NIDSコメンタリー 第343号 2024年7月30日 フィリピンの国家安全保障戦略 —— 基本的性格、策定経緯、現政権における含意

地域研究部アジア・アフリカ研究室研究員
辻田 友規

はじめに

フィリピンでマルコス政権が発足してから約2年が経過した。現政権は、2023年8月頃に国家安全保障戦略文書「国家安全保障政策2023-2028」を策定した。この「国家安全保障政策」は2011年にアキノIII世政権が策定し始め、彼以降の政権も出してきた国家安全保障戦略文書である。この戦略文書は、フィリピンの外交や安全保障に指針を与える文書であり、その政権の国家安全保障上の問題意識やその問題への取り組み方に関し示唆を与える重要な文書である。だが、これまでフィリピンの安全保障分析において取り上げられてきたことは少なかった。また、取り上げていたとしても策定開始の経緯や内容について論じていてもその他の詳細な部分について触れているものは管見の限り存在しない1。そこで、本稿ではこれまで公開されてきた3つの「国家安全保障政策」に共通する基本的性格とは何か、どのような経緯で策定され始めたものなのか、そして現政権の「国家安全保障政策」が持つ含意とは何かについて論じる。

「国家安全保障政策」の基本的性格

これまで3つの政権で策定されてきた戦略文書「国家安全保障政策」は、共通して安全保障と開発を相互補完的に捉えている。加えて、軍事のみならず経済や社会そして文化も国家安全保障の一部とし、国家安全保障を包括的に捉えている。策定に関し、最初の「国家安全保障政策2011-2016」は大統領命令の回付文書(Memorandum Order)第6号によって策定命令が下され、文書の中身については国家安全保障担当顧問兼国家安全保障会議事務局長が主導するとした2。後続の戦略文書からは、大統領令(Executive Order)によって策定指示は出されずに、同命令で全ての中央政府機関や政府関連機関が戦略文書に基づきそれぞれの安全保障に関連する戦略やプログラムを形成するようにとしている。また、国家安全保障担当顧問が「国家安全保障政策」の実施を監督するとしている3

「国家安全保障政策」の策定経緯

「国家安全保障政策」はアキノIII世大統領から策定が始まったわけであるが、彼自身この戦略文書にいたる考えを実は既に大統領選が始まる少し前から示していた。2010年4月に開かれたフォーラムで当時上院議員だったアキノIII世氏はスピーチを行った。その中で彼はアロヨ政権下で起こった虐殺事件や不可解な保釈に言及し、彼女の政権下で起きた様々な事件はフィリピンが抱える構造的な問題の現われであると主張した。そして、アロヨ大統領はその構造的な問題に取り組んでこなかったと批判し、包括的な国家安全保障政策でもって誰が次期大統領になるにしてもフィリピンが抱える根本的な問題に取り組まねばならないとの持論を展開した。更に、彼は、同スピーチで後に策定される「国家安全保障政策2011-2016」内で示されるフィリピン国家安全保障4つの柱、すなわち統治、基本的なサービスの提供、経済再建と持続可能な開発、そして安全保障部門改革を提示した。そして、これら4つを追求していくことでフィリピン国家安全保障の究極的な目標である国民の幸福と安全確保を達成できるとも主張した4

2010年6月にアキノIII氏はフィリピン大統領に就任し、10月に大統領命令の回付文書第6号で「国家安全保障政策」及び「国家安全保障戦略」策定の指示を出したのであった5。ただし、前者は2011年に出されたものの後者は何らかの理由により策定されることはなかったようだ。アキノIII世大統領に続くドゥテルテ政権では「国家安全保障政策2017-2022」と「国家安全保障戦略2018」が出され、現政権は「国家安全保障政策2023-2028」を出した。現大統領が「国家安全保障戦略」を策定するのかもしくはその最中なのかは本稿執筆時点では判明していない。

なお、フィリピンにおいては「国家安全保障政策」で大枠としてフィリピンの国家安全保障戦略を示し、「国家安全保障戦略」ではその戦略で示された戦略目標を追求するための行動計画等をより詳細に示している6

「国家安全保障政策2023-2028」が示すものとは?

マルコス現大統領は、2023年8月頃に「国家安全保障政策2023-2028」を出した。前二政権と比較すると、大きく変更されたところはなく包括的なもので軍事や社会経済などを国家安全保障の一部として捉えている。しかし、異なるのは南シナ海に触れている頻度である。前二政権の「国家安全保障政策」で全く触れていないわけではないが、マルコス現政権のものよりは多くはない。換言すると、マルコス政権はより南シナ海を意識している。実際、軍事だけでなく経済そして外交関連の項目においても南シナ海について触れている。経済の項目では、前二政権の戦略文書は南シナ海についてあまり触れてこなかったが、現政権のものでは同項目に含まれているエネルギー分野にて、対外依存度を減らすために南シナ海を含む沖合にあるエネルギー資源の開発に着手すると言及した。加えて、食料面でも南シナ海を含む海の漁獲量増進や豊富な水産資源から利益を得られるよう努めるとの姿勢も見せた7。外交に関連した項目では、国連海洋法条約と2016年の南シナ海に関する比中仲裁裁判所が出した判決を固く支持するとし、西フィリピン海8国家タスクフォースの強化などフィリピンの海洋領域を強固に守る努力を推進するとの姿勢を示した9

「国家安全保障政策2023-2028」は、上記のように、南シナ海という単語を経済や外交関連の項目で意識的に含ませ、その項目における戦略目標を提示したのである。この触れる頻度の多さに彼の「外国勢力に一平方インチたりとも領土を渡すつもりはない」10とする南シナ海を重視する彼の姿勢が戦略文書に反映されていることが窺える。

マルコス大統領の南シナ海を重視する姿勢は様々な形で現れてきている。例えば、日米豪や欧州諸国との安全保障協力の活発化がある。二国間レベルでは、伝統的な同盟国である米国と米比二国間防衛ガイドラインの策定11や防衛力強化協定(EDCA)内で既に指定されていた5つのフィリピン国内施設に加えて新たに4つの施設に対して米軍がアクセスできるようにした12

米国に加えて現政権は日本との二国間防衛協力もより強力に推し進めてきた。日本の防衛協力の一環として警戒管制レーダーの供与を受け13、また部隊間協力円滑化協定の署名をして日比間で防衛協力がより行いやすい状態に置く14など協力関係が深まってきた。これらのあらゆる防衛協力が進んできたため今では日本とフィリピンは「準同盟」とまで評される状態になった15

多国間レベルでは、日米豪と初の共同訓練実施16や日米比首脳会談17そして2度にわたる日米比豪防衛相会談の開催18などを行い東アジアの米国同盟網強化に積極的に参加してきた。また、東アジア諸国のみならずスウェーデンやフランスなどの欧州諸国と防衛装備を含む防衛協力の促進も図ってきた19。他にも、排他的経済水域まで防衛範囲を拡大する「包括的群島防衛構想」という新たな防衛戦略の導入20や海洋安全保障政策の形成を担う中枢機関として「国家海事評議会」を新設する21など国内の体制作りを着々と進めてきた。

南シナ海を重視する姿勢は継続的な補給任務の実施にも現れてきている。フィリピンは、1999年に当時から中国と領土紛争を抱えていたセカンド・トーマス礁(フィリピン名は、アユンギン礁)に意図的に船を座礁させてきた。この礁付近で最近中国とフィリピンの間で衝突が頻発してきており、中国側からのレーザーや放水銃を用いた妨害行為をフィリピン側は受けてきた22。しかし、これらの妨害行為に怯むことなくフィリピン側は補給任務をこれまで継続して行ってきており、活動の継続をもって自らの領有権を主張してきた。

おわりに

2010年代初頭より各政権で策定されてきた「国家安全保障政策」は、フィリピンの国家安全保障を多面的に捉えて包括的に指針を示した戦略文書である。戦略文書策定は、アキノIII世が大統領に就任する前からアキノIII世自身によって示唆されており、彼が自らの考えを就任後に実行したわけである。その後、各政権は少なくとも「国家安全保障政策」は策定している。マルコス現政権が出した「国家安全保障政策2023-2028」は、前二政権と比べて南シナ海重視の姿勢を明らかにし、具体的な行動を起こして領土を死守する構えを見せてきた。今後、同政権が「国家安全保障戦略」を策定するかは本稿執筆時点では定かではないが、策定するとしたら南シナ海を意識したものになるのではと考えられる。

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  • 辻田 友規
  • 地域研究部アジア・アフリカ研究室研究員
  • 専門分野:
    フィリピンを中心とした東南アジア安全保障