NIDSコメンタリー 第369号 2025年4月9日 インド・中国国境問題の現在地——中国の意図を探るインド、協調には復帰せず
- 地域研究部アジア・アフリカ研究室主任研究官
- 伊豆山 真理
対立と協調のインド・中国関係
インドと中国は、国境問題や近隣諸国における影響力をめぐって対立を抱える一方で、緊密な経済関係を背景に、BRICSの枠組みあるいは二国間で協調してグローバルな秩序の変革を求め、米国と対峙してきた。国境地帯における両国の衝突は、2012年から間髪的に生起していたが、軍事的エスカレーションは管理され、最終的にはトップレベルで政治的解決がはかられるというパターンが繰り返されてきた。しかし2020年6月、ガルワン渓谷におけるインド・中国間の軍事衝突は、両国軍隊に45年ぶりの死傷者をもたらし、国境地帯における緊張を一段高いレベルに引き上げた。その後、両国の首脳が公式会談をもつまでには4年の歳月がかかった。首脳会談は、2024年10月ロシアのカザンで開催されたBRICSサミットの機会に設定された。その前日、撤退に関する合意が成立したことが公表された。この合意は、国境における膠着状態が収束にむかうことを意味するのか。ガルワン渓谷における衝突は、インド・中国間の協調と対立のサイクルの1つにすぎないのか。あるいは両国関係の特徴とされる協調と対立の両義性を大きく変える転換点となるのか。
ガルワン渓谷における軍事衝突の経緯と解決に向けた動き
2020年6月15日夜半、西部の実効支配線付近に位置するガルワン渓谷において軍事衝突が発生し、インド軍に20名、中国軍に4名の死者が生じた。この軍事衝突に先立って、国境各地点での衝突が続いていた。5月5日、ラダック東部のパンゴン湖で両軍合わせて400人規模の衝突、5月10日にはシッキムのナトゥーラ峠でインド兵11人が負傷する衝突が生じていることが報道されている1。これらの事案を受けて、6月6日、両国現地指揮官の会合である「高級指揮官会合(SHMCL talks)」が開催され、インド側からは、レーに置かれた第14軍団司令官、中国側からは南疆軍区司令官が参加した2。会合は「前向きかつ友好的な雰囲気」で行われ、両者は「国境地帯の状況を平和的に解決することに合意」したという声明が発表された3。しかしながら、次の衝突が6月15日夜半に発生し、インド陸軍は即時に死傷者の発生を発表した4。翌日記者会見に臨んだインド外務省報道官は、「暴力的な囲い込み(fence-off)」によって、両軍に死傷者が生じたことを認め、「中国側による一方的な現状変更の企図」の結果であると断じた5。
その後、両国による緊張緩和にむけた対話は以下の経過をたどった。高級指揮官会合のほか、外交・軍事専門家レベルによる「作業メカニズム会合」が積み重ねられ、7月5日に「特使会合」として、予め特使に定められていたアジト・ドバル・インド国家安全保障顧問と王毅中国外交部長との間で電話会談が行われた。特使会合の結果、係争地点の一つで撤退の合意が成立した6。
しかしその他の地点に関する撤退の合意は成立せず、両軍のにらみ合いと外交当局間の非難の応酬が続いた。9月10日、SCO外務閣僚会議の機会に開催された両国外相会談において、初めて政治レベルでの合意として共同声明が発表された7。共同声明には国境部隊の対話・撤退・兵力引き離し、作業部会会合の継続、国境地帯における平和と安寧の維持など、広範かつ緩やかな合意が盛り込まれ、双方がエスカレーションを望んでいないことが示されている。しかし、ほぼ同時に両者が個別に発表した声明からは、明らかな相違が読み取れる。中国側が国境問題を棚上げにして両国関係の改善を図ろうとしているのに対して8、インド側は、まず国境地帯からの撤退がなければ関係改善もなしという姿勢を崩さなかった9。この相違は、今日まで継続している。
中国はなぜ国境において攻勢に出たのか―既存研究から
2024年12月、ラウトレッジ社の学術誌『インディア・レビュー』は、「中国はなぜ係争地の境界を越えて侵入(intruded)したのか?」と題する特集を組んだ。編者は上海国際大学のラージ・ヴェルマで、執筆陣は米国、英国、豪州、インドの大学教員や米国、インドのシンクタンクに籍を置く研究者であるが、1名を除きインド系である。その意味で、戦略論のディシプリンに依拠しつつも、学術論文というよりはインドに対する政策提言に近い。また、特集号のタイトルにみられるように、ガルワンにおける軍事衝突が中国側の攻勢に起因するという前提を共有している。
著者たちがインドを「現状維持」側とみなす暗黙の立脚点は共通しているが、分析には幅がある。最も相違がみられるのは、中国の行動を「弱さ」の表れとみるのか、「強さ」の表れとみるのかという点である。弱さの表れとみる議論は、コロナ対応における中国の国内的・国際的脆弱性10、あるいはインドによるジャンムー・カシミール州の自治の剝奪とラダックの直轄領化が中国に与えた脅威11が、中国を軍事行動へと追い込んだと見立てている。反対に強さの表れとみる議論では、中国のパワーの増大こそが領土に対する強硬な主張へと向かわせていると主張する12。中国が50年代からすでにサラミ・スライス戦略を採っていたとするキングス・カレッジのリシカ・チョーハンも、2020年に中国がようやく実現させたと考える点で、中国の強さに要因を求める議論の類型であろう13。
論者の見方が分かれる第2の点は、米印間の戦略的関係深化が中国にどのような影響を与えたのかという点である。デリーのシンクタンクであるオブザーバー・リサーチ財団(ORF)に属するハーシュ・パントとヴィヴェク・ミシュラは、米印関係の緊密化が中国の行動の最大の要因であると主張する。パントらは、2017年のブータン領ドクラムにおける中国の越境は、米国との接近に対する不快感をインド側に伝える中国のメッセージであったと振り返る14。豪マッコリ大学のダルビル・アッラワトも、中国の越境は米印の連携に対する「懲らしめ(teach lesson)」であったとする15。一方、米印の戦略的関係における米国のコミットメントが相対的に「弱い」ことが、中国の軍事行動を促進したとみるのは、米ジョージ・メーソン大学のケティアン・ツァンである。ツァンは、国境における中国の「強制」が成立する要因を、対象国によるバランシングの成否に求め、インドによるバランシングの可能性は低いと主張する。ツァンによれば、インド・中国国境にかかる米国の利益は、南シナ海と比較してはるかに小さく、米国の介入可能性がないと中国は見積もった16。
このように、中国の攻勢の背後にある意図に関する評価について、既存研究の間で見解の一致はみられない。
撤退合意をどうみるか
2024年10月22日、BRICS首脳会議を翌日に控えたロシアのカザンにおいて、インド外務次官は、撤退に関する「合意が昨日成立した」と記者団に語った17。インド側にとってこの合意の意義は、実効支配線のいくつかの地点の警備が可能となったことであった18。合意にいたる準備として、9月12日にロシアのペトルスブルグで開催されたBRICS安全保障補佐官会議のサイドラインで、国境問題特使であるインドのアジト・ドバル安全保障顧問と王毅外交部長とが会談を行っていた19。合意の成立には、ロシアの働きかけがあったとみられるが、それについては公式発言も報道も見当たらない。BRICSの開催を円滑にするためにインドと中国が矛をおさめたのであれば、2017年のドクラム危機と類似の経過である。
それでは、ガルワン危機も収束に向かい、インド・中国間は2020年に始まる対立期から協調のサイクルへと入るのだろうか。筆者は、協調には戻れないと考える。その理由は、第1に、国境問題を棚上げして総合的関係を追求する中国と、まずは撤退に合意し履行の検証を求めるインドとの相違点が、払しょくされていないことである20。第2に、インドによる米国やQuadとの協力に対する中国の不快感が、今後も中国を攻勢的にさせることが予想されることである。9月12日の特使会談後王毅外交部長は、インド・中国両国が「独立を遵守しなければならない」として、欧米の「影響力」を受けるインドを暗にけん制している21。
インド国内では、撤退合意に対する中国のコミットメントが疑念をもってみられている22。野党であるインド国民会議派は、ジャイシャンカル外相の「我々経済小国は経済大国に戦争をしかけることはできない」という発言をとらえて、「モディ政権の小心さ」が撤退合意に表れているとして批判している23。
トランプ政権が成立した年明け以降、米国からの「関税戦争」の圧力を受ける中国側が、インドに対して一時的に譲歩しているのであろうという見方が出現している24。インド側は、現時点で中国との協力に本気で回帰するつもりはないとみられ、経済安全保障分野での日米豪との関係強化をとおして、自らの力を蓄えていく方向にあると考えられる。
Profile
- 伊豆山 真理
- 地域研究部アジア・アフリカ研究室主任研究官
- 専門分野:
インドの外交と安全保障