業計画が正式に示された。96
3 地元の同意獲得から駐屯地開設まで
(1)反対派の動向
兵庫県がホーク受け入れを表明すると、革新団体などの反対派は基地建設阻止の姿勢を崩さず、演習場入口の団結小屋での監視体制を強化するとともに、昭和50(1975)年8月9日から住民投票実施を求める署名活動を開始した。97
同年8月26日、翌日の着工を前に団結小屋で協議が行われたが、動員が困難であったことから、27日は代表者による抗議文の手交にとどまった。98その後も抗議集会は散発的に行われた99が、建設工事の進行とともに、実力による阻止行動は行われず、反対運動は革新政党の活動を除き次第に沈静化した。
昭和51(1976)年8月20日、第8高射特科群創隊および青野原駐屯地開設に合わせ、革新団体は約1,000人規模の抗議集会とデモを実施したが、抗議文を手渡した後、解散した。100
(2)関係自治体の動向
ホーク受け入れ決定後、関係自治体の関心は、受け入れ条件とされた周辺整備事業の実施に移行した。
その中で、昭和50(1975)年9月、小野市と滝野町の間で駐屯地予定地の市町境界を巡る対立が発生した。小野市が防火体制検討の過程で地図の境界差異を発見し、駐屯地の主要施設や官舎予定地が小野市域に含まれる可能性を指摘したことが発端であった。101
滝野町はこれに強く反発し、境界確認と工事中止を求める姿勢を示した102が、現地調査と資料確認の結果、境界は国土地理院地図どおりであることが確認された。103その後も滝野町が税収や基地交付金への影響を懸念したため調整が難航したが、大阪防衛施設局が示した①同地域を両市町で1.5ヘクタールずつに二分する、②官舎は滝野町側に建設する、③駐屯地内は元の配備図に沿った境界とするとの折衷案により、同年11月に解決した。104
同年12月、兵庫県は議会答弁において、防衛上の必要性を認めつつ、今後も地元生活への影響を監視していくとの立場を示し105、ホーク部隊設置は国の専管事項であるとの見解を明らかにした。
(3)防衛庁・自衛隊による地方協力確保施策
昭和50(1975)年8月9日の県受け入れ表明と同日、中部方面総監部は建設計画を公表106し、工事の迅速化を進めた。同年8月27日から調査測量と道路付け替え工事が開始され、警戒態勢が敷かれたが、大きな混乱は生じなかった。107
同年8月30日から建設工事の本測量も開始され、9月以降、地質のボーリング調査、外周道路整備108や砂防工事、松林伐採などが進められ109、昭和5(1976)1年1月から本格的な建設工事が始まった。隊舎、整備工場、食堂に加え、小野市・滝野町に官舎計200戸が建設された。110
周辺整備事業も並行して実施され、ため池改修や上水道拡張工事が行われた。111滝野町の当該拡張工事は、2ヵ年計画で、工費3億3千万円、うち6割が防衛庁の補助であった。112
同年7月下旬までに装備品やホーク器材が搬入113され、同年8月20日、第8高射特科群の創隊・部隊編成完結式および青野原駐屯地開設記念式が挙行された。午前中は創隊式、午後には約800人が参加する開設記念式が行われ、駐屯地は正式に発足した。114
次回は、功利主義及び公正主義の観点から分析した「青野原駐屯地が開設に至った要因」及び「防衛施設整備に伴う地方協力確保施策上の教訓」について紹介する。
Profile
- 中村 宗一郎
- 戦史研究センター戦史研究室主任研究官
- 専門分野:
陸上自衛隊史、東アジアの安全保障、バルカン半島の安全保障