NIDSコメンタリー 第364号 2025年2月4日 「過去」を克服した日比関係 —— マニラ市街戦80年
- 研究顧問
- 庄司 潤一郎
この2月、大東亜戦争におけるマニラ市街戦から80年を迎える。同市街戦について、日本ではほとんど知られていなかったが、後述するように、天皇皇后両陛下(現在の上皇上皇后両陛下)がフィリピン御訪問に際して言及されたことから注目を浴びた。
マニラ市街戦は、戦争末期の1945(昭和20)年2月3日から3月3日まで続いた日米両軍の戦いで、日本軍約17000人、米軍約1010人に加えて、約10万人の市民が巻き添えで犠牲になったと言われる。当時、「東洋の真珠」と呼ばれたマニラの美しい市街地は、徹底的に破壊され灰燼に帰した。特に、「剣(日本軍の銃剣)と炎(米軍の無差別砲撃)による恐ろしい死」1と称され、日本軍による民間人殺害が頻発した2。
マニラ市街戦に象徴されるように、日米両軍の戦場となったフィリピンは全土で甚大な被害を受けた。フィリピンにおける日本人の犠牲者数は、約51万8000人(兵士:約49万8600人)で、単一の戦域としては中国を凌駕して最大である。他方、フィリピン人の犠牲者数は、全人口の約7%に当たる約111万人と言われる。
特に戦争中の日本軍の所業と日本による過酷な軍政は、フィリピンの人々の心に深い傷跡を残した。しかし、80年後の現在、両国は極めて良好な信頼関係により結ばれている。
そこで、本稿では、日比両国が、いかにして戦争の傷跡を乗り越え、「憎しみ」から「赦し」、そして「和解」を達成したのかについて考察する。
「赦し」の兆し-「隣人(隣国)」としての認識
戦争直後のフィリピンは、日本軍による甚大な犠牲が生じたことから、対日感情は憎しみに満ちたものであった。したがって、フィリピンにおけるBC級戦犯裁判は厳しいものであり、訴追された被告151人の内137人(90%以上)が有罪、79人(約60%)が死刑を宣告された。
一方、戦後直後においても「憎しみ」から「赦し」へと転換する兆しは存在していた。エルピディオ・キリノ大統領は、マニラ市街戦で妻と子供3人を日本軍により殺害されたにもかかわらず、1953年7月、死刑囚56人を含む105人の戦犯全員の恩赦を行ったのである3。
大統領は常々、「私たちは憎しみや恨みの気持ち、あるいは隣人に対する否定的な精神を永遠に持ち続けるわけにはいきません」と語っていたが、恩赦の大統領声明では、以下のように述べられていた4。
「我が国に長く恩恵をもたらすであろう日本人に対し、憎悪の念を残さないために、この措置を講じたのである。結局のところ、日本とフィリピンは隣国となる運命なのだ」
1958年12月に、戦後フィリピンの国家元首として初めて来日したカルロス・ガルシア大統領も、国内外の反対を押し切って、米国に次ぐ第二の訪問国として日本を選び、日比両国の将来のために政治生命をかけているとさえ評された5。戦後国際社会に復帰した日本にとっても、外国国家元首夫妻の訪日としては初めてという意義深いものであった。
大統領は、宮中晩餐会などにおいて過去をめぐる厳しい発言を吐露する一方、日本到着に際して、日本国民に対して以下のようなメッセージを発した6。
「日比両国は隣人そして友人となるよう運命づけられている。破壊的な戦争が両国民を離れさせたが『時』は戦争の傷を急速にいやしている。苦い思い出にふけるよりは両国民は再び戦争を起させないとの堅い決心に身をていすべきである」
国会における演説でも、訪問が、「世界のこの一隅においてよき隣人として共存したいという日比両国民の希望を一層強化する」ことに寄与すると確信するとして、以下のように述べた7。
「日比両国が地理的に近接し、歴史的にも近い関係にあったことは両国の友好関係が必要であり、必然でさえあることを示すと思われます」
両大統領により表明された日本に対する「隣人(隣国)」としての認識は、逆に多くの日本人はほとんど感じていないだけに特筆すべきである。このような認識を背景として、日比関係は徐々に改善していき、1956年7月に賠償協定の締結により対日平和条約が発効し、国交を回復するにいたった。
ちなみに、フェルディナンド・R・マルコス(Jr.)大統領も、2023年2月の訪日に際して、日本を「近しい隣人で最も信頼できるパートナーである日本との絆を強化したい」と述べていた8。
「憎しみ」から「赦し」へ-フィリピンの日本軍戦没者への眼差し
1962年11月に、皇太子ご夫妻(現在の上皇上皇后両陛下)が、昭和天皇の名代としてフィリピンを御訪問された。厳しい反日感情が憂慮されたが、懸念とは逆に想像以上の大歓迎を受け、御訪問を契機に、フィリピン国民の日本に対する厳しい感情も徐々に変化していった。
日比関係の専門家である中野聡氏は、良好になっていった日比関係の背景として、フィリピン側には、ODA(政府開発援助)による最大の経済支援や日本企業の進出・投資など経済的な面における「沈黙は金」といった外交上の配慮があったと認めつつ、それだけでは説明できないと指摘する。すなわち、フィリピンの赦しと寛容な態度に対して、日本側も政府間レベルはもちろん、遺族の慰霊巡拝や遺骨収集などの民間においてなされたお詫びや謙虚な姿勢で応じたことにより、日比両国は、戦争直後のフィリピンにおける厳しい感情を、お互いの「赦しと謝罪」の好循環によって克服し、良好な関係を築き上げてきたというのである9。
最近では、2006年2月、マニラ市街戦61年を追悼する式典において、山崎隆一郎駐フィリピン大使は、「歴史的事実であるマニラの悲劇的な運命に対し、私の心からの謝罪と深い良心の呵責を伝えたい」と遺族に謝罪すると同時に、「日本政府はこの恐るべき第二次世界大戦の教訓を風化させることを許さず、二度と戦争を起こさないで世界の平和と繁栄に貢献する決意である」と述べた10。
昨年8月に、カリラヤの「比島戦没者の碑」で行われた戦後79年の日本大使館主催の戦没者慰霊祭において、岡本和典マニラ日本人会会長も、「この戦禍により、日本人犠牲者の倍する実に110万以上のフィリピンの方々が犠牲に成ったことも忘れてはなりません」と想起の重要性に触れたのち、「戦時下の恩讐を超えたフィリピンの人々の赦しの心、そして我々の先人達のたゆまざる努力により、日比両国は現在の、大変緊密な関係を築くことができました」と追悼の辞を述べていた11。
他方、日本人の慰霊巡拝を迎え入れたフィリピン国民が有していた日本軍戦没者への眼差しも、無視することはできない。1973年3月、海外で最初の日本人戦没者の慰霊碑である「比島戦没者の碑」が、カリラヤに建立された。慰霊碑の建立については、遺族などから強い要望があったものの、フィリピンの国民感情などから具体化しなかったが、漸く実現したのであった。
慰霊碑の除幕式において、フェルディナンド・E・マルコス大統領(現在のフェルディナンド・R・マルコス(Jr.)大統領の父)は、慰霊碑を、両国民を引き裂いた戦争のシンボルとするのではなく、現在両国が有する民主的価値観及び諸制度を基として相互の深い尊敬のシンボルとすべきであると述べ、さらに日本軍の戦没者について以下のように述べた12。
「我々は彼等が尊厳と犠牲の精神をもって戦い、誰も非難することの出来ない勇士であったことを承知しております。我々は彼等がその民族のため、国家のため、天皇ために戦ったことを承知しております」
さらに、マルコス大統領は、1976年1月、慰霊碑に併設された慰霊公園の開園式の式辞において、経験した苦しみを通して寛容な心を持つことができるとしつつ、以下のように述べた13。
「我々が望まなかった戦争をもたらした憎き敵の兵士としてではなく、彼等もまた自分の身命と名誉を大義のために捧げた愛国者の姿として-許しではなく、敬意を彼らに与えようではないか。彼らに敬意を払うことによって、彼らに安らかな眠りを与えようではないか」
一方、民間では、フィリピン人のダニエル・ディソン氏は、1974年に神風特別攻撃隊の最初の出撃基地とされるマバラカット飛行場(ルソン島)の跡地に特攻隊慰霊碑を建立するとともに、のちに自宅に「カミカゼ博物館」を開設した。建立の動機は、ディソン氏が戦争中の少年時代に日本軍と接することにより、特攻隊に象徴される忠誠心、規律や愛国心に感銘を受けたことであった14。
ディソン氏の長男リベラトゲデオン・ディソン氏は、2022年11月、越川和彦駐フィリピン大使から、慰霊碑の維持・支援に尽力した功績により、「在外公館長表彰」を授与された。大使は、「両国の歴史において、より思いやりのある視点を広め、両者の深い理解の育成に努めた」と称えた15。
1974年3月、フィリピンのルバング島で小野田寛郎元陸軍少尉が救出されたが、その際マルコス大統領は、「この勇敢な日本の軍人を無事救出できたことをうれしく思う」と英雄を遇する態度でもてなした16。降伏後下山する日本軍兵士に向って石を投げつけた光景とは、全く異なっていたのであった。
このように、フィリピン国民の日本軍戦没者に対する認識も、関係を改善していく大きな一因であったことは否定できないであろう。
また、あるフィリピン大学の教授は、1978年、すべての日本将兵が残虐であったわけではなかったことを示す証言を集めた著書を刊行したが、「はじめに」において、日本軍の残忍さを認めたうえで、以下のように述べていた17。
「国民に関しては、暗い面を言い立てるよりは、よい面について語るべきだと信じている。・・・彼らの残酷な仕打ちは、激情と憎しみの頂点で起きたものだと考えれば、理解できぬものではない。そしてその影響は永久に続くものではない。時が癒すことのできない傷や苦悩はないのである。・・・いまや、フィリピン人と日本人が平和のために和解するときがきている」
日本軍の残虐行為は批判しつつ、日本軍全体を一括して断罪するのではなく、国のために殉じた戦没者に国境の隔てなく敬意を表するフィリピン国民の姿勢を物語っている。
「和解」の達成
2015年6月、訪日したベニグノ・アキノ3世大統領は、宮中晩餐会において、「過去に経験した痛みや悲劇は、相互尊重、尊厳、連帯に根ざした関係構築に努めるという貴国の約束によって、癒されてまいりました」と述べた18。さらに、衆参両院合同会議における演説でも、「貴国は、過去の傷を癒す義務を果たす以上のことを成し遂げ、真に利他的な意志をもって行動しました」とまで言及したのであった。
アキノ大統領の根底には、「フィリピンの真のパートナーは世界に二つしかない。米国と日本だ」といった認識があった19。
当時、このようなフィリピンの姿勢に、同様に多大な被害を受けた中国は、驚きをもって受け止めていた。例えば、中国メディアの『新浪』は、日比首脳会談直後の6月10日に、「なぜフィリピンは第二次世界大戦における日本軍の罪行を過去のものとして、咎めないのか」と題する論説を掲載していた20。アキノ大統領の発言が、いかに画期的なものであったかを物語っている。
2016年1月、天皇皇后両陛下は、国交正常化60周年の国際親善と慰霊を目的として、天皇として初めてフィリピンを御訪問されたが、戦争の記憶もあり、ASEANの原加盟国(5か国)の中で最後の御訪問国であった。
東京国際空港の御出発に際して、陛下は、「中でもマニラ市街戦においては、膨大な数に及ぶ無辜のフィリピン市民が犠牲になりました。私どもはこのことを常に心に置き、この度の訪問を果たしていきたいと思っています」と、マニラ市街戦に言及された。
戦争直後、GHQの提供により各紙に連載された「太平洋戦争史」では、「マニラ、狂乱の殺戮」として取り上げられたが(たとえば、『朝日新聞』1945年12月14日)、その後歴史教科書をはじめとして取り上げられることはなかったため、現在多くの日本人は、南京事件は知っていても、マニラ市街戦は知らないであろう。そうした中、陛下が出発に際しての御言葉として述べられた意味は大きいものがあった。
ついで、マニラでの晩餐会において、以下のように述べられた。
「この戦争においては、貴国の国内において日米両国間の熾烈な戦闘が行われ、このことにより貴国の多くの人が命を失い、傷つきました。このことは、私ども日本人が決して忘れてはならないことであり、この度の訪問においても、私どもはこのことを深く心に置き、旅の日々を過ごすつもりでいます」
一方、アキノ大統領は、両陛下をお迎えした晩餐会において、「こうした歴史の上に、両国は以前よりもはるかに揺るぎない関係を築いてきました。貴国は堅実で有能かつ信頼できるパートナーとして、今日まで我が国民の発展を後押ししてくださっています。・・・貴国から受けたすべての恩恵に対し、フィリピン国民を代表して、貴国の言葉で『どうもありがとうございます』と申し上げます」と述べた。前年の日本訪問時に続いて、重ねて日本に対する感謝の意を表したのであった。
2023年2月に来日したマルコス大統領も、首脳会談において、日比関係について、「地域で最も強靱かつ強力で信頼の深い友人関係にある」と表していたのである21。
このような政治家の姿勢は、フィリピン国民の良好な対日感情を反映していた。2023年3月にフィリピンの政治コンサルタント会社「パブリカス・アジア」が行った世論調査によれば、日本への信頼度が92%で、対象国のなかでトップであった(次いでオーストラリア、カナダ)22。
ほかの世論調査もほぼ同様の傾向であり、フィリピンの日本に対する高い信頼感は、「戦争の記憶」は最早日比間のアキレス腱(弱点)ではないと分析された23。確かに、2013年7月に米国のシンクタンクであるピュー・リサーチセンターが行った世論調査において、歴史問題に関する「日本は1930年代と40年代に行った軍事行動について十分に謝罪したか」との問いに対して、フィリピンは、「十分謝罪した」29%、「謝罪は必要ない」19%、「十分には謝罪していない」47%である。一方、対照的に、中国は、「十分謝罪した」4%、「謝罪は必要ない」2%、「十分に謝罪していない」78%、韓国は、「十分謝罪した」1%、「謝罪は必要ない」1%、「十分に謝罪していない」98%という結果である24。
アキノ大統領の訪日に際して、両国間で出された「日比共同宣言」(2015年6月4日)には、以下のように記されていた。
「この70年間の歴史は、ある二つの国の国民が、過去の問題を乗り越え、強固な友好関係を構築するに当たり、そのたゆみのない努力によって顕著な成果を達成し得ることを世界に示している」
戦後の日比関係は、苦い過去を乗り越え新たな信頼関係を築き上げた数少ない例であり、ある意味で和解のモデルを世界に示しているのではないだろうか25。
安全保障協力の強化-「自由で開かれたインド太平洋」を目指して
「和解」を成し遂げた両国は、2010年代以降、南シナ海など中国の軍事的台頭を受けて、安全保障分野での協力も強化しつつある。
2011年9月、アキノ大統領訪日時に、野田佳彦総理とともに公表した「特別な友情の絆で結ばれた隣国間の『戦略的パートナーシップ』に関する日・フィリピン共同声明」では、両国関係を「戦略的パートナーシップ」と位置付け、安全保障分野では、海洋を中心とした両国の防衛当局間の交流及び協力を推進していくことで合意した。
さらに、2013年7月フィリピンを訪問した安倍晋三総理は、アキノ大統領との会談において、自由で開かれた海洋を守るために、特に海洋分野での安全保障協力を推進していくことで一致した。ちなみに、大統領は、集団的自衛権の行使を容認した閣議決定や安全保障法制など安倍政権の「積極的平和主義」を支持していた。安全保障観と密接に関連している歴史問題についても、日本は既に謝罪している一方、戦後は平和に貢献してきたことは疑いの余地がないと問題視することはないとの認識であった26。
その後、南シナ海における海上自衛隊とフィリピン海軍の共同訓練実施、巡視船の貸与、防衛装備品・技術移転協定の締結、同協定を受けたフィリピン海軍への海自練習機「TC90」の貸与、陸自多用途ヘリコプター「UH-1H」の部品等の無償譲渡など日比両国間の安全保障協力の強化が着実に進められている。
2022年4月には、日本とフィリピンとの間で初めての外務・防衛担当閣僚会議「2+2」が、日本において開催された。日本にとっては9か国目(アジアでは、インドネシア、インドに次いで3か国目)、フィリピンにとっては、米国に次いで2か国目である。
同年12月には、F15の戦闘機部隊が派遣され、比空軍との部隊間交流が実施された。戦闘機の派遣は、米国、豪州に次いで3か国目、東南アジアでは初めてという画期的なことであった。
2023年6月には、シャングリラ会合(シンガポール)に際して、初めての日米豪比防衛相会談が行われ、「自由で開かれたインド太平洋」の実現に向けて、4か国の協力拡大に共に取り組むことを確認した。
さらに、2024年4月、初めての日米比首脳会談が、ワシントンにおいて開催され、防衛当局間協議や共同訓練などを通じた安全保障・防衛協力のほか、海上保安機関間の合同訓練など連携・協力を通じた海上保安協力を引き続き強化していくことで一致した。
同会談に際して、ホセマヌエル・ロムアルデス駐米フィリピン大使は、相互防衛義務がある条約上の同盟国である米国と並んで、「日本は最も重要な同盟国」であるとして、日比関係を「同盟国」並みに引き上げたいと表明した。具体的には、自衛隊をフィリピンに定期的に一時派遣するローテーション展開にも言及した。また、米比両軍による南シナ海での合同パトロールへの自衛隊の参加にも期待感を示したのであった27。
2024年7月、2回目の日比間による「2+2」が開催されたが、それに先立ち、両国間で、自衛隊とフィリピン軍の協力を相互に容易にする「円滑化協定」(RAA)に署名した。日本がRAAを締結するのは、「準同盟国」と位置付ける英国、豪州に続いて3か国目である。
このような両国間の安全保障協力進展の一因に、フィリピンと中国との間で衝突が頻発している南シナ海情勢の悪化があることは言うまでもない28。日本とフィリピンは、ユーラシア大陸の東に位置するアジアの島国として、「自由で開かれたインド太平洋」の維持・強化という海洋の自由など海洋の安全保障に関して利益を共有しており、加えて、ともに米国の同盟国でもある。
前述したガルシア大統領は、国会の演説において、アジアにおける共産主義の拡張を念頭に、相互の安全保障の観点から、「古い隣人」である日比両国は友好関係の促進が不可欠であるとして、以下のように述べていた29。
「現在巨大な規模の不吉な劇がわれわれの眼前に展開されております。その地理的な位置のため、日比両国はこの危険に脅かされています。われわれはこの劇で積極的な役割を果たさねばなりません。極東において民主主義のよき影響を受けた二つの国として、われわれはこの地域の平和が維持されるよう一致団結せねばなりません」
厳しさを増す世界の安全保障環境下にあって、今後予想される第2の「不吉な劇」に対して、日比両国がより安全保障協力を強化していくことが期待されている。
おわりに-「黄金時代」を迎えた日比関係
戦後日比両国は、大東亜戦争下の日本軍の行為に起因するフィリピンにおける苦い過去を乗り越え、新たな協力関係を築き上げてきた。
菅義偉総理は2021年、日本とフィリピンの国交正常化65周年、戦略的パートナー10周年に当たり、「日本とフィリピンは、自由、民主、法の支配といった普遍的価値を共有する戦略的パートナーであり、両国関係は『黄金時代』を迎えています」と挨拶した。2017年10月に訪日したロドリゴ・ドゥテルテ大統領も、「日本は兄弟より近い友人であり、日比関係は黄金時代を迎えている」と述べていたのである。
一方、そのような状況に安住するのではなく、フィリピンでは、過去の歴史に対する忘却への危惧が存在することも、日本人として留意しなければならないであろう。
例えば、フィリピン大学のリカルド・ホセ教授は、戦後70年に際して、かつての日本人の「平衡感覚」が失われつつあるとして、以下のように指摘した30。
「友好関係は大切だが、フィリピン人の心の深い部分にある気持ちを敏感に感じ取り、謙虚になるためには過去を知らねばならない」
日本人として、今改めて、二つの「過去」を銘記しておく必要があるのではないだろうか。第一に、上皇陛下が「日本人が決して忘れてはならない」と言及されておられる、戦争という「過去」、すなわち日本がフィリピンに及ぼした加害の歴史である。フィリピンの人々は、しばしば「許すことはできても、忘れることはできない」と口にするのである。
昨年11月、マグサイサイ賞(「アジアのノーベル賞」と言われる)を受賞した映画監督の宮崎駿氏は、授賞式において、上皇陛下のマニラ市街戦に関する言及に触れつつ、「日本人はこのことを忘れてはいけません。ずっと残っていることです。そういう歴史がある中で、フィリピンからマグサイサイ賞を贈られるということを、厳粛に受け止めています」とのメッセージ(代読)を寄せていた31。
第二の「過去」は、戦後の日比両国の努力による「和解」への歩みである。特に、フィリピンの「赦し」に対する感謝の念は忘れるべきではない。
上皇上皇后両陛下は、フィリピン御訪問時、レセプションにおいて、希望されてキリノ元大統領の孫娘と対面され、「キリノ大統領が日本人に優しくしてくれたことに、日本の人たちは感謝しています」と、感謝の意を表された32。
昨年末の12月、キリノ元大統領の顕彰碑が、日本(日比谷公園)に続き33、マニラ近郊のモンテンルパ市のニュービリビッド刑務所内にも建てられ、日比両国関係者が参加して除幕式が行われた。
「黄金時代」を迎えた日比関係が、マニラ市街戦80年を契機に、歴史の教訓を踏まえつつ、真の「隣人(隣国)」として、さらに成熟・発展することが期待される。
Profile
- 庄司 潤一郎
- 研究顧問
- 専門分野:
近代日本軍事・外交史、歴史認識