NIDSコメンタリー 第421号 2026年3月10日 インド太平洋において立ち位置を模索する韓国——李在明外交の現状と展望
- 戦史研究センター国際紛争史研究室主任研究官
- 石田 智範
韓国外交におけるニュアンスの変化
2025年6月の李在明政権の発足を境にして、インド太平洋地域に対する韓国の政策にはニュアンスの変化が生じている。端的にいえば、「インド太平洋」という地域概念を、韓国は積極的に使わなくなった。
この変化が生じた理由の一端は、前任であった尹錫悦政権の外交政策の特殊性に求めることができる。2022年5月に発足した尹錫悦政権は、同年12月に独自の戦略文書である「自由・平和・繁栄のインド太平洋戦略」を発表し、インド太平洋地域の戦略環境の中に自国を明示的に位置づけた。同文書には、「国際規範を支持し、自由、民主主義、法の支配、人権などの普遍的な価値を基礎とするルールに基づく秩序を強化していく」との決意と、「力による一方的な現状変更に反対」し、「普遍的な価値を共有する国家間の連帯」を推進するとの立場が明確に打ち出されている1。こうしたビジョンの下、尹錫悦政権が日米韓3カ国の安全保障協力の推進に意欲的に取り組んだことも記憶に新しい。従来、朝鮮半島問題に関心を集中させてきた韓国が、インド太平洋へと視野を広げて自国の役割を語った点で、尹錫悦政権の取り組みは画期的であった。それだけに、与野党の政権交代を経て政策に一定の揺り戻しが生じることは、自然でもあるだろう。
米韓同盟を安全保障政策の基軸とし、日米韓3カ国の安全保障協力を引き続き重視する点は、李在明政権も尹錫悦政権と変わりはない。ただし、それらの取り組みを「インド太平洋」の文脈で語ることについて、李在明政権は極めて慎重であるように見受けられる。李在明政権が気に掛けているのは、すなわち中国との関係である。
李在明の「実用外交」――中国との経済協力の重視
李在明大統領は就任以来すでに2回、習近平国家主席との首脳会談を行っている。APEC首脳会議に合わせて行われた2025年11月の会談の際には、向こう5カ年の「韓中経済協力共同計画」に関するものをはじめ、6件の了解覚書が締結された2。さらに、2026年1月に李在明大統領が中国を国賓訪問した際には、重要鉱物のサプライチェーンやデジタル経済、文化コンテンツと人的交流の拡大など14件の了解覚書が締結された3。この時の訪中には、サムスン電子やSK、現代自動車、LGといった4大財閥の会長をはじめ、大規模な経済使節団が同行して、中国側との経済交流も活発に行われた。首脳会談に先立ち、中国国営中央テレビのインタビューで、「最も重要なことは新たな対等な協力関係を確立し、双方の発展に利益をもたらす経済協力関係をつくりあげていくことだ」と意気込みを語っていたように4、訪中に当たって李在明大統領が主眼としたのは中国との経済協力の進展を図ることであった。1月の訪中を通じて李在明大統領が繰り返し強調したのは、2026年を「韓中関係の全面的な修復の元年にする」との決意である。2016年に朴槿恵政権が在韓米軍への地上配備型ミサイル迎撃システム(THAAD)の配備容認へと舵を切り、それに反発した中国が韓国への経済的な報復に及ぶと中韓関係は急激に冷え込み、その後も尹錫悦政権がインド太平洋戦略を発表して対米協調姿勢を前面に打ち出す中で、総じて低調に推移してきた。そうした空気を払拭し、中韓両国の経済協力を軌道に乗せることが、李在明政権の対中政策の目下最大のテーマだったのである。
2025年8月、トランプ大統領との初の首脳会談を終えて戦略国際問題研究所(CSIS)で講演を行った李在明大統領は、対中姿勢についての質問に答える中で、かつて韓国は安全保障面では米国に、経済面では中国に依存していたものの、「そのような論理を貫くことはもはや不可能になった」と語ってみせた5。これは、同年5月のシャングリラ会合において、米国のヘグセス国防長官が「中国とは経済協力を追求し、米国とは防衛協力を追求するという考えに多くの国が惹きつけられている」と述べつつ、それが中国の影響力を高め、有事における米国との防衛協力に困難を来す可能性に警鐘を鳴らしたことへの応答でもあっただろう6。しかし、その後トランプ政権が経済的な実利に主眼を置いて米中関係の安定化を追求する方向へと対中政策の軸足を移す中で、李在明政権の外交は事実上、「中国とは経済協力を追求し、米国とは防衛協力を追求する」形に帰着しつつあるように見受けられる。そもそも対米関係と対中関係の両立を図り、その枠内で実利を追求するというのがポスト冷戦期以来の韓国の地域政策の基本型であり、「実用外交」を掲げる李在明政権もまた、そうした型を踏襲しているといえる。その意味で、李在明政権の「実用外交」の真価が試されるのは、米中関係が再び対立の局面へと向かうシナリオにおいてである。
李在明外交の展望――ミドルパワー外交の視角
そうしたシナリオも含めて、今後インド太平洋地域において李在明政権がいかなる政策を展開するのかについては、まだ不透明な部分が多い。とはいえ、その方向を見通すうえでは、国際政治学における「ミドルパワー」の概念に目配りをしておくことが有用だろう。ミドルパワーの概念は、いわゆる「大国」ではないものの、国際政治に無視しえない影響を及ぼす国々の外交的な役割に分析の光を当てることを主眼として発展したものである。特に、冷戦が終結して大国間の権力政治が後景に退いた1990年代以降、カナダやオーストラリアの外交を事例として議論が展開されてきた。最近では、カナダのカーニー首相が2026年1月のダボス会議での演説で、大国が赤裸々な権力を振りかざす時代の到来を直視しつつも、ミドルパワー同士の協力を通じて国際秩序を立て直す道が残されていることを説き、広く注目を集めたことが記憶に新しい7。
通説的な理解に従えば、ミドルパワーとは単独で国際政治の展開に有意な影響を及ぼしうる「大国」とは位置づけられず、かといってもっぱら「小国」として大国間権力政治の客体であることを甘受するわけでもない国々のことである。そうした国々は、国際政治に影響力を発揮する手段として、多国間の協力を重視する。とりわけ、目的を共有するミドルパワー同士の連携が有効であるとされる。国際紛争の仲裁や国際的なルールの形成において主導的な役割を果たし、多国間協力を推進して国際秩序の安定に寄与することがミドルパワーの典型的な外交的振る舞いであり、特に貧困や保健衛生、気候変動や災害救援といった、大国間の権力政治とは一線を画した非伝統的安全保障の領域において、そうした取り組みは一定の成果を収めてきたことが指摘される8。
韓国は特に2010年代以降、こうしたミドルパワーの概念を積極的に受容し、外交政策に反映させてきた。例えば、2013年に「主要なミドルパワー国家間の協力メカニズム」9としてMIKTA――メキシコ、インドネシア、韓国、トルコ、豪州の5カ国からなる政府間の非公式協議の枠組み――の発足を主導したことは、その典型である。近年、韓国政府が自国を「ミドルパワー(中堅国)」として規定することは稀になったものの、ミドルパワーの概念は韓国外交のアイデンティティとしてすでに深く根づいている10。文在寅政権の「新南方政策」を端緒とし、尹錫悦政権下でインド太平洋戦略に結実したインド太平洋地域に対する韓国の政策的な関与は、非伝統的安全保障の分野における取り組みを主軸としたものであり、典型的なミドルパワー外交の実践として位置づけられるというのが筆者の理解である11。対米関係と対中関係の両立を図る李在明政権においても、こうした傾向は基本的に継続すると考えられる12。そしてそこでは、オーストラリアやインドネシアといった域内のミドルパワー諸国との連携も、積極的に追求されるだろう。事実、時に威圧的な手段に訴えることを辞さない中国との関係にも、また予測不可能性を最大の特徴とする米国のトランプ政権との関係にも、韓国は潜在的に大きな不安を抱えており、それに対するリスクヘッジとして、地域諸国間のミニラテラルな協力に期待を寄せる声は韓国の専門家からも多く聞かれる。
振り返れば、尹錫悦政権下において日韓関係が劇的な回復を果たした背景には、地域秩序をめぐって日韓両国が明確なビジョンを共有したことが大きかった。韓国での政権交代を経た今日においてもなお、尹錫悦政権の遺産を引き継いで、日韓関係は目下のところ極めて良好に保たれている。とはいえ、尹錫悦政権と李在明政権との間で地域政策のアプローチに質的な変化が生じた以上、インド太平洋をめぐって日韓両国間でも政策の調整が必要となる場面は出てくるだろう。その時に、カーニー首相の述べた視角は、日韓関係においても今日的な含意を持つように思われる。
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- 石田 智範
- 戦史研究センター国際紛争史研究室主任研究官
- 専門分野:
日米韓関係史、朝鮮半島の安全保障