NIDSコメンタリー 第419号 2026年2月6日 コンゴ民主共和国東部紛争の構図と経緯
- 政策研究部グローバル安全保障研究室主任研究官
- 大西 健
はじめに
約1年前、めったに日本で注目されることがないコンゴ民主共和国(DRC)における出来事が比較的大きく報じられた。それは3月23日運動(M23)という反乱軍がDRC東部の主要都市であるゴマを占領したというニュースであった。現在もDRC東部の紛争は収束しておらず、ゴマを含む広大な地域がM23の支配下にあり、戦闘・暴力が続いている。米国やカタールの仲介でDRC政府とM23およびそれを支援するルワンダとの間の和平交渉も行われているが、先行きは不透明である。
DRCの紛争は日本から遠いアフリカの地における出来事であるが、世界的な影響を与えうる紛争でもある。DRCはレアメタルを含む鉱物資源が豊富で、タンタルなどIT機器に使われる原料の産出地が紛争の舞台になっている。そのため、紛争の展開や和平の内容が世界経済のサプライチェーンに大きな影響を及ぼしうる。また、政府と反乱軍の双方が地域諸国の支援を受けており、事態の展開次第では複数の地域諸国が直接衝突するより大きな混乱の発火点にもなりうる。そこで本コメンタリーでは、この長期にわたる複雑な紛争について理解を深める一助となるべく、DRC東部の紛争の構図と経緯を解説する。
紛争の背景
DRCはアフリカ中部に位置し、日本の約6倍に相当する234.5万平方キロメートルの広大な領土を持つ国で、東隣のルワンダを含め9カ国と国境を接している。鉱物資源や原油を産出する資源大国でありながら、東部を中心に不安定な状況が何十年も続いている1。
現在まで続くDRC東部の紛争の経緯をたどるには、1994年のルワンダ大虐殺にまで時間をさかのぼる必要がある。当時のルワンダはフツ族主導政権が統治していたが、隣国ウガンダを拠点にするツチ族反乱軍の攻撃で1990年から内戦状態にあった。民族対立が激化する中、1994年4月にフツ族強硬派がツチ族の虐殺を開始、民族集団の破壊を目的とした暴力であるジェノサイドと後に認定された大虐殺に発展した。ルワンダ内戦は、攻勢を強めたツチ族反乱軍が7月に首都を制圧して終了した2。
敗走したフツ族主導政権、政府軍およびこれと協力して虐殺を展開した民兵組織の関係者、さらに報復暴力に晒された一般のフツ族市民は、隣国のザイール(DRCの当時の国名)へと逃げ込んだ。ザイール東部を拠点にしたルワンダ旧政権勢力は復権を目指し、ルワンダの新たな統治者となったツチ族主導のポール・カガメ新政権への越境攻撃を繰り返した。カガメ政権にしてみれば、ザイールに逃れた旧政権勢力は脅威であり、それを匿うザイールのモブツ・セセ・セコ政権も敵であった3。
そこでカガメ政権は1996年にルワンダ軍で直接ザイールに侵攻、さらにザイールの反政府勢力を支援して反乱を起こさせ、モブツ政権打倒に動いた(第1次コンゴ戦争)。ルワンダ軍が支援する反乱軍は1997年5月に首都を制圧、反乱軍指導者ローラン・デジレ・カビラ率いる新政権が成立した4。国名をザイールからDRCに変更したカビラ政権は、当初協力関係にあったルワンダの干渉を嫌うようになり、両国関係は険悪化した。そこでルワンダは再度DRCの反政府勢力を支援して1998年に反乱を起こさせつつルワンダ軍でDRCを侵攻、カビラ政権の転覆を試みた(第2次コンゴ戦争)。しかしDRC政府側と反乱軍・ルワンダ側それぞれを支援する地域諸国が介入して戦争が長期化した。2001年にはカビラ大統領が暗殺されて息子のジョゼフ・カビラがDRCの新大統領に就任、さらに各紛争当事者も疲弊していたことで和平の機運が高まり、交渉の末2002年12月に和平合意が結ばれて第2次コンゴ戦争は終結した5。
この和平合意ではカビラが大統領の座に留まりつつ反乱軍指導者らを政府高官として迎え入れ移行政権を設置し、反乱軍も政府軍に統合され、一定期間後に選挙を行うことが定められた6。しかし旧反乱軍の政党は戦争後の選挙で惨敗、権力を失った。そしてカビラ大統領も自身への権力集中を進め、法や制度よりも自身への忠誠を優先する統治体制を構築していった。軍の統合・再建でも階級の扱いや指揮官ポストの割り当てで多くの不満を生んだ7。ルワンダの目的も達成されなかった。DRC東部に逃げ込んだフツ族のルワンダ旧政府軍と民兵組織は第2次コンゴ戦争でDRC政府と協力してルワンダ側と戦い、その中でルワンダ解放民主勢力(FDLR)という武装勢力を結成した。和平を受けてルワンダ軍はDRCから撤退し、DRC政府とFDLRの協力も公式には解消されたが、FDLR自体はその後も武装活動を続けた8。
その結果、権力の輪からはじき出されて待遇に不満を募らせた勢力が、和平合意に基づく権力構造をこじ開けて地位を向上すべく新たな反乱を起こし、DRC東部への影響力拡大をもくろむルワンダがこれを支援するという展開が繰り返されることになった。先述の通り、自身への忠誠心を優先したカビラ政権の統治能力と政府軍の能力は低いままであり、国土東部に実効支配を確立することができなかった。反乱を鎮圧できないDRC政府は、可能な範囲で軍事的圧力をかけつつ、反乱軍に有利な条件で軍への統合を認めるという対応を繰り返した。この対応は暴力を使えば権力を手に入れることができることを意味したため、ますます反乱を繰り返す動機を提供することになった。さらに、不安定に晒され続けた東部住民も、コミュニティの自衛のために民兵を組織するようになった。結果としてコンゴ東部には権力拡大や自衛を目的とする武装勢力が乱立し、その数は現在では100を優に超えている9。
M23の誕生、敗北、復活
現在DRC東部の紛争で主要当事者となっているM23は、そうした武装勢力の中でも大規模なものの1つである。M23誕生の契機となったのは、前身の武装勢力である人民防衛国民会議(CNDP)がDRC政府と結んだ和平合意履行への不満である。2006年から活動していたCNDPもルワンダの支援を受けており、DRC政府との衝突と合意、その崩壊を何度か繰り返したのち、2009年に政府軍に統合された。政府軍への統合といっても、CNDPの指揮構造が実質的に残存したままで部隊の再配置も行われない、CNDPにかなり有利な形での統合であった。しかし政府側もこうした状況をよしとせず、軍改革の一環として旧武装勢力の指揮構造を解体して統制を強めようとした。旧CNDP勢力はこの試みが2009年合意に反するとして強く反発、軍から離反して改めて反乱を起こすにあたり2012年4月に結成したのがM23であった。その名称は、2009年合意が結ばれたのが3月23日であったことに由来する10。
反乱開始後、M23はルワンダ支援の下にDRC東部で支配地を広げた。M23は2012年11月にゴマを占領したが、この際は国際的非難とルワンダへの制裁を含む圧力を受け、1週間ほどで撤退した。DRC政府はその後も広い地域を支配したM23に単独で対処することができなかった。そこで、ルワンダの影響力拡大を嫌う他の地域諸国は、DRC政府を支援するために多国籍部隊を派遣することを検討、最終的にはDRCに展開する国連平和維持活動(MONUSCO)の中に、武装勢力無力化任務を与える「介入旅団」を設置し、地域諸国が兵力を提供することになった。DRC政府軍とMONUSCO介入旅団は2013年10月からM23に対する攻勢作戦を開始、11月にはM23の拠点をすべて攻略した11。軍事的に敗北したM23はルワンダやウガンダへ逃走、DRC政府との交渉の後、12月にM23の解散・武装解除と恩赦などを定めた宣言が署名された。しかしこの宣言は履行されず、M23の残存勢力がルワンダやウガンダに残存し続けていた12。とはいえ、軍事的に打倒されたM23はすでに過去の存在になったと思われた。
ところが2021年11月にM23は突如復活、DRC東部で政府軍と散発的衝突を展開するようになった。この復活の背景には、他の周辺諸国がDRCで進める影響力・権益拡大に対抗し、自国の影響力拡大を狙うルワンダの意向があったと指摘されている。M23は越境したルワンダ軍の直接支援の下で特に2022年5月以降大きく支配地を拡大した13。DRC政府は2018年の選挙を経てフェリックス・チセケディ政権に代わっていたが、DRC政府軍はMONUSCOの支援を受けつつもM23に対処できず、コミュニティにも自衛民兵の組織を呼びかけ、ワザレンド(愛国者の意)の名の下に動員してM23に対抗させた14。
DRCはさらに地域諸国にも支援を求めた。東アジア共同体(EAC)主導でDRC政府とM23を含む武装勢力との対話枠組み(ナイロビ・プロセス)が設置され、加えて、反乱軍を支援していると相互に非難しあうDRC・ルワンダ関係も、散発的な軍事衝突が発生するまでに対立が深刻化したため、アンゴラが両国の仲介に乗り出した(ルアンダ・プロセス)。さらにEACは2022年11月から多国籍部隊(EACRF)もDRCに展開した。EACRFの展開はM23の進軍を鈍化させ、2023年4月以降はDRC政府軍とM23の間で停戦が概ね維持されるようになった15。EACRFは紛争当事者間の緩衝材的に活動したが、DRCはより攻勢的にM23と対決することを望んでいた。この路線対立が原因となってDRC政府の同意を失ったEACRFは2024年1月に撤収した。政府軍とM23の停戦も半年ほどで崩壊し、再び戦闘が頻発するようになった16。DRCが次に頼ったのは南部アフリカ開発共同体(SADC)で、SADCも多国籍部隊(SAMIDRC)を2023年12月からDRCに展開し、DRC政府軍と共にM23・ルワンダ軍と交戦した。さらに2国間合意に基づいて自国反乱軍対処のためにDRCに部隊を展開していたブルンジも、M23・ルワンダ軍対処に協力して戦闘に加わった。加えて、DRC政府は民間軍事会社とも契約して支援を受けた17。
しかし、ルワンダ軍の直接支援を受けるM23が優位に立つ戦況は変わらなかった。2024年には仲介によりDRC政府とM23・ルワンダ政府との間にそれぞれ一時的に停戦が合意され、戦闘がやや下火になる期間もあったものの完全には収まらず、全体としては2024年を通じてM23の支配地拡大が進んだ18。さらにM23は2023年末、国家の再構築と紛争の根本原因解決を掲げてDRCの反政府勢力が合流し新設されたコンゴ川同盟(AFC)の軍事部門となった。これ以降のM23は従来のDRC政府との直接交渉要求を続けつつ、対話ではなくDRCの政権交代を目指すとの発言も増えた19。
ゴマ陥落から2025年末までの展開
M23は2025年1月に再度攻勢を強め、約3,000名が死亡したとされる一連の戦闘の後に同月下旬に北キブ州都のゴマを占領した。M23はさらに南進し、市街地での衝突を避けるために政府軍があらかじめ退却した南キブ州都のブカブも2月中旬に占領した20。SAMIDRCはゴマを防衛できず犠牲を出したことで3月に活動終了を決定、6月に撤収を完了した21。支配地を拡大し続けるM23を軍事的に押し返す見込みが立たない中、それまでM23との直接交渉を拒否してきたDRC政府も、ついに対話を受け入れざるを得なくなった。停滞するアフリカ諸国仲介の対話に代わり、カタールがDRC政府とM23の仲介、米国がDRCとルワンダ両政府間の仲介にそれぞれ乗り出し、新たな交渉が動き出した。
カタールを介したDRC政府とM23の交渉では、4月に即時停戦と停戦合意締結に向けた取り組みの継続を表明、7月には停戦の再確認と監視・検証メカニズム設置、信頼醸成措置、国家当局の全国土復帰、包括的和平合意締結に取り組むことなどを規定した原則宣言に署名した。そして11月には包括的和平合意のためのドーハ枠組みに署名、和平合意に向けて取り決めを具体化すべき分野を整理した22。
米国が仲介するDRC・ルワンダ両政府間の交渉では、まず4月に相互の主権尊重、武装勢力支援禁止、経済統合推進などを謳った原則宣言が署名された。6月には和平合意が署名され、相互の領土一体性尊重、敵対行為禁止、武装勢力支援禁止、FDLR無力化構想履行のための調整メカニズム設置、経済統合推進などが定められた。さらに12月には経済統合枠組が署名され、エネルギー、インフラ、鉱物資源などの分野での協力を、FDLR無力化とルワンダ軍のDRCからの撤収完了後に進めることが合意された23。
停戦合意を含むこうした和平努力の一方で、実際にはM23・ルワンダ軍とDRC政府軍・ワザレンド・ブルンジ軍との衝突が続き、M23の支配地域は徐々に拡大した24。そしてM23は12月中旬に南キブの主要都市であるウヴィラも占領、米国の圧力を受けて1週間ほどで撤退を表明したが、完全には撤退していないと指摘されている25。M23は南北キブのウガンダ、ルワンダ、ブルンジ国境沿いを中心にかつてなく広範な地域を支配している。M23支配地域内での暴力・人権侵害も深刻な状況が続いており、FDLR掃討作戦のほか、政府軍・治安機関、ワザレンド関係者の拘束や、FDLR関係者とみなした人々の大量拘束や虐殺が報じられている26。
おわりに
DRC政府はM23・ルワンダ軍の占領地からの撤退と、国土の統治回復を追求している。しかしM23は支配地域で政府の統治構造に代わる独自の統治体制構築を進めており、連邦制導入の下での東部の自治も主張して、支配地を手放さない姿勢を示している27。ルワンダは軍撤退の条件としてDRC政府によるFDLRの無力化を要求しているが、DRC政府軍の能力からしても、FDLR活動地域がM23・ルワンダ軍支配地域内に多いことからしても現実的ではない28。むしろM23・ルワンダ軍による攻撃が、それに対抗するためにDRC政府軍とFDLRの協力を促進している29。そもそも小規模化したFDLRはもはやルワンダにとって脅威ではなく、DRCに介入するための口実として使われており、実際はDRC東部における権益獲得こそがルワンダの目的であるとも指摘されている30。国際的な和平努力により一時的に暴力が下火になったとしても、最終的にはDRC政府の統治能力が向上しない限り、国内の反乱も、権益拡大を狙う周辺国の介入も終わることはないであろう。DRC東部の紛争は、依然として終わりが見えない状況にある。
Profile
- 大西 健
- 政策研究部グローバル安全保障研究室主任研究官
- 専門分野:
強要・強制外交、PKO