NIDSコメンタリー 第401号 2025年10月7日 全欧安全保障協力会議(CSCE)創設50年——汎ヨーロッパ国際機構の歴史と現状
- 戦史研究センター国際紛争史研究室 主任研究官
- 伊藤 頌文
はじめに
ウクライナ戦争が終結の兆しをみせず、ガザでの凄惨な戦闘がますます激化するなど、現代世界を取り巻く安全保障環境は困難の度合いを深めている。とりわけ、冷戦終結後の30年間にわたって相対的な平和を享受し、民主主義のもとで政治的自由や人権、法の支配といった価値規範を掲げてきたヨーロッパは、その内部と周縁部の双方で、かかる前提条件が根本から覆りつつある事態に直面している。
ウクライナやガザ、そして第二期ドナルド・トランプ(Donald Trump)政権の誕生により、ヨーロッパや世界の行く末に対する問題意識は否応なく高まった。欧州連合(EU)が初めての防衛白書を刊行したことは、大きな時代の変化を感じさせる1。経済統合体として出発したEUが政治統合を進め、北大西洋条約機構(NATO)がヨーロッパの安全保障を担うという棲み分けは、これからますます曖昧化していくかもしれない。
その一方で、2025年はヨーロッパ安全保障の方向性を決定付けた全欧安全保障協力会議(CSCE)のヘルシンキ最終議定書(Helsinki Final Act)が採択されてから、ちょうど50年の節目にあたる2。CSCEは冷戦終結後に欧州安全保障協力機構(OSCE)へと改組され、ロシアはもちろん中央アジアの国々までを包摂する、世界最大の地域安全保障機構としての役割を担ってきた。しかし周知のとおり、ウクライナをめぐるヨーロッパとロシアの緊張関係は、OSCEにおいても機能不全をもたらしている3。
かかる状況を反映してか、CSCE創設50周年に併せて歴史的経緯を振り返る学術的な動向は、相当程度に控えめな印象である。ヘルシンキでは大々的なシンポジウムが開催されたものの、現下の情勢にあって、その歴史的意義や現代的示唆を論じる機運が後景化した感は否めない4。しかし同時に、冷戦期の鋭い東西対立のもとで紆余曲折を経てCSCEが成立し、冷戦を乗り越えてOSCEへと発展した、半世紀にわたる命脈を保ってきたのも事実である。そこで本稿では、冷戦期を主たる対象として、ヨーロッパ国際関係史の立場からCSCEの歩みを瞥見し、若干の論点を提示してみたい。
全欧的安全保障機構の「神話」と実態
ヨーロッパ冷戦史において、CSCEは1970年代に進展した緊張緩和(デタント)の象徴として描かれることが多い。実際に、ヨーロッパ・デタントの到達点として戦後ヨーロッパ秩序を一定の形で固定化し、東西両陣営の平和共存を制度的に下支えした意義は大きく、以後のヨーロッパ国際関係を基礎付けることにもなった。また、ヘルシンキ最終議定書の通称「第三バスケット」が、東欧諸国の人権問題を取り上げる手段として活用され、ひいてはヨーロッパ冷戦の終結に隠然たる影響をおよぼしたという点もしばしば強調される5。
とはいえ、CSCEが当初から相応の役割を期待され、その後の展開も必然だったわけではない。むしろ、CSCEに結実するヨーロッパ・デタントの追求と、1975年以降の「ヘルシンキ・プロセス」と呼ばれるヨーロッパ安全保障の安定化の試みは、多分に歴史の偶然の産物であり、それに関わった関係者たちの粘り強い努力の結果であった。
そもそもCSCEの発端は、冷戦下のヨーロッパが東西に分断されるなかで、その現状維持を追認させようとするソ連・東欧ブロックの働きかけによるものであり、西側陣営は対応に苦慮することになった。また、交渉が具体化する局面で、会議の有効性への疑念はたびたび浮上した。有名なエピソードとして、アメリカのヘンリー・キッシンジャー(Henry Kissinger)国務長官は、成果文書を「スワヒリ語で書こうが知ったことではない」とまで発言している6。さらに、ヘルシンキ最終議定書が採択された段階においても、東側陣営の政治体制に鑑みて実効性は乏しいと考えられた7。
すなわち、CSCEが有した役割や意義は、当初から想定されたというよりも、むしろ以後の歴史的展開のなかで作り上げられたものであった。そして、超大国デタントが退潮から崩壊に向かった一方で、ヨーロッパ・デタントは曲がりなりにも継続性を保ったが、そこにはCSCEという舞台装置に価値を見出し、「ヘルシンキ・プロセス」を追求したヨーロッパの当事者たちの努力が欠かせなかった8。厳然たる東西対立が続く時代にあって、CSCEは軍事的にも政治的にもヨーロッパ安全保障の一翼を担う存在として、同時代的に「再発見」されたといえる。この点は、CSCEプロセスの「脱神話化」ともいうべき作業を通して浮かび上がる、歴史の興味深い一面であろう。
対話の「場」としての機能?
ヨーロッパ冷戦の現実のもとで、CSCEは東西間の信頼醸成という機能を与えられ、当初の想定を超えて後年の事象に影響していった。なかでも、ヘルシンキ最終議定書の採択後も定期的に開催されたCSCEの再検討会議において、東側の人権問題が厳しく追及され、それが1980年代末の政治変動の遠因になったとする見方もある。しかし同時に、異なるイデオロギーや政治体制をもつ勢力間の対話の場を提供する存在として、CSCEが果たした役割はきわめて大きかった。
実のところ、複数回開催された再検討会議は、必ずしも順調に進んだわけではなかった。最初のベオグラード再検討会議(1977~78年)では、東欧諸国の人権問題をめぐって議論が平行線を辿り、成果文書にこの問題を盛り込むことができなかった。次のマドリード再検討会議(1981~83年)も、ポーランド問題を筆頭に、しばしば議論が紛糾した。だが、最終的には欧州軍縮会議(CDE)の開催で合意に至り、人権問題も引き続き議題として取り上げられた。ウィーン再検討会議(1986~89年)の時期には、ソ連の体制変革という追い風も相俟って、ヘルシンキ最終議定書の理念がより強く意識された。
かかる一連の経過は、仮にCSCEという対話の機会が開かれていなければ、途中で頓挫していた可能性も十分に考えられる。その意味で、埋めがたい意見の相違を前提としながら、東西両陣営の諸アクターが一堂に会する「場」としてのCSCEの存在は、今日からみても示唆的であろう。現在もOSCEはヨーロッパとロシアの数少ない接点であり、是非や成否はさておき、外交交渉の余地が残されている事実は無視できない。
ウクライナ侵攻によってロシアは多くのヨーロッパ国際機構から締め出されたが、それは同時に接触の機会が失われることを意味する。たとえば、ヨーロッパにおいて人権、民主主義、法の支配を司る欧州評議会は、2022年3月にロシアを除名するに至った。これは、1969年に軍事政権下のギリシャが事実上の追放処分を受けて以来の出来事であった。ところが、ギリシャの場合は欧州評議会の影響力が失われたことで、軍事政権による暴力的な人権抑圧がさらに激化する事態を招いた9。異質な政治体制を論難することは容易いが、その勢力を国際的な枠組みから排除すれば良いという単純な図式では捉えきれない、国際政治の現実が看取されよう。ましてロシアは歴史的にヨーロッパ列強の一員であり、核兵器を保有する大国である点は論を俟たない。だからこそ、OSCEという「場」の存在は、今後の展開次第で大きな意味をもつ可能性を帯びる。
対話の可否をめぐって
ただし、議論の前提として、そもそも対話が成立するか否かという大問題がある。ウクライナをめぐる現状に加えて、核の恫喝やNATOへの挑発もみられるなかで、少なくともヨーロッパ側に妥協の余地はない。第二次世界大戦前の悪名高いミュンヘン会談において、アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)の要求を呑んだイギリスの宥和政策は、結局のところ戦争を止められなかった――この歴史的教訓がしばしば引き合いに出されるのは、多くの人々が当時の空気感と今日の情勢を重ね合わせているからこそであろう。
良かれ悪しかれ維持されてきた国際秩序が揺らぎ、一応の了解事項として受け入れられてきた国家主権や人権規範が蹂躙される状況において、安易な外交的解決の模索はむしろ悪手となろう。分断と分極化がますます進む世界にあって、ヨーロッパに再び出現した戦争という究極の危機は、CSCEの理念を受け継いだOSCEにも大きな課題を突き付けている。
付記
筆者は2024年から25年にかけてイタリア・フィレンツェに所在する欧州大学院(EUI)にて在外研究をおこなう機会に恵まれた。ヨーロッパ研究の一大拠点であるEUIには世界中から一流の研究者や実務家が集い、自由闊達な議論に花を咲かせながら、多様な専門分野の最新の研究が生み出されている。かかる贅沢な環境に身を置くことができたのは、ヨーロッパ国際関係史の一学徒としてこの上なく幸せであった。その意味で、本稿は筆者のささやかな帰国報告でもある。
Profile
- 伊藤 頌文
- 戦史研究センター国際紛争史研究室主任研究官
- 専門分野:
ヨーロッパ国際関係史、イギリス外交史・帝国史