NIDSコメンタリー 第429号 2026年4月17日 防衛施設整備に伴う地方協力確保施策②——青野原駐屯地の開設を事例として

戦史研究センター戦史研究室主任研究官
中村 宗一郎

はじめに

第2回目の本稿では、青野原駐屯地開設の背景として、「陸上自衛隊へのホークミサイル導入の経緯」及び「ホーク部隊編成の推移」について紹介する。

陸上自衛隊へのホークミサイル導入の経緯

戦後高射部隊による日本の地上防空は、在日米軍の高射砲部隊が担っていた。そのため昭和29(1954)年の自衛隊発足以降、陸上自衛隊(以下、陸自)は地上作戦部隊、航空自衛隊(以下、空自)は飛行部隊とそれぞれ主力部隊の建設等に注力し、高射防空の整備は優先順位が低い傾向にあった。一方、米国本土においてナイキ、ホークなど各種地対空誘導弾(SAM)の配備が完了し、NATO諸国もSAMを配備するなど高射砲からSAMへと兵器換装を進める世界的趨勢を背景として在日米陸軍高射砲部隊が昭和32(1957)年から解隊撤収することとなった。1これにより、日本は、在日米軍に依存していた高射防空の機能を代替する必要に迫られることとなり、これを契機に防衛庁でのSAM導入検討が開始され、陸自と空自の間で高射防空に関する帰属問題が生起することとなった。

昭和36(1961)年に始まる第2次防衛力整備計画(2次防)検討段階において、昭和32(1957)年9月、統合幕僚会議及び陸・海・空の幕僚監部は合同の高射防空研究会を設置し、SAMの導入について検討を行った。検討対象としたSAMは、米空軍のボマーク及び米陸軍のナイキ・アジャックス、ナイキ・ハーキュリーズ並びにホークであり、SAMの帰属をめぐって各幕僚監部間で議論が戦われた。

陸上幕僚長として在任間、ナイキの陸自帰属を強く主張していた杉田一次陸将は、当時の防衛庁内における議論について回想録『忘れられている安全保障』のなかで次のように述べている。

「エレクトロニクスが世界の各軍で採用されつつあったが、陸上自衛隊では未だ初期の段階であったので、陸上自衛隊近代化の第1歩として、ナイキ、ホークに多大の希望をかけていた。ところが航空自衛隊においては、近く有人機がなくなり、ミサイル万能時代になるという、当時における風潮に左右せられて、今の間にナイキを航空自衛隊に獲得する必要があるとして、ナイキの所属に関して前任者の杉山陸幕長時代より防衛庁内で論議せられていたのであった。」2

昭和33(1958)年8月、防衛庁長官指示により防空装備委員会が防空全般の長期的兵備構想の一環としてSAMを研究することとなり、昭和34(1959)年5月、「長期防空兵器体系に関する基本構想」をまとめ報告した。3同報告書は、SAMの帰属に関して、「防空戦闘兵器として有人戦闘機、地域防空SAM及び地点防空SAMの3種の兵器が運用面から防空責任者の統一指揮に置かれるのみならず、計画、建設補給、教育訓練、研究開発等の実施についても防空責任者の監督・統制下にあることが望ましい。したがって、自衛隊の装備するSAMは原則として空自に所属するのが望ましい。」「F-Xの他に三種類のSAM(ナイキ、ホーク、ボマーク)を同時あるいは相次いで導入することは、後方支援組織等多くの困難がある。したがって、空自に所属させることが適当であるが、絶対的とはいえない。」「陸上及び海上部隊の自隊防空用SAMはそれぞれ陸自・海自に所属させるのが適当である。」と述べられていた。4

統合幕僚会議は、同年7月に「SAMの導入、研究開発、部隊建設及び指揮運用」について、次のような方針を決定した。

「SAMに関する諸施策推進のため、各自衛隊協力してなるべく速やかにSAMの導入を図る。

① 空自は全般防空、陸自・海自は自隊防空の見地に立って計画する。

② 原則として、高高度及び長距離SAMは空自、低高度SAMは陸自、艦艇用SAMは海自の担当とする。

③ SAMの諸施策に関して、具体的計画を推進するためGM別室を設ける。」

この統合幕僚会議の決定方針を骨子として、同年10月、SAMの導入及びこれに伴う諸施策の処理についての長官指示が出された。その内容は、前述の1、2項目のほかSAM 部隊建設の担当と方向を示す次の2つの項目が付け加えられた。

① 陸自の自隊防空用の高高度SAMは空自で、空自の全般防空用及び自隊防空用の低高度SAMは陸自において建設を担当する。

② 当面のSAM部隊の建設は、ロケット実験隊を母体として行う。

これにより、まずSAMを導入して陸上自衛隊に実験部隊を編成するというSAM建設の手順が決定されたが、ナイキ・ホーク帰属決定は先延ばしにされ、陸・空幕僚監部間の議論は激しさを増していった。

SAM導入の母体として統合の実験部隊を設置することになり、陸上自衛隊は、同年12月4日、下志津駐屯地(千葉県)に「第1ロケット実験訓練隊」を新編し、要員の事前教育を実施した。5

昭和36(1961)年7月18日、国防会議で決定された2次防において、ナイキ2個大隊、ホーク2個大隊の導入が決定された。6

2次防決定の時点では、実験部隊の帰属が決まっておらず、今後の研究とされ、ナイキ部隊の帰属に関して陸自及び空自双方が自隊所属を主張して譲らなかったが、昭和37(1962)年12月26日、防衛庁長官の決定により、ナイキ部隊は空自の所属となった結果、陸自は自隊防空用SAMとしてホークを導入することとなった。7

ホーク部隊編成の推移

「昭和52年度以降に係る防衛計画の大綱」において、陸自は、「重要地域の低空域防空に当たり得る地対空誘導弾部隊を有していること」8とされ、昭和52年版の『日本の防衛』によると「低空域防空に当たる重要地域としては、政治、経済上の中枢地域である関東及び関西、交通の要衝である青函及び関門地域、防衛上の重要地域である北海道の北部と中部、西九州及び沖縄の合わせて8個地域が考えられるので、低空域防空用地対空誘導弾部隊は8個高射特科群保有することとされた。」と記載9されており、こうした方針に基づいてホーク部隊が逐次編成された。

2次防では、対ソ連の「防衛上の重要地域」である北海道中部の防空と「政経中枢」である首都防空のため北海道と関東にそれぞれホーク1個大隊を配置することが決定され、昭和40(1965)年1月、北海道の第1高射特科群(東千歳駐屯地)の隷下に第102高射大隊(第1次ホーク)、昭和42(1967)年3月、千葉県の第2高射特科群(松戸駐屯地)の隷下に第103高射大隊(第2次ホーク)がそれぞれ新編された。これら2個ホーク大隊の射撃中隊は、即応態勢を維持するため分散して配置されることとなり、第102高射大隊は、大隊本部及び本部管理中隊、第1射撃中隊を東千歳駐屯地、第2射撃中隊を北千歳駐屯地、第3及び第4射撃中隊を島松駐屯地10、第103高射大隊は、大隊本部及び本部管理中隊を松戸駐屯地、第1射撃中隊を立川分屯地(東立川駐屯地)11、第2射撃中隊を朝霞駐屯地、第3射撃中隊を松戸駐屯地、第4射撃中隊を下志津駐屯地にそれぞれ配置12した。

なお、昭和46(1971)年3月、高射運用隊、ホーク大隊及び90ミリ高射砲大隊または、75ミリ高射砲大隊を隷下部隊としていた第1、第2高射特科群は、ホークのみを装備する高射特科群へと改編され、「射撃中隊」の名称が「高射中隊」へと改称された。13

第3次防衛力整備計画(3次防)においては、「政経中枢、交通の要衝、防衛上の要域等の防空能力を向上するため、対空誘導弾部隊を増強する。ホーク部隊については新たに2個群を編成して、九州北部及び北海道北部に配置するほか、更に1個群の編成準備を行い、青函地区に配備することを予定する。」こととなった。

昭和46(1971)年3月、九州北部の「交通の要衝」である関門地域の防空のため第3高射特科群が飯塚駐屯地(福岡県)で新編され、西部方面隊の隷下に入った。その後、昭和48(1973)年2月、前述の第1、第2高射特科群と同様に改編され、昭和48(1973)年8月、第2高射特科団の新編に伴い、その隷下に入った。14

昭和47(1972)年3月、対ソ連の最前線である北海道北部の「防衛上の重要地域」の防空のため第4高射特科群が名寄駐屯地で新編され、第1高射特科群とともに新編された第1高射特科団の隷下に入った。15

昭和48(1973)年3月、「交通の要衝」である青函地域の防空のため、第5高射特科群が八戸駐屯地(青森県)で新編され、東北方面隊の隷下に入った。16

第4次防衛力整備計画(4次防)では、防空能力を強化するため、3個群が編成されることとなった。

昭和47(1972)年の「沖縄返還」に伴う沖縄の防衛責任の引き受けに関し、昭和46(1971)年6月29日に締結された「日本国による沖縄局地防衛責務の引き受けに関する取り決め」(久保・カーチス取極)に基づき、「防衛上の重要地域」である沖縄防空のため、昭和47(1972)年8月に第6高射特科群が朝霞駐屯地で新編され、翌48(1973)年2月に西部方面隊の隷下に入り、同年1月から3月の間に沖縄へ移駐した。群本部及び本部管理中隊は与座分屯地に配置されたが、高射中隊は、在日米陸軍ホーク部隊から移管されたサイトに配置されることとなり、昭和48(1973)年4月から5月にかけて第323高射中隊は白川分屯地、第324高射中隊は勝連分屯地、第325高射中隊は知念分屯地、第326高射中隊は南与座分屯地にそれぞれ展開した。17

「防衛上の重要地域」である九州西部の防空任務を遂行する第7高射特科群は、昭和48(1973)年度に編成が計画されていたが、昭和48(1973)年後半の第1次オイルショックを契機として総需要抑制政策等がとられ、陸自の装備品等の取得についても当初の計画が変更されたことに伴い、昭和49(1974)年8月に竹松駐屯地(長崎県)で新編され、同じく新編された第2高射団の隷下に入った。18

「政経中枢」である関西地区の防空任務を遂行する第8高射特科群は、昭和49(1974)年度に編成が計画されていたが、第7高射特科群の場合と同様に繰り越されて昭和50(1975)年度に実行されることになり、施設建設の遅れから更に遅延されて、昭和51(1976)年8月20日、青野原駐屯地(兵庫県)で新編され、中部方面隊の隷下に入った。これをもってホーク8個群の整備が完了したが、ホーク部隊の新編に伴い新たな駐屯地を開設したのは、第8高射特科群のみであった。

3次防以降に新編された高射特科群は、在日米陸軍のサイトを引き継いだ第6高射特科群を除いて、第1次、第2次ホーク部隊と異なり、高射中隊が同一駐屯地及び演習場に「集中配備」されることになり、実戦配備が必要な場合は適地に移動配備する機動的な運用を行うこととなった。

次回は、青野原駐屯地が開設されることになった「青野ヶ原演習場の概要及び沿革」及び「青野原駐屯地開設の過程と地方協力確保施策」について紹介する。

Profile

  • 中村 宗一郎
  • 戦史研究センター戦史研究室主任研究官
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    陸上自衛隊史、東アジアの安全保障、バルカン半島の安全保障