NIDSコメンタリー 第335号 2024年6月28日 防衛省・自衛隊の70年史を振り返る

戦史研究センター安全保障政策史研究室主任研究官
千々和 泰明

はじめに

2024年7月1日、防衛省(旧防衛庁)・自衛隊は創設から70年を迎える。この年月の長さは、明治期から第二次世界大戦での敗戦で解体されるまでの旧軍の歴史に迫りつつある。

防衛省・自衛隊の70年という時間の振り返り方には、様々なアプローチがあるだろう。たとえば歴史家のアーロン・スキャブランドがおこなったように、自衛隊が日本社会に受容されるプロセスとして描くことも可能である1。こうした様々なアプローチのなかで、特に本稿では、「安保三文書」(「国家安全保障戦略」、旧「防衛計画の大綱」および現「国家防衛戦略」、旧「中期防衛力整備計画」および現「防衛力整備計画」)の歴史を軸に、歴史的観点から防衛政策の変化とその現在地を考えるというかたちをとることにしてみたい。

三文書前史―「国防の基本方針」と「一次防」から「四次防」まで

第二次世界大戦に敗れた日本は、連合国によって武装解除され、占領下の1946年に公布された日本国憲法第9条は戦争放棄と戦力不保持を規定した。ところが、米ソ協調の下で日本軍国主義の復活を防ぐとするヤルタ体制は、冷戦が始まったことであえなく瓦解する。

1950年に朝鮮戦争が勃発すると、同年にGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の指令により警察予備隊が創設された。1951年の一連の吉田(茂総理)=(ジョン・フォスター・)ダレス(特使)会談では、アメリカ側は日本に再軍備を強く求めた。占領末期の1952年には海上保安庁に海上警備隊が設置される。また同年の主権回復を経て、保安庁が設置され、海上警備隊は保安庁の警備隊に、警察予備隊が保安隊に改組された。アメリカはMSA(相互安全保障法)にもとづく対日援助を、日本の自助努力を条件におこなうことになり、そのためにおこなわれた日米交渉が1953年の池田(勇人・自由党幹事長)=(ウォルター・)ロバートソン(国務次官補)会談である(1954年にMSA協定署名)。

吉田は、「吉田ドクトリン」とも呼ばれる軽武装・経済優先路線をとった。しかし1953年の衆議院総選挙で吉田自由党政権が少数与党内閣に転落したことで、憲法改正・本格的再軍備を通じた自主防衛を掲げる野党改進党の影響力が高まった。同年、吉田は改進党総裁の重光葵と会談し、保安隊を自衛隊に改組することや、長期防衛力整備計画を策定することなどで合意した。1954年7月1日に防衛庁設置法・自衛隊法が施行されて陸海空自衛隊が創設されたのは、以上のような対外的・対内的要請のためであった。また同じ年には、鳩山一郎政権の下で、憲法第9条の解釈として「自衛のための必要最小限の実力」は保持できるとする「必要最小限論」が確立する。

防衛庁設置法は、国防会議(現在の国家安全保障会議〔NSC〕)の諮問事項として、「国防の基本方針」や「防衛計画の大綱」を挙げた。岸信介政権期の1957年に策定された「国防の基本方針」は、国防の目的を「直接及び間接の侵略を未然に防止し、万一侵略が行われるときはこれを排除し、もって民主主義を基調とするわが国の独立と平和を守ること」に置き、この目的を達成するため、「国力国情に応じ自衛のため必要な限度において、効率的な防衛力を漸進的に整備する」ことを基本方針の一つとした。

これを受けて、「国防の基本方針」策定の約一か月後に3か年防衛力整備計画として「第一次防衛力整備計画」(正式名称は「防衛力整備目標について」。いわゆる「一次防」)がとりまとめられた。以後、5か年防衛力整備計画として、「二次防」(1961年)、「三次防」(1966年「大綱」策定。ただし「主要項目」策定は1967年)、「四次防」(1972年)が策定されることになる。

前述のように日本は連合国によっていったん非軍事化されたため、戦後における防衛力再建はほぼゼロからの出発となった。そこで防衛力再建のための戦後初めての長期防衛力整備計画となった一次防は、当時在日米地上軍が急速に撤退しつつあったことにともない、陸上防衛力を中心に「ともかく一応の体制をつくりあげること、すなわち骨幹防衛力を整備する」という性格の計画であった。

その後二次防で初めて、「日米安全保障体制の下に、在来型兵器の使用による局地戦以下の侵略に対し、有効に対処しうる防衛体制の基盤を確立する」との目標が掲げられた。続く三次防では、「わが国が整備すべき防衛力は、通常兵器による局地戦以下の侵略事態に対し、最も有効に対応しうる効率的なものを目標とする」とされた。三次防の防衛力整備の方針は、四次防でも踏襲された。

四次防までの防衛構想は、「脅威対抗論」に立ついわゆる「所要防衛力構想」と呼ばれるものであった。ただ、現実的な目標というより、とりあえずの防衛力再建という意味合いが強かったといえる。

「一文書」時代―「防衛計画の大綱」への転換

ところが1970年代に入ると、従来の方式による防衛力整備が限界に直面することになった。米ソのデタント(緊張緩和)や、第一次石油危機(1973年)後の景気後退により、計画策定のたびに予算が倍増されてきた防衛力整備の在り方に対して厳しい目が向けられるようになったからである。実際に四次防の所要経費は、原案から約6000億円も減額されたうえ、同計画は海上自衛隊の艦艇4分の1以上などの整備が未達成のままで終了せざるをえなかった2

ここで登場したのが、「基盤的防衛力構想」という考え方である。従来の所要防衛力構想に対し、基盤的防衛力構想は、①普段は防衛に必要な各種の機能を保持してその機能的・地理的均衡を図っておく、②日本の防衛力の大きさは、「限定的かつ小規模の侵略」に日本が「独力」で対処できる程度で十分である、③もし国際的な緊張が高まったら、防衛力を拡張(エクスパンド)すればよい、とする。この防衛構想は、防衛事務次官を務めた久保卓也が提唱した「脱脅威論」、すなわち脅威に対応する防衛力を整備の目標にしないとする考え方にもとづくものだと言われることが多い。ただし防衛庁・自衛隊内では、基盤的防衛力構想といっても想定される脅威のレベルを下げた「低脅威対抗論」であり、あくまで脅威対抗論の一種であるとの解釈も有力であった3

基盤的防衛力構想は、防衛政策に関する「国民のコンセンサスづくり」のために導入されたと言われるが、実際には、デタント下で防衛力への下方修正圧力が強まるなか、現有防衛力を守るためのロジックとしての意味もあった4。このような基盤的防衛力構想にもとづき、三木武夫政権期の1976年に国家防衛戦略の前身にあたる「防衛計画の大綱」(「防衛大綱」)が初めて策定された。この「1976年大綱」は、四次防までの防衛力整備計画とは異なり、計画期間の定めがなく、予算とも紐づいていないものであった。

なお、1976年大綱策定から1週間後、防衛予算の対GNP比1%枠が設定された。また同年に、これらに先立って「武器輸出三原則」(1967年に佐藤栄作総理が国会で表明)の対象地域以外へも武器の輸出を慎むとする政府見解が発表されている。

「二文書」時代―「中期防衛力整備計画」の登場

1976年大綱の下、1979年に「中期業務見積り」(「中業」)が作成された。これは5年間に実施する自衛隊の主要な事業を見積り、各年度の業務計画や予算概算要求などを作成する際の参考とするための文書である(3年ごとに新たな見積もりを作成し直す)。ただし、中業はあくまで防衛庁限りの参考資料であって、防衛大綱のような正式な政府計画ではなかった。

「一文書」が「二文書」に移行するのは、中曽根康弘政権期の1985年に3度目の中業が政府計画に格上げされて「中期防衛力整備計画」(「中期防」)となったことによる。現在の「防衛力整備計画」である。前述の通り、防衛大綱は計画期間の定めがなく、予算とも紐づいていないのに対し、中期防は5か年計画で、かつ所要経費も定めたものであり、「1985年中期防」から「2019年中期防」まで計8回作成される。

中期防が策定された背景には、1976年大綱策定当時から国際環境が変化したことがあった。1979年にソ連軍がアフガニスタンに侵攻すると、デタントの終焉と、米ソ「新冷戦」の到来が喧伝された。北東アジアでもソ連の脅威が増大した。折しも日米経済摩擦のなか、アメリカ政府も日本に防衛力増強を要求する。中期防によって5年計画が復活したのは、1976年大綱策定当時のような「防衛力を増やせない」状況から「増やす」ことが求められる状況に移行したことが大きい。

1985年中期防では、18兆4000億円の予算が確保された。またシーレーン防衛能力の向上が図られるなど、それまで考えられていた基盤的防衛力の量的枠からはみ出すような防衛力整備も容認された5。こうした防衛力増強は、基盤的防衛力構想の低脅威対抗論的解釈に支えられ、そのことは政府の国会答弁でも示される6。また1987年1月24日にはGNP1%枠も撤廃された。

冷戦終結後の1995年、1976年大綱は19年ぶりに改定された。「1995年大綱」は、基盤的防衛力構想を踏襲し、同構想について「わが国に対する軍事的脅威に直接対抗するよりも、みずからが力の空白となってこの地域における不安定要因とならないよう、独立国としての必要最小限の基盤的な防衛力を保持するという考え方」と定義した。1995年大綱が冷戦時代の基盤的防衛力構想を踏襲し、新冷戦期とちがって脱脅威論を強調したのには理由がある。冷戦終結とは、ソ連・ロシアの脅威の低下により、防衛力への下方修正圧力を強める事象であった。このような下方修正圧力に対し、脅威と現有防衛力を切り離すことで現有防衛力を守るためのロジックとして、デタント期に続きやはり脱脅威論は有用であった7

1995年大綱のもう一つの特徴は、1976年大綱にあった限定小規模侵略独力対処という考え方を削除したことである。これには次のような背景があった。そもそも戦後日本では防衛力再建が優先され、運用とは次元の異なる「防衛力整備のための防衛力整備」のような考え方がとられるきらいがあった。整備された防衛力を具体的にどう使うのか、というオペレーショナルな議論にまでは及びにくかったといえる8。その象徴が限定小規模侵略独力対処概念であった。オペレーショナルな意味で言うと、限定小規模侵略であっても日米共同対処となるからである。それでも「独力」対処をうたったのは、防衛力整備のための予算要求上のロジックが必要だったからである9

ただその後、1976年大綱策定後の中業や中期防にもとづく防衛力整備の逐次の進展、そして、「1978年ガイドライン」(「日米防衛協力のための指針」)策定以来の自衛隊とアメリカ軍の役割分担の明確化などを通じて、運用についても以前に比べてリアリティをもって考えることができるようになった。また、1992年以降はカンボジアPKO(国連平和維持活動)への参加も始まっていた。

1995年大綱が限定小規模侵略独力対処という考え方を削除したのは、実際の運用とは異なる、防衛力整備のための概念である限定小規模侵略独力対処の考え方をとり続けることが、以上のような背景から時代にそぐわなくなってきたためであった10

運用重視の流れは、続く「2004年大綱」が、基盤的防衛力構想の継承とともに「多機能弾力的防衛力」の考え方を掲げたことなどで次第に明確になる。この背景には、テロ(2001年に9・11アメリカ同時多発テロ事件が発生した)や北朝鮮の弾道ミサイルなど、新たな脅威や多様な事態への対応や、国際平和協力活動への取り組みが求められるようになったことがある。またこの大綱期間中の2006年に自衛隊は統合運用体制に移行した。統合幕僚会議議長として統合運用への移行の先鞭をつけた竹河内捷次は、これと防衛構想の変化の関係について、「統合ができて、いろいろな意味で本来あるべきことに近づいていけたという土壌にはなった」と語る11

さらに「2010年大綱」では、基盤的防衛力構想に代わって「動的防衛力」の考え方が採用された。平時と有事の中間としての「グレーゾーン」の事態など多様な事態へシームレスに対応することをめざした防衛構想であった。脅威対抗と運用重視の流れが強まったといえる。

ただ、2010年防衛大綱と中期防を統括するような上位の戦略文書の策定はなされないままであった。冷戦期の日本の安全保障政策の主眼は、日米安全保障体制の下で、漸進的な防衛力整備を進めていくことであった。こうした状況の下では、日本があえて「安全保障戦略」を掲げる必要性は乏しかったといえる。逆に「戦略」などという言葉を用いることで、「軍国主義復活」といったレッテルを貼られかねない国内事情もあった。

「三文書」時代へ―「国家安全保障戦略」・「国家防衛戦略」・「防衛力整備計画」の成立

ところが冷戦終結以降、こうした状況は徐々に変化していった。特に近年では、中国の軍事的台頭や北朝鮮の核能力の向上など、日本を取り巻く安全保障環境が厳しさを増すなか、しかもアメリカの対外関与の後退という長期的趨勢を前にして、抽象的・総花的な「国防の基本方針」を掲げておくだけでは不十分だと認識されるようになった。防衛力整備を中心とし、状況に対して「受け身」の姿勢であることの限界が認識されるようになったということである。必要とされたのは、日本の国益を長期的視点から見定め、国際社会のなかで進むべき針路を、政府全体として定めることであった。

こうして第二次安倍晋三政権期の2013年に戦後日本初の「国家安全保障戦略」が策定された。この国家安全保障戦略の特徴は、「国際協調主義に基づく積極的平和主義」を理念として掲げたことである。つまり日本から積極的に働きかけていくことによって、日本や世界にとって望ましい国際秩序をつくり出そうとする態度をとるということである。実際に安倍政権は「自由で開かれたインド太平洋」(FOIP)構想をリードする。これはアジア太平洋からインド洋を経てアフリカにいたる地域で法の支配にもとづく秩序を実現し、繁栄と平和をもたらそうとするものである。また、国家安全保障戦略策定とほぼ時を同じくして、安全保障政策の「司令塔」としてNSCが創設されている。

こうして国家安全保障戦略・防衛大綱・中期防から成る安保三文書が出そろうこととなった。この時策定された「2013年大綱」における「統合機動防衛力」は、動的防衛力の考え方を発展させたものである。続く「2018年大綱」では、宇宙・サイバー・電磁波といった新領域への対応を念頭に、「多次元統合防衛力」という構想へとアップグレードされた。

2013年に安保三文書が策定されたのち、大国間の「地政学的競争」はさらに激化していった。東アジアにおいては、台湾有事への懸念が広がりつつある。東ヨーロッパでも2022年にロシアがウクライナ侵略を開始した。また、反撃能力の保有や防衛予算増額など、多岐にわたる諸施策についてアップグレードが求められていた。ここに、2022年の安保三文書改定がなされることになる。

おわりに

防衛庁・自衛隊創設から70年目を迎える今年、「防衛装備移転三原則」の運用指針が改定され、イギリス・イタリアと共同開発中の次期戦闘機の第三国への輸出が解禁された。また本年度中には「統合作戦司令部」が創設される見通しであるなど、新たな歴史を刻みつつある。それでは、前史を含む以上のような安保三文書の歴史から、防衛政策の変化とその現在地をどのようにとらえることができるであろうか。

第一に、脅威論の変化である。三文書前史、すなわち一次防から四次防の時代にとられた脅威対抗論は、現実的な目標というより、とりあえずの防衛力再建という意味合いが強かったといえる。防衛大綱における基盤的防衛力構想の導入は、脅威対抗論から脱脅威論への転換とされたが、実際には脅威対抗論として解釈しうる余地も残すものであった。防衛政策は、デタント期やポスト冷戦期における防衛力の下支えとしての脱脅威論と、新冷戦期に強調されたような脅威対抗論の二通りの解釈のあいだを揺れ動いてきたといえる。

こうした論争的な展開を経て、現在の2022年国家防衛戦略では、「戦後、最も厳しく複雑な安全保障環境の中で、国民の命と平和な暮らしを守り抜くためには、その厳しい現実に正面から向き合って、相手の能力と新しい戦い方に着目した防衛力の抜本的強化を行う必要がある」としている。脱脅威からそれこそ脱したといえるだろう。

第二に、防衛力整備重視から運用重視への移行である。戦後日本では、防衛力整備のための防衛力整備のような考え方がとられるきらいがあり、オペレーショナルな議論にまでは及びにくかった。そのことを示す典型例が、前述の通り限定小規模侵略独力対処という概念であった。1995年大綱における同概念の削除は、防衛力整備のための防衛力整備のような考え方から、運用上の要求にもとづく防衛力整備への転換を象徴するものであったといえよう。

2022年安保三文書では、新領域での戦いなども念頭に、またこれまで保有しないとされてきた反撃能力などの手段も含めて、運用重視の方向性が強く意識されている。防衛省・自衛隊の歴史は、非軍事化された敗戦国の安全保障機能が、70年の歳月を経て脅威論やオペレーションの面でリアリティを高めていったプロセスとしてもとらえることが可能であろう。

Profile

  • 千々和 泰明
  • 戦史研究センター安全保障政策史研究室主任研究官
  • 専門分野:
    防衛政策史・戦争終結論