NIDSコメンタリー 第359号 2024年12月3日 リトアニア、対ロシア最前線の30年——軍備ゼロから戦車部隊の創設に至るまで
- 戦史研究センター戦史研究室所員
- 松尾 康司
はじめに
2024年10月22日、リトアニアにおいてドイツからの戦車購入が承認された1。購入される車両は、ロシア・ウクライナ戦争でもしばしば報道されているレオパルトシリーズの最新型であるレオパルト2A8となる。同戦車の購入自体は2024年1月23日から交渉が行われていたものであり2、54両が購入されて1コ戦車大隊が編成される予定となっている。リトアニアは1918年にロシアより独立を果たし、ソ連への併合を経て1991年に改めて独立を回復したが、独立回復以降の30年余りの歴史において、今回初めて同国軍は戦車を装備することとなった。リトアニアは他のバルト諸国と同様、独立回復時点では軍を有しておらず、そのため急ピッチで防衛力の整備を推し進めたという歴史がある。2022年のウクライナ戦争以降は国防への注力は更に加速しているようにも思われるが、実際にバルト諸国がロシアの脅威に対して一段と警戒感を高めたのは2014年のクリミア危機が契機であった。ロシアによるウクライナ侵攻の開始直後、2022年3月3日にはゼレンスキー大統領は「ウクライナ陥落後は、次はバルト諸国だ」というメッセージを発しているが3、この発言はバルト諸国の立場に関する認識が欧州諸国である程度共有されていることを示している。
ロシアのウクライナへの侵攻が開始された後、NATOのロシアに対する態度は大きく変わった。かつて1997年には「NATO・ロシア基本議定書」が締結されて、双方がお互いを敵とは見なさないとの姿勢が明文化されたこともあった。それから四半世紀はその姿勢が保たれていたが、ウクライナへの侵攻後の2022年6月にNATOが採択した戦略概念(Strategic concept)では、対ロシア抑止と前方防衛の重視が明記された。戦略概念はNATOの戦略体系の最上位に位置し、これまでの戦略的パートナーシップ志向の方向性からは180度の転換となる。そのような変容の過程において、リトアニアを含むバルト諸国は一貫して対ロシア強硬姿勢をとってきた。ウクライナに対する支援に関しても、GDP比では上位3ヵ国はバルト諸国が占めている4。従って、ロシアと欧州情勢を読み解くに際してリトアニアとバルト諸国に注視することは有意義であるだろう。
リトアニアに対してロシアが武力を行使する可能性があるかというと、少なくとも当面はウクライナ情勢もあり、そのような事態が生起する可能性は高くはないと考えるのが妥当である。一方で、リトアニアは過去にソ連の侵攻を受けているため、現在のロシアに対して警戒を怠らない姿勢も当然のことと考えられる。この侵攻とは第2次世界大戦当時といった話ではなく、独立回復直前の1991年1月のことである。リトアニアが独立回復を宣言したのは1990年3月11日であり、これをソ連が承認したのは1991年9月6日であるため、国際的に見ると主権国家に対して武力を行使したとは言い難い。同年12月にはソ連が崩壊しており、世界的に見ても激動の一年であった。
独立回復後のリトアニアでは国家としての機能を整えていったが、国防軍の創設やNATO加盟といった課題にも直面した。国防軍の創設に関しては国内の旧ソ連軍将校などを集めることで容易に達成できた可能性もあったが、この場合はNATO加盟という目標が遠のくため、当初から米欧諸国の助力を得つつNATOとの相互運用性を念頭に置いた防衛力整備を推進していた。結果としてリトアニアは2004年にはNATO加盟を達成し、2016年以降はNATOによる防衛体制も強化されつつある。NATOの立場からしても、スヴァウキ地峡(Suwałki Gap)と呼ばれるリトアニア南部のポーランドとの国境地域はロシア領カリーニングラードとベラルーシに挟まれた狭隘かつ脆弱な地域であり、この地域が制圧された場合にバルト諸国が陸の孤島となる懸念は長年にわたり危惧されていた。冒頭に述べた戦車部隊の創設は、リトアニアとバルト地域の防衛力強化に資するものである。本稿においてはソ連崩壊以降を焦点としてリトアニアの防衛政策と同時期のNATOの変容について概説する。
歴史的経緯:ソ連のリトアニア併合と独立回復
例えば高校世界史などにおいて、リトアニアに関する記述は必ずしも多くはない。しかし16世紀にリトアニアはポーランドと事実上の統合を果たしていることを踏まえると、ポーランド史のある程度の部分はリトアニアの歴史でもあるとも言える。元々リトアニアは欧州においてキリスト教化が最も遅かった地域であり、14世紀にリトアニア大公がポーランド国王として即位した際に改宗し、その後は1569年のルブリン合同によって両国は統合された。18世紀末の3次にわたるポーランド分割ではリトアニアも共に分割されており、これ以降はリトアニアを含むバルト地域はロシア領とされた。第1次世界大戦末期にリトアニアは独立を果たしたものの、1940年にはソ連に併合されて14番目の加盟国となる。これは1939年の独ソ不可侵条約に付随する秘密議定書において、独ソ間のみで一方的に勢力圏を定めたことに基づくものであった。しかし1941年6月にドイツはソ連への侵攻を開始しリトアニアもその占領下となるが、1944年にはソ連の巻き返しに伴って再併合されるなど、過酷な歴史を辿っている。ソヴィエト体制下では、特にスターリン時代には農場集団化といった共産主義的政策が強引に進められ、これに異を唱える多くの人々がシベリアや極東に追放された。これは現在にも残る、ロシアに対する怨恨の一因となっている。また、このような事情からソヴィエト体制に対してパルチザンによる激しい武力闘争が繰り広げられ、その結果パルチザンだけでも2万人を超える犠牲者が生じた5。ソヴィエト体制側で動員された人々や巻き込まれた住民の犠牲者、遠方に追放されて帰ることのできなかった人々を考慮すると、その数はさらに増大する。このパルチザンは「森の同胞(Forest Brothers)」と呼ばれ猛威を振るったが、1940年代末までには概ね鎮圧され、50年代の半ばには完全に消滅した。
その後、リトアニアの転機は1985年3月に訪れた。チェルネンコ(K. Chernenko)死去に伴うゴルバチョフ(M. Gorbachev)の共産党書記長就任である。ゴルバチョフによってペレストロイカ(Perestroika、政治改革)とグラスノスチ(Glasnost、情報公開)が始まり、リトアニアでも独立回復に向けた動きが活発となっていった。契機となったのは1987年8月23日である。この日付は1939年にドイツのリッベントロップ(J. von Ribbentrop)外相とソ連のモロトフ(V. Molotov)外相が両国間の不可侵条約を締結した日であり、リトアニアにとっては自国の意思と関係なく付随秘密議定書によってソ連の勢力圏に組み込まれることを運命付けられた日であった。1987年のこの日、首都ヴィリニュスの広場で反体制派の人々が集会を開き、自国のソ連併合の不当性について公然と意見が述べられた。これ以降、知識人層により「サーユディス(Sąjūdis)」と呼ばれる改革運動が推進されるが、この運動には共産党員すらも加わっていた。1989年8月23日にはエストニア首都タリン、ラトヴィア首都リーガ、そしてヴィリニュスまでの650kmにわたって、バルト諸国の200万人が手をつなぐ「バルトの道(人間の鎖)」が実行された。これは3ヵ国が運命を共有していることを国際社会に示すとともに、ソ連併合の経緯が不当性と独立への意思の表明を目的としたものであった6。
ゴルバチョフはその開明的なイメージとは裏腹に、バルト諸国の独立に対しては断固とした措置をとった。1990年3月11日にリトアニア社会主義共和国最高会議においてリトアニアの独立回復とソ連憲法の無効が宣言され、国名も戦前の「リトアニア共和国」に戻された。ゴルバチョフはこの宣言は無効であるとして経済制裁を加えるなどの対抗措置をとったが、最終的に1991年1月10日にソ連憲法の即時回復を求める最後通牒を突き付ける。同日夜から翌日にかけてソ連軍が派遣され、国防省や報道機関、主要駅が制圧された。これに対してリトアニア国民は非武装のまま議事堂や放送局の周辺に集結してこれらを守ろうとしたが、1月13日にはヴィリニュスのテレビ塔が攻撃を受けたことによって14人の犠牲者が生じた。これ以外にも600人以上が負傷している7。
事件の犠牲者の数は決して少なくはないが、半世紀前の武力闘争と比較すると小規模にとどまっているとも言える。これは当時のヴィリニュスに海外の記者が滞在していたこと、またリトアニア側もラジオ局が停波させられた後に別に局を設置して情報発信を継続し、その結果世界の注目を集めてソ連軍の行動を掣肘したためである。翌月の2月11日にはアイスランドがリトアニア独立を承認し、同年8月のモスクワで生起したクーデターの失敗以降は米英仏といった主要国もアイスランドに続いた。このため、ソ連もこの流れに抗えなくなり、9月6日にリトアニアを含むバルト諸国を国家承認することとなった。自他ともに認める独立国家としての地位の回復である。同年12月にはソ連自体が解体するが、それまでの約3ヶ月間はソ連とバルト諸国がそれぞれ独立国として併存する関係となっており、この時期に発行された地図帳などはある種の稀覯本とも言える。
国防軍の新設とNATO加盟
独立後は最高会議議長でありサーユディスにも携わったランズベルギス(V. Landsbergis)が国家元首となり、1993年には大統領制が導入されてブラザウスカス(A. Brazauskas)が初代大統領となった。なお、現在のナセウーダ(G. Nausėda)大統領は第5代となる。独立後の軍事的な課題としては国防軍の創設もあったが、焦眉の急の問題は国内駐留ロシア軍の撤退であった。バルト諸国はいずれもソ連時代からソ連軍の軍事施設と数千人の将兵を受け入れており、この中にはエストニアのパルディスキ(Paldiski)原子力潜水艦整備・訓練施設とラトヴィアのスクルンダ(Skrunda)早期警戒レーダサイトという戦略的に重要な軍事施設も含まれていた。これらの施設と部隊はそのままロシア軍に引き継がれたが、リトアニアの場合は部隊配備のみで重要軍事施設がなかったこと、他の2ヵ国に比して国内のロシア系住民を巡る軋轢が比較的少なかったことから撤退交渉は比較的順調に進み、1992年9月9日に2国間合意が成立した。この合意に基づき、1993年8月31日に在リトアニアのロシア軍部隊は撤退を完了した。
国防軍の創設に向けた動きは、独立が国際的に承認される以前の1990年から始められた。当初は軍の地位と目的を規定する法整備から着手されたが、この時点でリトアニア軍を他の西側諸国の軍隊と相互運用性のあるものとして発展させるという明確な方針が存在していた8。この際に制定された国防軍と軍務に関する法律においては、軍の指揮統制機構はリトアニアとNATO基準の双方に従うものと規定された。リトアニア全土は3つの地域に区分され、各地域はそれぞれ3コ歩兵大隊を基幹とする旅団が担当する。この大隊はNATOとの同等の能力・装備を保有することを目標として整備が進められた。装備取得に関しては「装備体系や種類における多様性を減少させること」「維持コストが相応であり、費用対効果の高い装備を取得すること」といった条件に加えて、「 NATO規格に対応した近代的装備を取得すること」との条件も明示された9。NATO加盟に向けた具体的な取り組みは国防予算の配分にも見られる。リトアニアの場合、1997年の時点で対GDP比0.9%であった国防予算を1999年には1.5%に引き上げているが、この際に設定された防衛費の主要分野には「NATOへの統合」も含まれていた。更に2001年までに防衛費をGDPの2%まで増加させることが目標として掲げられ、実際にこれは達成された。これは概ね20年が経過しても維持されており、2018年の時点でもGDPが525億US$であるのに対して国防予算は10.4億US$(1.98%)となっている10。2014年のウェールズ首脳会議ではNATO加盟国が国防予算をGDP比2%とする基準を共同宣言で改めて確認されたが、2021年にこれを達成したのはリトアニアを含む8ヵ国のみであった11。
人材面に関しては、NATOとの相互運用性獲得を目指したことで困難が生じていた。単に国防軍を建設するだけであれば、元ソ連将校などの軍務経験者をかき集める方法が最も単純であり迅速であっただろう。しかし、ソ連軍は西側諸国の軍とはかなり異質であった。西側諸国と比較するとソ連軍はかなり具体的に将兵の行動を規定する傾向があり、教範「赤軍野外教令」では各種行動の要領やその基準となる詳細な数字を規定していた12。これは大規模部隊の運用には向いているが、末端の部隊からは柔軟性が消失し硬直的な運用に陥るというデメリットもある。ソ連末期でも「西側諸国軍と比較すると、各級指揮官の自由裁量の余地がいささか少なく、中央ないし高級指揮官の権限がかなり強いようである13」との評価があり、この硬直性はあまり変化していなかった。一度ソ連型の軍隊を建設した場合にこれをNATO型に改めるのは膨大な時間と手間を要するため、新たに建設されるリトアニア軍がこのような性格を帯びた場合、NATOとの相互運用性獲得が困難となることが危惧された。同時に、ロシアの関係者が軍内に入り込む可能性があることも問題視されたようである。このため、米国に国防軍建設の支援が求められ、支援のための方策が検討された。その結果1992年に米国防省陸軍州兵局によって軍事連絡チームが設置され、これによってリトアニアはペンシルヴァニア州軍と協力関係を構築し、その支援を受けることとなった14。この方策はバルト諸国に対する米国の具体的な支援の姿勢を示すとともに、米軍のノウハウを伝達する手段として有益であると評価されている15。なお、この州軍が外国軍を支援する仕組みは「State Partnership Program」として発展し、2024年までに米国各州と106ヵ国が関係を構築している16。
こうして国防軍の創設は軌道に乗り始めたが、リトアニアの目標とするNATO加盟への道のりは遠いものであった。1990年代はリトアニア以上に旧ワルシャワ条約機構諸国によるNATO加盟要求が強硬であり、ロシアを刺激したくないNATO側と軋轢が生じていた。このような問題が生じた原因の一つにはNATOには新たに加盟するための具体的条件が設定されていないこともあった。冷戦期に新たに加盟した4ヵ国(ギリシャ・トルコ・西ドイツ・スペイン)や統一ドイツの加盟は、それぞれ個別に検討や交渉が行われた結果である。この点を踏まえ、1999年の第1次東方拡大ではポーランド・チェコ・ハンガリーがNATOに加盟したが、同時に「加盟のための行動計画(MAP: Membership Action Plan)」が採択された。これ以降は、このMAPに基づいて作成されたプログラムの達成状況が加盟のための基準としての役割を果たすこととなった。MAPでは防衛・軍事分野に関して「加盟を希望する国が集団防衛とNATOの新しい任務に軍事的に貢献する能力および軍事力の段階的な改善に挑む意欲は、NATO加盟への適合性を決定する際に考慮すべき要素となるだろう」と記述され、加盟後に求められる役割としては「集団防衛およびその他の任務のための部隊と能力を提供すること」「必要に応じて、軍事機構に参加すること」といった内容が述べられている17。MAPの記述とは別に、より直接的にNATOの任務に対する貢献が加盟の事実上の前提条件となっていることは間違いないとの指摘もある18。実際に冷戦終結以降に新たにNATOに加盟した16ヵ国は、すべて加盟に先立って旧ユーゴスラヴィア地域やアフガニスタンにおいてNATOが主導する国際平和維持活動に参加した実績を有する。
この過程において興味深いのは、1993年のバルト諸国軍司令官会議においてエストニア国防軍最高司令官が3ヵ国による「バルト平和維持大隊」プロジェクトを提案したことである。このプロジェクトの目標は「バルト諸国の防衛力育成のためのメカニズムを提供するとともに国際PKO能力を向上し、併せてバルト諸国間の安全保障と防衛協力を促進する19」というものであり、その役割は「国連やCSCE(当時)から付与された国際平和維持活動に関する任務遂行および同分野でのNATO等との協力のため、国際的に認められた軍事と平和維持の原則にしたがって組織されるものとする」とされた20。実際にこの大隊は編成されたが同大隊そのものは派遣されなかったが、その後のバルト諸国の国際平和維持活動参加の資になった。バルト諸国はボスニア・ヘルツェゴヴィナにおいて、1996年に和平履行部隊(IFOR: Implement FORce)、1997年以降は平和安定化部隊(SFOR: Stabilization FORce)に部隊を派遣している21。この派遣は各国が単独で部隊を派遣したのではなく、エストニア・ラトヴィア・リトアニア軍から各1コ小隊を差し出し、集成中隊を臨時編成した上でデンマーク軍の大隊に配属されて派遣されるという形式であった。バルト諸国の部隊を含むデンマーク大隊が本格的に活動を開始するのは1997年10月以降であり、MNTF-N(Multinational Task Force North)の一部としてボスニア・ヘルツェゴヴィナ北部での活動に従事した22。
翌年の1998年1月、米国とバルト諸国の間で「米国・バルトパートナーシップ憲章23」が締結された。この憲章において「米国は、エストニア、ラトヴィアおよびリトアニアが、独立の平和的回復およびPfP24への積極的な参加を通じて、これまで欧州の安全保障に対して行ってきた貢献を歓迎し、評価する。米国はまた、IFOR、SFOR、およびその他の国際平和維持ミッションへの貢献を歓迎する」とその活動を明確に評価するとともに、「米国はバルト諸国のNATO加盟の努力を歓迎し支持する」とも述べられていた。この後、2002年11月に実施されたプラハNATO首脳会議ではリトアニアを含む7ヵ国の加盟が合意され、2004年3月29日にこの7ヵ国は正式にNATOに加盟した。この拡大は第2次東方拡大とも呼ばれる。
クリミア危機以降
NATO加盟後のリトアニア軍はアフガニスタンに派遣されるなど、当初の10年程度は国外での活動を主体としていた。国防体制の大きな転機となったのは2014年のクリミア危機である。集団防衛体制を強化して潜在的脅威を抑止するために、NATOはロシア(本土及びカリーニングラード州)と国境を接するバルト諸国とポーランドに、それぞれ大隊戦闘群をローテーション配備することとした。これは「強化された前方プレゼンス(eFP: enhanced Forward Presence)」と呼ばれる枠組みである。リトアニアに配備される大隊戦闘群は、ドイツを主導国として合計7ヵ国が参加している25。常駐ではなくローテーションとされたのは、常駐となると派遣元は派遣先の国に対して一層深く関与する必要が生じるという事情もあるが、それ以上にロシアへの影響という問題があった。
かつて1997年5月にNATOとロシアは「NATO・ロシア基本議定書」に調印した。この時期は既にNATOの拡大は不可避となりつつあったため、「NATO・ロシア基本議定書」では双方がお互いを敵と見なさないことを明文化するとともに、NATO新規加盟国には核戦力の配備や戦闘部隊の常駐を行わないとされた。なお「新規加盟国」という言葉は、文字通り今後新規に加盟する国が存在することを示しているため、この時点でロシアはNATO拡大を受け入れたとの解釈も可能であるが、当時のロシア政府はこの言葉に対して明示的な反応を示していない。調印時点で「戦闘部隊の常駐」が具体的に定義されていなかったことは後に混乱を引き起こした。eFPは「戦闘部隊の常駐」に抵触するのではないかということでロシア側から問題視されたものの、最終的に「大隊規模」の「ローテーション配備」は「戦闘部隊の常駐」には該当しないと結論付けられた。eFPは2017年から展開され、バルト諸国とポーランドに4コの多国籍の大隊戦闘群が配備された。
2022年2月のロシアによるウクライナ侵攻開始後は、NATOは既存の大隊戦闘群を強化するとともに、ブルガリア、ハンガリー、ルーマニア、スロヴァキアの4ヵ国に新たに大隊戦闘群を配備することを合意した。多国籍の大隊戦闘群の総数は8コとなり、バルト海から黒海まで、NATOの東側に沿って展開している。あくまで「大隊規模のローテーション配備」という枠内は維持され、ロシアからの反発もあったものの「NATO・ロシア基本議定書」の枠内とされてきた。これ以降、NATOには様々な変化が生じている。同年6月に採択された戦略概念では、これまでとは一変して明確にロシアを脅威として位置付けている。フィンランドとスウェーデンはNATO加盟に方針を転換し、それぞれ2023年4月と2024年3月にNATO加盟を果たした。他方、NATOは「国連憲章に基づきウクライナの自衛権を支持する」とし、加盟国はウクライナに対して様々な支援を行い、戦略概念でもロシアを脅威として位置付ける一方で、「ロシアとの直接対決を求めていない」との立場に立っている。
リトアニアにおいては、2023年12月18日にアヌシャウスカス(A. Anusauskas)国防相がドイツのピストリウス(B. Pistorius)国防相とドイツ軍のリトアニアへの恒久的な駐留に関して合意した26。これは今後のNATOとロシアの関係性を大きく変化させる可能性を孕む。この合意は4,800人からなるドイツ陸軍の1コ旅団をリトアニアに常駐させるものであり、今後数年にわたりGDPの約0.3%にあたる費用をかけて住宅や訓練場、その他のインフラを建設する予定で、2027年に完整する予定である。ドイツ軍は30年前からNATO域外派遣を実施しているが「常駐」という点では第2次世界大戦後最初の事例となり、それ以上に「NATO・ロシア基本議定書」を事実上破棄したことでロシアとの対決姿勢を強めたとも見られる。2022年8月の時点で鶴岡路人は「しかし、2022年6月末のマドリッドNATO首脳会合は、明示的な破棄を見送った。そのかわりに、新たに採択された戦略概念においても、首脳会合の結論文書においても、NATO・ロシア基本議定書に全く言及しなかった。いわば完全無視である。これが偶然や言及のし忘れであるとは考えられない。触れないことで、事実上効力を失っていることを示しつつ、明示的な破棄はしないという決定をしたのである27」と述べているが、そこから更に踏み込んだ対応である。この常駐はあくまでリトアニアとドイツ間の合意であってNATOとしての見解は示されていないが、これは黙認していると捉えるのが妥当であろう。
ドイツとリトアニアはそれなりの因縁を有している。1410年にリトアニアとポーランドの連合軍がドイツ騎士団を撃破した「タンネンベルクの戦い」は有名であるが、ドイツは1914年のロシア軍への大勝を「タンネンベルクの戦い」と命名し、500年前の敗戦の記憶を上書きした。また、リトアニア随一の港湾都市クライペダはドイツ騎士団によって創建された街である。この街はかつてメーメルと呼ばれ、第1次世界大戦まではドイツ領であった。戦前のドイツ国歌の歌詞には「マース川からメーメル川まで」とあり、これは当時のドイツ領土を示しているが、このメーメル川の河口近傍に所在するのがクライペダである。その後はドイツ軍による侵攻といった厳しい歴史も存在したものの、第2次世界大戦後のドイツは海外へ軍を常駐させることはなかったことも含め、歴史的な転換と言える。
ロシア侵攻の現実味
このようにリトアニアは(そしてエストニア・ラトヴィアも同様に)NATOの庇護を受けているが、実際にこれらの国々がロシアの侵攻を受ける可能性は存在するだろうか。先述のとおり1991年にリトアニアは(そしてラトヴィアも)ソ連軍の攻撃を受けているが、これは当時のソ連からの独立を試みるバルト諸国の動きを封じようとした目的によるものであった。
この可能性を考察するに際しては、2016年に出版された“War with Russia28”が参考になるだろう。同書は2017年にロシアがバルト地域とウクライナ東部に侵攻するという筋書きの小説であり、当然ながらその内容はフィクションである。しかし著者のシーレフ(Sir Richard Shirreff)は、2011年から2014年にかけてNATO欧州連合軍副最高司令官を務めた英国陸軍の退役大将という経歴の持ち主であり、同小説はフィクションながらもその勤務経験が反映されている。NATOの最大の特徴は北大西洋条約第5条に規定される集団防衛であり、加盟国に対する攻撃は全体に対する攻撃と見なしているところにあるが、“War with Russia”で描かれるNATOは各国の足並みが揃わず、最高意思決定機関たる北大西洋理事会は全会一致を原則とするため第5条の発動までには13日を要したという筋書きとなっている。さらにNATO が反撃に転ずるのはその 47日後であり、現実のウクライナ支援に対する各国の姿勢の差を見ると、シーレフ氏の経歴も相まってこのような対応の遅れもフィクションながら相応の説得力を持つ。小説内における侵攻の端緒はラトヴィア国内におけるロシア系住民の暴動であり、これに乗じてロシア系住民の保護を名目としてロシアが行動を起こすという筋書きとなっている。この手法はクリミア併合時のロシアの行動を念頭に置いたものだろう。現実の2022年にウクライナに対してロシアがとった行動は直接の侵攻であり、フィクションの世界ほど巧妙でも計画的でもなく、この点ではシーレフはロシアを過大評価していたとも言える。
クリミア危機以前のロシアの行動も、国境を隣接する国々を警戒させるに十分なものであった。2008年夏にジョージアとの国境付近で「カフカス2008」演習を実施したロシア軍は演習終了後も同地域に留まり、その後南オセチア紛争が勃発した。また、2013年以降はNATOとの国境付近の各地で、事前通告なしに行うスナップ演習を繰り返している。演習の参加部隊規模が大きくなればロシア軍はNATO側のオブザーバーを受け入れる必要があるため、公表している部隊規模は過少に偽装している可能性も否定できない29。リトアニア隣国のベラルーシ国内で行われた演習も複数あり、クリミア紛争のような実例がある以上、リトアニアの立場としてはこれらの演習が演習を装った侵攻準備ではないかと警戒し続ける必要がある。
ウクライナの「ブチャ虐殺」に代表されるような、侵攻初期に露呈したロシア軍の蛮性もNATOにとって危機感を感じさせるものであった。ロシア軍の蛮行は今に始まったことではないが、今回は世界の耳目を集め広く周知された。この蛮性は軍としての精強さとは別種のものであり、ロシアに侵攻された地域では戦闘の付帯的損害とは別に、多数の民間人が犠牲となることが実証された。軍事的必要性とは全く関係のない拷問・虐殺が行われていたことも含め、NATO加盟国でも特に直接ロシア(及びベラルーシ)と国境を接するバルト諸国には明日は我が身と実感させられたことと考えられる。
ロシアがリトアニアやバルト地域に侵攻するような理由はあるのだろうか。“War with Russia”においては、NATOによる包囲網を解囲してロシアの防衛態勢を強化するためとされていた。現実に起こったウクライナへの侵攻直後にはNATO東方拡大が原因であるという説も散見されたが、プーチン大統領自身はロシアとウクライナの歴史的一体性を強調した上で、暴虐なウクライナ政府からの住民保護およびウクライナ政府の非軍事化・非ナチ化を理由としていた。いずれにしても根拠に乏しく、民主主義国家の価値観からすると到底考えられない理由である。単にロシア側の想定していた以上の事態に陥ったことを糊塗している可能性も否定はできないが、侵攻は実行に移されてしまい、現在も戦争が継続していることは事実として存在する。
おわりに
このような状況から、リトアニアへのドイツ軍常駐は防衛態勢の強化としては実効性の高いものであると考えられる。この報道に対してロシア側は直接的な反応を示していないが、米国戦争研究所(ISW)によるとプーチン大統領は2024年1月16日に「ラトヴィアや他のバルト諸国がロシア系住民を追放している」と主張し、この状況は「ロシアの安全保障に直接影響する」と述べた30。この種の論法は伝統的に侵略の口実として利用されるものでもある。同月19日にはバルト諸国の国防相がロシア・ベラルーシ国境沿いに防衛施設を構築することを明らかにし31、同日ドイツのピストリウス国防相は「差し迫ってはいないが、ロシアが10年以内にNATO加盟国を攻撃する可能性がある」と述べている32。冷戦終結から30年間、NATOはロシアを共に歩むべきパートナーとして扱ってきたが、2022年にその姿勢を転換した。リトアニア軍における戦車部隊の新編やドイツ軍常駐は、その変化が更に進んだことを示すものであると言えるだろう。
Profile
- 松尾 康司
- 戦史研究センター戦史研究室所員
- 専門分野:
バルト諸国史、NATO 史