NIDSコメンタリー 第363号 2025年1月31日 1980年代に軍事運用された海外移転航空機 —— 過去事例が語る防衛装備移転への歴史的示唆

戦史研究センター国際紛争史研究室所員
石原 明徳

はじめに

昨近の一般報道において、国内外で我が国の防衛装備移転の話題がたびたび紙面を賑わせている1。これらに関する報道の中で、豪州では我が国の艦艇移転実績の少なさへの懸念を示す報道も見られる2。移転対象を防衛装備全般に広げたとしても、2014年の防衛装備移転三原則以降の我が国の防衛装備移転実績は、たしかに少ないと言わざるを得ないだろう3。だが、多くは知られてはいないものの、戦後だけに限定しても我が国から海外移転された装備品が外国で軍事運用された事例は相応の件数が存在する4

現在の我が国の防衛装備移転の枠組みは「卵」に例えると捉えやすい。対外経済政策が卵の「殻」であり、安全保障貿易管理政策が卵の「白身」にあたる。そして、防衛装備移転政策が卵の「黄身」だと言えるだろう。対外経済政策が卵の「殻」にあたる所以は、戦後この枠組みが基本的には「経済政策」の立て付けの中で構築されてきたためである5。卵の「白身」にあたる安全保障貿易管理政策の源流は、1950年代から参加したココム(Coordinating Committee for Multilateral Strategic Export Controls: COCOM)規制に遡る。ココム規制は冷戦期における西側諸国の対共産圏向け輸出管理枠組みであり、その性格は基本的に安全保障だと言えた。ココム規制に基づく我が国の輸出管理体制は長らく脆弱な状況にあったが、1987年に発覚した「東芝機械事件」を契機に官民双方に安全保障貿易管理体制整備の必要性が明確に認識され、1980年代末には現在まで続く安全保障貿易管理体制が確立している6。そして、卵の「黄身」にあたる防衛装備移転政策は1976年に三木内閣で閣議決定された「武器輸出三原則等」により最厳格化していたが、その緩和は1980年代から始まった7

本稿では、我が国の防衛装備移転政策史の一つのターニング・ポイントである1980年代に焦点を当て、1980年代当時に外国で軍事運用された海外移転航空機事例を紹介したい。これらの事例の態様は大きく2つに区分されるが、我が国から外国軍に直接移転された事例は認められない。これらの過去事例から、今後の防衛装備移転政策への歴史的示唆が得られれば幸いである。

1980年代の防衛装備移転を巡る状況

戦後冷戦史のうち、1979年末から1980年代半ば頃までの時期は、しばしば「新冷戦」と呼ばれる。1970年代のデタントは終焉を迎え米ソの対立が再び激化の一途をたどっていたこの時期、未曾有の対日貿易不均衡を背景に、米国は日本に対して防衛努力要請と積極的な市場開放を要請していた。当時の中曽根内閣は、具体的かつ積極的な対米関係強化施策を次々と実施し、防衛面でも米国の要請に応えた様々な施策が行われた。防衛予算の増額が行われ、当時、米国を凌駕するとされたデュアル・ユース技術の技術供与要請に応え、「武器輸出三原則等」の例外化を行い米国への武器技術供与を解禁した。

1980年代の我が国の安全保障貿易管理体制下では、ココム規制による規制対象品目は「戦略物資」と呼ばれ、輸出に際し可否判断を要する品目に指定されていた。これらの品目の仕向け国が共産圏諸国の場合には、機能的に高度なものは輸出不許可とされた。だが、ココム委員会の規制内容自体が非公開であったことからその許可基準は輸出企業にとって不明確であり、当時の輸出管理手続きそのものも実効性に乏しく輸出企業の安全保障の観点からの貿易管理意識も非常に希薄なものだった8。一方、当時の防衛装備移転政策は「武器輸出三原則等」により事実上禁輸との政治判断がなされていた。このため、当時の枠組みでは「直接戦闘の用に供される」ものにあたる「軍用航空機」は「武器輸出三原則等」により事実上の禁輸とされていたが、「汎用品」に区分される「航空機」は輸出許可を要する品目に指定されており、仕向け国の陣営により輸出可否が判断されていた。

また、経済政策の枠組みとは異なる安全保障政策上の枠組みとして、米国との間で自衛隊装備品に関する協定が締結されていた9。1980年代は、自衛隊発足当初に米国から貸与・供与された装備品や米国からの資金援助により日本国内で自衛隊向けに製造・運用された装備品の多くが用途廃止された時期でもあった。これらの用途廃止装備品には米国への返還義務が課せられており、在日米大使館に所在する相互防衛援助事務所(Mutual Defense Assistance Office: MDAO)の指示により、各自衛隊補給機関での現地処分又は所定の在日米軍基地への返還が行われた。

YS-11の事例

合計182機が製造され、1965年から就役を開始した戦後初の国産旅客機である「YS-11」は、自衛隊機として海上・航空自衛隊で計23機が運用された。「YS-11」は、就役年である1965年からリース契約を含み12カ国、16社の航空会社に計75機が海外移転された10。ヨーロッパで最大の「YS-11」ユーザーとなったのはギリシャのオリンピック航空であり、短期リースの2機を含め最盛期には10機の「YS-11」を保有していた。

ギリシャ空軍は、1980 年から1981 年にかけ、オリンピック航空が使用していた計6 機の「YS-11」を購入した。ギリシャ空軍が購入した「YS-11」は、1970年から1971年にかけて同国オリンピック航空向け旅客機として新造されたものであり、ギリシャ空軍に売却された6機は、当時オリンピック航空が保有していた「YS-11」全機であった11。ギリシャ空軍は新輸送機調達までの一時的な対応策として「YS-11」を導入しており、同空軍の「C-130」輸送機を補完してその運用寿命延伸に貢献した。

ギリシャ空軍は1981年から2010年まで「YS-11」を輸送機として運用し、うち1機はVIP輸送用として使用された。なお、ギリシャ空軍は欧州における唯一の日本製軍用機使用国として、自軍HP上で本機を紹介している12

ギリシャ空軍「YS-11」
ギリシャ空軍「YS-11」
https://www.haf.gr/history/historical-aircraft/ys-11a/

本事例の態様は、「『汎用品』海外移転航空機が二次移転され、軍事運用されたもの」だと言えよう。

MU-2の事例

三菱重工が民間機として独自開発した小型多用途機「MU-2」は、1965年の就役から1987年の生産終了まで762機もの多数が生産され自衛隊機として陸上・航空自衛隊で計53機が運用された。「MU-2」は米国を中心とした小型民間機市場で高い評価を受けており、計26カ国に703機もの多数が海外移転されている13。三菱重工は1988年に小型民間機事業を米国のビーチ・エアクラフト社に移管しこの分野から一時撤退したが、「MU-2」事業は1998年に三菱重工に再移管されており、現在でも米国内に3カ所、欧州、南米に1カ所のサポート拠点が設けられ今なお多数が運用され続けている14。多数が海外移転された「MU-2」は、1980年代に少なくとも4カ国での軍事運用事例が確認されている。

1982 年のフォークランド戦争時、アルゼンチン軍は多数の民間機をその指揮下で運用した。フォークランド戦争中、アルゼンチン空軍指揮下に民間機航空隊「不死鳥航空隊」(Escuadrón Fénix)が編成されており、同航空隊で3機の「MU-2」が運用されたほか、1機の「MU-2」が他部隊で運用された15

フォークランド戦争中にアルゼンチン軍指揮下で運用された民間機は、英機動部隊に対する洋上捜索やフォークランド諸島への空輸など多くの任務に従事し、戦争中に失われた機体も多い。当時者団体により「MU-2」がフォークランド諸島周辺で「プカラ」軽攻撃機編隊の先導任務等に従事したことが紹介されているが、資料的制約からフォークランド戦争下での運用状況の詳細や、これらの機体の来歴は明らかではない16

アルゼンチン空軍「MU-2」
アルゼンチン空軍「MU-2」
https://escuadronfenix.org.ar/aeronaves-y-tripulantes-del-escuadron-fenix-malvinas-1982/

1985年には、ドミニカ空軍での「MU-2」の運用事例が確認できる。ドミニカ空軍は軽輸送機として「MU-2J」型機を少なくとも1機運用していた17。この機体についても、資料的制約からその来歴は明らかではない。

また、軍の保有機として直接軍事運用されたものではないものの、軍事支援役務(Operational Contract Support:OCS)により民間軍事会社(Private Military Company または Private Military Contractor:PMC)保有機が軍の指揮下で軍事運用された事例が見られる。

スウェーデンでは、スウェーデン軍と契約したPMCによるOCSでの「MU-2」の軍事運用事例が1985年以降確認できる。このようなPMC保有民間機を用いたOCSは1990年代以降急速に普及しているが、スウェーデンの事例はその先駆的事例とも言える18

1980年代のスウェーデンでのOCSでは、スウェーデエアー社(Swedair)、ナイジェ・エアロ社(Nyge Aero)の2社、10機の「MU-2」が標的曳行・電子戦訓練役務のために運用された19。これらの機体のうち、ナイジェ・エアロ社の「MU-2」2機が1986年に訓練中の事故により喪失しているが、うち1機は射撃訓練時の誤射によるものだった20

1989年にスウェーデエアー社の航空標的器材部門がエアー・ターゲット・スウェーデン社(Air Target Sweden)として分社化、訓練支援航空機運用部門がサーブ社(SAAB)に合併・移管されており、その後1999年にはサーブ社にナイジェ・エアロ社が合併・統合され現在に至っている21

ナイジェ・エアロ「MU-2」
ナイジェ・エアロ「MU-2」
https://www.airhistory.net/photo/110824/SE-IUA

「MU-2」は欧州市場には10カ国に計35機が直接移転されているが、スウェーデン向け「MU-2」の移転記録は1985年以前から見られる22。スウェーデエアー社、ナイジェ・エアロ社が運用した機体は、直接移転されたものもあれば、第三国や複数国を経由したものもあり、機体ごとに来歴は様々なことから全ての機体の詳細な来歴追跡は困難である。

1987年には、米軍と契約したPMCによるOCSでの「MU-2」運用事例が確認できる。

フライト・インターナショナル・オブ・フロリダ社(Flight International of Florida)は、1987 年からフロリダ州ティンドール米空軍基地(Tyndall AFB)を拠点として訓練支援役務のため7 機の「MU-2」を運用した23。これらの機体も来歴は様々であり全ての機体の詳細な来歴追跡は困難である。
1989年2月28日には、同社「MU-2」1機が訓練支援役務後に事故により失われている24

本事例の態様も、「『汎用品』海外移転航空機が二次移転され、軍事運用された事例」だと言える。

フライト・インターナショナル「MU-2」
フライト・インターナショナル「MU-2」
https://www.airhistory.net/photo/655344/N709DM

民間機として700 機以上の多数が販売された「MU-2」は運用寿命も長く、同一機体が複数国の企業間で転売を繰り返されながら長期間運用される例も多い。このような特性から、個々の機体来歴の完全な追跡は不可能であった25。このように、本事例は、海外移転後の管理が非常に困難とされる「汎用品」の特性が如実に表れた事例だと言えよう26

F-104J/DJの事例

航空自衛隊主力戦闘機の第二世代にあたる「F-104J/DJ」は、完全輸入、ノックダウン/ライセンス生産の形式で航空自衛隊に導入され、ノックダウン/ライセンスでの日本国内生産の主契約は三菱重工名古屋航空機製作所が担った。「F-104J/DJ」は航空自衛隊に1962年から1967年までの短期間に230機が納入された。

「F-104J」のライセンス国産にあたり米国から資金援助が行われ、「F-104J/DJに関する日米取り極め」に基づき、米政府から日本政府に贈与された資金が特定の物品購入(F-104J/DJ完成機、部品の購入その他)及び役務(ロッキード社の日本における駐在技術員の技術援助業務)に充当された。最終的な日米の経費分担は、日本側約72%、米国側約28%となっている27。また、ライセンス生産中にも各部品の国産化が進展した結果、最終段階での国産化率は機体が65%、エンジンが約80%、電子機器が約76%に達した。このため、「F-104J」は結果的に米国で生産された「F-104」各型とは細部仕様が相当異なるものとなった。

航空自衛隊の「F-104J/DJ」は「F-4EJ」、「F-15 J/DJ」の就役により順次用途廃止が進み、1986年3月に航空自衛隊最後の「F-104」飛行隊が解隊され、航空自衛隊の「F-104J/DJ」は無人標的機「UF-104J/JA」に改造された機体を除き用途廃止されている。米国からの資金援助により自衛隊向けに製造・運用された装備品の用途廃止後の返還義務が本件にも適用された結果、用途廃止となった「F-104J/DJ」は、資金援助相当分が米国に返還されることとなった。該当した機体の多くはMDAOから日本国内での現地処分指示を受けたが、程度の良い機体は米軍への返還指示を受けた。米国にはアリゾナ州の砂漠に所在するデビスモンサン空軍基地(Davis-Monthan AFB)などの退役軍用機保管場があり、米国の退役軍用機はモスボール保管され海外軍事援助などの所要があれば再整備され援助国に交付される28。航空自衛隊での用途廃止「F-104J/DJ」はMDAOからの返還指示まで航空自衛隊岐阜基地に集積され、第2補給処の管理下にあった。

台湾空軍は、米国の同盟国の中で最も早く「F-104」戦闘機を導入していた。1960年5月の「F-104A」の配備以降1998年5月まで「F-104」各型多数を運用しており、「F-104」戦闘機は 1960年代から1990年代の戦闘機部隊主力として長期間台湾の防空任務を担っていた。

1979年、カーター政権下の米国は「台湾関係法」により台湾の安全保障への関与と武器売却継続を保障しつつ、米中国交正常化と米華断交を行った。同年11月に台湾側が米国に示した兵器売却要望リストでは高性能戦闘機の優先順位が最も高かったが、翌年米国が発表した台湾への売却兵器は「台湾関係法」に基づく「防御的性質の武器」とされ、台湾空軍の老巧化した「F-104」の更新用として米国から「F-104」が台湾に提供されることとなった。同年、米国のレーガン新政権への移行が確定すると、台湾側は新世代戦闘機「F-16」の売却を要望している。

米国レーガン政権は対ソ戦略を最優先した結果、中国への武器売却禁止を解除し武器輸出を開始するとともに、「台湾関係法」に基づく「防御的性質の武器」の台湾への提供を進めた。だが、台湾が新世代戦闘機である「F-16」戦闘機や「ミラージュ2000」戦闘機、米国の支援を受け自主開発した「IDF」戦闘機の戦力化を終えたのは1990年代に入ってからのことであり、1980年代に米国から台湾に提供された「F-104」はその間の「繋ぎ」であった。台湾に提供された「F-104」は、世界各国から用途廃止により米国に返還された 様々な形式の「F-104」であった29。これらの機体形式が統一されなかった理由は、「繋ぎ」とは言え台湾が必要とした機数は多数にのぼり、これらを揃えるためには、米国自らが使用した「F-104」だけでは賄うことができず、我が国を含めた世界各国で使用された様々な型式の機体の提供を許容せざるを得なかったためであった。

台湾空軍の「F-104」取得計画は「阿里山」計画と呼ばれ、「阿里山 8号」計画として1983年から米国内の訓練基地で使用されていた西独空軍の用途廃止「F-104G」66機が台湾に売却されている30。1988年からの「阿里山10号」計画ではデンマーク空軍の用途廃止「F-104G/TF-104」18機が、1990年からの「阿里山11号」計画で部品取り機としてベルギー空軍の用途廃止「F-104G/TF-104G」24機が売却された31

「F-104J/DJ」の台湾側での取得計画は「阿里山9号」計画と呼ばれ、1986年から台湾での再配備が始まっている。米国は用途廃止後に返還された「F-104J/DJ」から、台湾に37機(「F-104J」31機、「F-104-DJ」6機)を売却している。これらのうち、「F-104J」20機、「F-104DJ」5機が台湾空軍で運用されたほか、残りの12機は部品取り機となった32

台湾空軍での「F-104」は極めて事故率が高く、運用された8形式238機の「F-104」のうち、114 機もの多数が事故損耗している。台湾空軍が使用した「F-104J/DJ」は最も多く運用された「F-104G」とは規格が異なる部品が多く、補用部品補充が困難であった。台湾側が日本語の技術図書類に通じていないこともあり、台湾空軍での「F-104J/DJ」の整備補給体制の維持は困難だったとされている。

台湾空軍での「F-104J/DJ」は1個飛行隊で集中運用され、部品互換性が低い他の「F-104」各型と混用しないよう配慮されたが、運用期間は1991年までのわずか5年間に留まった。台湾空軍での「F-104J/DJ」は部品互換性に起因する事故も多く、運用期間が短期間であったにも関わらず計5機が事故で失われている33

台湾空軍「F-104J」
台湾空軍「F-104J」
尾形『翼』61頁

このように、本事例は一般的な海外移転とは異なる、「返還義務により米国に返還された用途廃止品が、米国により二次移転され軍事運用されたもの」だと言えよう。

おわりに

1980年代に軍事運用された海外移転航空機事例を紹介してきたが、我が国から外国軍に直接移転された事例は一例も認められなかった。これらの事例を態様ごとに区分すると、「『汎用品』海外移転航空機が二次移転され、軍事運用されたもの」と「返還義務により米国に返還された用途廃止品が、米国により二次移転され軍事運用されたもの」に二分できる。これらを現在の防衛装備移転の枠組みに当てはめると、双方とも、卵の「黄身」にあたる防衛装備移転政策には完全には合致しない態様だと言えよう。1980年代の事例では、「『汎用品』海外移転航空機が二次移転され、軍事運用されたもの」に区分される事例が最多件数を占める。防衛装備移転政策が最厳格化していた1980年代当時にあって、移転元である我が国の思惑に関わらず、移転先において「軍事的価値」が見いだされ軍事運用された「汎用品」海外移転航空機事例がこれだけあったことは注目に値する歴史的事実だと言えるだろう。現在、紙面を賑わせている防衛装備移転の想定対象は、高度な技術水準が要求されることから必然的に高価となる、「軍事専用」国産開発装備品が想定されている34。だが、1980年代の事例は「直接戦闘の用に供される」とは言い難い「汎用品」に我が国の優位性が潜在することを示唆している。技術的には「直接戦闘の用に供される」とは言い難い「汎用品」であっても「軍事運用」を主とするものであれば、防衛装備移転の主な想定対象に加える選択肢もあり得るだろう35

また、これらの事例の中で最多件数を占める「MU-2」の事例からは、移転先での維持整備体制確立の重要性が示唆される。民生用として長期間にわたり多くの国で運用され続けている同機は移転先での維持整備体制が確立しており、それを支えるサポート拠点が今なお世界各地に設けられている。他方、自衛隊でのみで使用されている国産開発装備品の維持整備体制は必然的に日本国内のみに限られている。現在の防衛装備移転実績の少なさを考えると、移転先での装備導入後の維持整備体制の確立が、防衛装備移転を促進する一つの要因となるものと考えられる。

「返還義務により米国に返還された用途廃止品が、米国により二次移転され軍事運用されたもの」にあたる「F-104J/DJ」は、高度な技術水準が要求される装備品の事例だとも言える。本事例からは、現在の防衛装備移転の主な想定対象である、「軍事専用」国産開発装備品の海外移転時に求められる要件が類推される。台湾空軍での「F-104J/DJ」は事故が多発し、台湾空軍が保有する他形式の「F-104」との部品共用性が低く、維持整備困難のためその運用は短期間に留まった。本事例からは、装備規格の斉一性や部品規格標準化の必要性、部品互換性確認、技術図書の国際標準化など、高度な技術水準を要する防衛装備移転におけるインター・オペラビリティ(Interoperability)確保の重要性が示唆される。既存の自衛隊運用装備品を考えると、国産開発装備品もさることながら、ライセンス生産品についても、ライセンス生産上の部品変更や日本独自の不具合改善などによる形態変更により、他国保有品との共通性が損なわれている場合が十分にあり得る。現在、防衛装備庁でNATO軍との装備規格の共通化が試みられているが、他国装備品とのインター・オペラビリティ情報に関する官民の情報共有枠組みの確立が必要であろう36

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  • 石原 明徳
  • 戦史研究センター国際紛争史研究室所員
  • 専門分野:
    専門分野:防衛装備移転史、軍事ロジスティクス史