NIDSコメンタリー 第345号 2024年8月6日 北朝鮮の先制ドクトリン——核へのエスカレーションではなく、核で始まる戦争
- 地域研究部アジア・アフリカ研究室長
- 渡邊 武
核「先制」(Preemption) 1は、核で戦争を開始し得るドクトリンである。北朝鮮はこれを採用し、ロシアの「先行」使用(First Use、戦時に相手より先に核へのエスカレートをする方針)と比べてさえも威嚇的な姿勢を示している。
先行使用から先制へ
先制とは単に先に攻撃することではない。相手から攻撃の兆候があった時にその手段を未然に破壊し、自らへの被害が現実化しないようにする行為である。よく知られた概念であるが、攻撃が差し迫ったと判断することは容易ではないため、実例は限られる。
希少な例である1967年のイスラエルは、エジプト空軍の襲来が差し迫ったとの情報を得たからこそ先制に成功した2。北朝鮮も核先制ドクトリンに現実性を持たせたければ、日韓やグアムの基地における米軍などの動向を把握できねばならない。北朝鮮が運用を進めようとしている偵察衛星は、それに資する能力である。
ただし、イスラエルの先制は通常兵器で行われた。北朝鮮はなぜ、核兵器で先制を実施すると表明しているだろうか。先制が成功するためのハードルは、攻撃が差し迫ったとの判断にある。それは核使用で容易にはならない。
北朝鮮の意図は確実な先制よりも、核で戦争を始めるとの威嚇にあるのだろう。そのドクトリンはおそらくロシアの先行使用に基づいており、北朝鮮はそこに先制を加えた。
まず、2020年6月2日にプーチン大統領が署名した文書によれば、ロシアは「まさに国家の存在を危険にさらす」場合、「通常兵器」による攻撃に対しても核で報復し得る。また、政府や軍の重要施設への攻撃があり、それが核戦力の行動を難しくするならば、かかる攻撃手段が核でなくてもロシアの対応は核によるものとなり得る3。
これは明示的な先行使用といってよく、2年後の2022年9月8日に北朝鮮が公式化したドクトリンも、ほぼ同様な条件での先行使用を表明していた。北朝鮮のドクトリンによれば、「国家指導部と国家核戦力指揮機構」に対する「核および非核攻撃」、あるいは「国家の重要戦略対象」への「軍事的攻撃」には、核兵器で対応する4。
北朝鮮がロシアと異なるのは、これら非核攻撃がまだ現実化していなくても、「差し迫った」ならば核兵器を使用するという、先制も表明している点である。北朝鮮のドクトリンはいう。自らに対する「核兵器または
核での開戦
なぜ北朝鮮は先行使用で十分とは考えず、先制にまで至ったのか。まず考えるべきなのは、相手の攻撃が「差し迫った」と判断されるとき、戦争はまだ始まっていないという点である。
先制が実行されたならば、それは戦争ないし紛争での最初の打撃であり、核先制は戦争を核で開始する。これに対して先行使用は、戦闘が続くなかでのエスカレーションとして先に核を使用する方針であるため、開戦は核以外で行われる。
ロシアは通常兵器での軍事侵攻をしつつ、領域確保などの目的を達成する戦略をとってきた。このためロシアには、米国などの介入を防ぐために核の先行使用を脅す機会と有用性がある。
しかし北朝鮮は通常戦力として米韓に対して著しく劣勢であり、軍事侵攻を伴う戦略は難しい。戦争や軍事侵攻をしなければ、直接的に先行使用を脅すことはできない。そのため、北朝鮮にとって先行使用の有用性は限られる。
他方で北朝鮮が戦争をしていないことは、開戦を脅迫のオプションとして維持していることでもある。プーチンは実際にウクライナとの戦争をしてしまった結果、ウクライナに戦争をすると脅迫できなくなった。対照的に金正恩は戦争を保留していることで、戦争すると脅迫し続けられる。
2023年12月末、金正恩は「核兵器」を含む手段を動員して「南朝鮮全領土を平定する」準備を進めると演説した5。これも、開戦していないから可能な脅迫である。
開戦の脅しに核を最大限に活用するドクトリンは、開戦した後で核にエスカレートする先行使用ではなく、開戦が核使用を意味する先制であろう。劣勢の通常兵器で開戦すると脅迫しても信ぴょう性は低い。核兵器によって開戦する先制ドクトリンがあれば、金正恩が本当に発言通りに行動するかもしれないとの切迫感を韓国側に抱かせ得るのである。
軍への核攻撃、市民を脅す
金正恩によれば北朝鮮の軍事力の目的は戦争防止だけでなく、核戦力も「戦争抑止」以外の「第2の任務」を持っている。そして北朝鮮の戦争は「大韓民国という実態を酷く壊滅させ終わりにする」のだという(2024年1月15日)6。
この発言から、抑止ではない「第2の任務」が戦争遂行だと考える立場もあろう。しかし抑止ではない軍事力の役割には、戦争を完遂するのではなく、脅迫で相手を要求に屈させる強要(Coercion)もある。核先制ドクトリンの性質と北朝鮮の言説はそれとの一貫性が高い。
まず、核先制は対兵力攻撃(部隊や施設など軍事目標への核攻撃)であり、結果として対価値攻撃(都市などへの核攻撃)が保留されたまま核戦争が始まる。保留しているオプションは脅迫の手段に他ならない。北朝鮮は韓国の市民に対し、対決を続ければ都市が次の標的になると脅迫できる。
実際、核先制ドクトリン公表の半年ほど前の2022年4月、北朝鮮側は無謀な韓国軍が核の惨禍を招き、そこに市民が巻き込まれていくとの恐怖を韓国内に広めようとした。韓国軍のキル・チェイン(kill-chain、通常兵器による先制)戦略への非難として、この戦略が核の報いを招くと強調したのである。
韓国軍が「核保有国への『先制打撃』を云々するのは気狂い」であり実施すれば、北朝鮮は韓国軍を「無慈悲にせん滅」する(朴正天・朝鮮労働党中央委員会書記、元朝鮮人民軍総参謀長)7。あるいは韓国軍が北朝鮮に「先制打撃」をすれば、核攻撃により「南朝鮮軍は壊滅、全滅に近い惨憺たる運命」に直面するのであり「核保有国を相手とする軍事的妄想を控えねばならない」(金与正・朝鮮労働党中央委員会副部長)のだという8。
戦争遂行、すなわちプロフェッショナルな軍隊の任務を説明する上で、「無慈悲」や「惨憺たる運命」などという感情的な言説は求められない。この発言が向けられている相手は、戦争遂行の相手となる韓国軍ではなく、一般市民である。目前で核の惨禍が起きると、市民に印象付けている。
そしてその核の惨禍は、韓国軍のせいで市民に近づいていく。朴正天は「無慈悲にせん滅」する対象として韓国軍だけでなく、「ソウルの主要施設」に言及することも忘れていない。金与正は後に、危険を招く尹錫悦政権をなぜ韓国国民がそのままにするのかと述べ、文在寅政権時には「少なくともソウルは我々の標的ではなかった」とも警告している9。
戦争遂行であれば相手の軍事能力を破壊することに集中すべき対兵力攻撃は、強要においては市民への核攻撃を保留していると脅迫する役割を担っている。それを示すのが上述の脅迫であり、同じ月である2022年4月、金正恩は核戦力が「第2の任務」を担うと初めて明らかにしたのであった10。
おわりに
いまや戦争の脅しは、核戦争の脅しにかわった。北朝鮮が戦争をしていないことは平和を必ずしも意味せず、戦争するとの脅迫が続くことでもあり得る。この強要戦略に必要なドクトリンが、核で戦争を始める先制である。
Profile
- 渡邊 武
- 地域研究部アジア・アフリカ研究室長
- 専門分野:
朝鮮半島の安全保障