NIDSコメンタリー 第330号 2024年6月14日 NATOによるユーゴスラビア空爆から25年———ステルス機撃墜の真相と教訓

戦史研究センター戦史研究室主任研究官
中村 宗一郎

はじめに

1999年3月24日(水)、北大西洋条約機構(NATO)によるユーゴスラビア空爆(アライド・フォース作戦)が開始され、同年6月9日まで78日間続いた。本空爆は、NATOが人道上の理由で国連安保理の承認を得ずに行った軍事行動であり「合法性」と「正当性」が議論となるとともに、小国ユーゴに対してNATOの圧倒的な戦力の下で地上作戦が行われず航空作戦のみで実施された作戦であったことなどが注目された。当時、陸上自衛隊の高射特科部隊で訓練の企画等を担当していた筆者が注目したのは、「見えない戦闘機」と言われていた米軍のステルス戦闘機F-117(ナイトホーク)が撃墜されたというニュースであった。「旧式のソ連製対空システムを装備するユーゴスラビアが、レーダーに映らない最新鋭の戦闘機をどのようにして撃墜したのか」、将来は米軍だけでなく、他国もステルス機を開発することが予想される中で、防空を任務とする高射特科の幹部として現有装備でステルス機にいかに対抗できるのか興味を持ったのである。当時の筆者は、「過去の戦闘経験から飛行経路を特定し、機関砲等の射程内の低空において目視で照準し、撃墜したのではないか」などと想像していた。

筆者は、2009年6月から2012年7月まで、在セルビア日本大使館に防衛駐在官として派遣された際、ベオグラード・二コラ・テスラ国際空港の隣にあるベオグラード航空博物館に撃墜されたF-117の残骸が展示されているのを発見した。ある日、セルビア軍参謀本部を訪れた際、対応してくれた国際部長が同じ防空職種であったことから意気投合し、F-117が撃墜された状況について尋ねると筆者が想像していたのとは異なり「何度かの戦闘経験からF-117が旋回し、投弾する際にレーダーが目標を捕捉することが分かっていたので、その瞬間に対空ミサイルを2発発射して撃墜した」と教えてくれた。

ユーゴスラビア国民軍によるステルス機の撃墜には、指揮官の指揮・統率、部隊運用、教育訓練などの参考となる様々な教訓があると思われるため、紹介したい。

ステルス機撃墜の真相

世界初の実用ステルス機であるF-117が撃墜された状況については、当時、F-117を操縦していた米空軍パイロットのダレル・パトリック・デール・ゼルコ(Darrell Patrick Dale Zelko)大尉(当時、退役中佐)及びF-117を撃墜したユーゴスラビア防空部隊指揮官のゾルタン・ダニ(Zoltan Dani)中佐(当時、退役大佐)が後に当時の状況について語るインタビュー記事などが報道されており、おおよそ明らかになっている。

撃墜されたF-117は、1999年3月27日の夜、ベオグラード近郊の目標を攻撃するため、イタリア北部のアビアノ空軍基地を離陸して東へ飛行、スロベニアを抜けてハンガリー上空でKC-135(空中給油機)と落ち合って給油し、ベオグラードに向けて南下、目標を攻撃した後に、現地時間の午後8時42分頃、ユーゴスラビア国民軍第250防空ミサイル旅団第3射撃中隊のS-125M「ネヴァ」地対空ミサイルシステム(NATOコード名 SA-3「ゴア」)の4連装発射機から斉射された指令誘導方式のV-601Mミサイル(2段式の個体燃料ロケットモーター、全長6m)2発のうち1発目が機体の近くを通過、2発目の近接信管の起爆により左翼を破損、ベオグラード中心部から西北西約40㎞離れたブダノヴツィ村に墜落した。パイロットは脱出後に用水路に身を隠し、翌日、米空軍の戦闘捜索救助チーム(CSAR)のMH-60Gペイブホーク特殊作戦ヘリコプターにより救助された。

撃墜されたF-117は、米国ニューメキシコ州にあるホロマン空軍基地の第49戦闘航空団(49FW)に所属、機体のシリアルナンバー「82-0806」、愛称は「サムシング・ウィキッド(Something Wicked)」であり1991年の湾岸戦争でも活躍した。アライド・フォース作戦は、湾岸戦争に次いで2回目の海外展開作戦であり、撃墜されたF-117を操縦していたゼルコ大尉は、数少ない湾岸戦争の実戦経験者であった。

ゼルコ大尉は、アライド・フォース作戦において第7戦闘飛行隊(7FS)の所属として1999年2月の第3週にホロマン空軍基地からアビアノ空軍基地まで14時間45分かけて展開し、3月24日の第1派の攻撃に参加した後、1日休んで26日に飛行し、撃墜された3月27日は3回目の出撃であった。攻撃目標はベオグラード近くの重要目標である指揮統制施設で、別の日に他のF-117が攻撃を試みて失敗していた。

3月27日の夜は、天候不良により、ゼルコ大尉ら8機のF-117のみが出撃し、通常随伴する電子妨害機のEA-6Bプラウラーや敵防空網制圧(SEAD)を行うワイルド・ヴィーゼル機など他の機種の作戦はすべて中止された。F-117は、攻撃の際にステルス性を向上させるためアンテナを機内に格納していたことにより、無線による通話やレーダー警告受信機の作動ができなかった。

一方ダニ中佐が指揮する第3射撃中隊は、ベオグラードの防空を任務として、同市の西側に展開していた。第3射撃中隊は、1960年代からソ連に配備された高・中高度防空ミサイルS-125の改良版で、ユーゴスラビアに輸出されていたS-125M 、同じくソ連製で1970年代に運用が開始されたP-18早期警戒レーダー(NATOコード名「スプーンレストD」)を装備していた。

S-125Mは、指揮統制装置のほか、3つの主要な対空レーダー装置(P-15目標捕捉レーダー、PRV-11高角測定レーダー及びSNR-125射撃管制レーダー)とミサイルを4発搭載できる発射機から構成されていた。指令誘導方式であるため、ミサイル自体には赤外線や電波などで目標を探知する能力はなく、迎撃の成否はミサイルが目標に到達するまで地上のレーダー操作手がSNR-125射撃管制レーダーによって目標を捕捉できるかにかかっている。SNR-125射撃管制レーダーには、テレビ追跡装置もあり、一旦レーダーで捕捉できればテレビ画像でも目標の追随が可能であった。

ダニ中佐によるとP-18早期警戒レーダーには4つの周波数があり、140mhzのVHF(超短波)の低周波数帯域を使用することにより15マイル(約24キロ)以内のF-117の大まかな位置の追跡が可能であった。また、NATOの電子探知システムは、P-18早期警戒レーダーの周波数が登録されておらず探知できなかった。形状制御技術と電波吸収体技術によってレーダー反射面積(RCS)の低減を図っているF-117も、投弾のため弾倉庫を開けた際にSNR-125射撃管制レーダーにより近距離で捕捉できたという。

ダニ中佐は、技術系の幹部であり湾岸戦争の頃から米軍の航空作戦やステルス機について関心を持ち、西側の敵防空網制圧(SEAD)から生き残り、ステルス機をいかに撃墜するかを研究していたと語っている。彼は電子探知システム及び敵防空網制圧(SEAD)の主要な手段であり、対空レーダーから放射される電波を探知して誘導するAGM-88「HARM」空対地ミサイルによる攻撃を回避するため、様々な創意工夫を行っていた。敵の航空機を捜索・追随するためにレーダーを照射すると、敵に射撃陣地の位置を暴露することになるため、SNR-125射撃管制レーダーの照射は20秒以内に2回だけ、レーダー作動後は、ミサイルを発射していなくても器材を撤収して陣地変換を行うことをルール化した。

また、彼は、射撃中隊の編成について発射機の数、発射機に搭載するミサイルの数を半分とし、繰り返し射撃準備訓練を実施することで、部隊の射撃準備時間を90分(標準的な所要時間は150分)に短縮することにより迅速な陣地変換を可能にした。第3射撃中隊がNATOの攻撃を避けるため作戦間に移動した距離は、10万キロ以上であったといわれている。

第3射撃中隊は、12カ所の予備陣地を構築し、予備陣地には掩体、偽装網、司令部との有線通信回線などを準備していた。陣地変換する際には、退役したSA-2地対空ミサイルシステムやミサイルに似せた丸太を利用して偽陣地を作った。偽陣地には最小限の人員を残し、NATO戦闘機からの攻撃があった際は、地下のコンクリート製防空壕等に避難させていた。更にオーバーホールのために国内の工場で保管していたイラクのMIG-21戦闘機を押収し、同機から取り外したレーダー部品を使ってデコイ(おとり)を設置し、NATO戦闘機に誤爆させるよう誘導した。

企図を秘匿するため、無線や携帯電話など電波を発する通信手段は決して使用せず、必要な場合は伝令を徒歩や車で移動させ情報を伝達するなどした結果、第3射撃中隊は作戦間に23発のHERMミサイルを撃ち込まれたが、人員・器材とも被害はほぼなかったという。

ダニ中佐は、様々な手段により対空情報の収集を主とする情報活動も行っていた。アビアノ空軍基地近くに配置されていた諜報員(ヒューミント)から離陸するNATO軍機の情報を収集することができたことに加えて、NATO軍機の飛行経路上に対空監視員を配置して飛行する航空機を目視で監視するとともに、NATO戦闘機と早期警戒管制機(AWACS)間の無線通信が暗号化されておらず、通話内容を傍受できたという。

第3射撃中隊は、日々の戦訓の分析も行うことにより、NATOの来襲目的、攻撃目標・規模、時期、接近方向、攻撃方向、攻撃手段などNATO軍の航空可能行動をかなり正確に予測できたことから、F-117を待ち伏せして撃墜するために最適の射撃陣地を選定し、対空レーダーの照射も最小限にすることができたと思われる。実際、NATOの作戦規定(SOP)では、任務ごとに飛行ルートを変更しなければならないはずであったが、NATO軍機は3日間同じルートで日々の任務を行っていた。

防空部隊は、掩護対象を守るため、敵航空機が爆弾等を投下して目標を攻撃する前に撃墜するのが一般的であるが、ダニ中佐は、ステルス機の撃墜を優先してF-117の投弾直後のタイミングで待ち伏せ攻撃をする決断をし、防空司令部の射撃許可を受けたうえで部下に射撃を指示した。NATOに対して圧倒的に劣勢のユーゴスラビアにとって、ステルス機の撃墜が米国世論に与える影響やユーゴスラビア国民の士気の高揚などを考慮したと思われる。

3月27日は、第3射撃中隊のP-18早期警戒レーダーが15マイル(約24km)で5機のF-117を捕捉し、SNR-125射撃管制レーダーを2回照射したが、目標を捕捉できなかった。電子妨害機やワイルド・ヴィーゼル機の支援がないという情報を得ていたダニ中佐は、反撃を受けるリスクが少ないと判断、ルールを破って3回目のレーダー照射を指示したタイミングと、ゼルコ大尉が操縦するF-117が投弾のため爆弾倉を開いたタイミングが運よく重なった結果、SNR-125射撃管制レーダーが3回目の照射でゼルコ大尉のF-117を捕捉し、目標まで8マイル(約13km)、高度5マイル(約8km)の時点でミサイル2発が5秒間隔で発射されたのである。ダニ中佐は撃墜確率を高めるため、1つの目標に対してミサイルを斉射することもルール化しており、彼によると斉射によって命中確率は89%まで向上していたという。

ステルス機撃墜の教訓

ユーゴスラビア国民軍が旧式の防空ミサイルシステムによって、ステルス機を撃墜できたのはなぜであろうか。そこには、ダニ中佐の指揮官としての優れた指揮・統率及び部隊運用、団結・規律・士気と練度の高い部隊とともに、NATO側の過失・油断、そして運があった。

ダニ中佐は、現代戦に関心を持ち、まだ誰も経験したことのない将来戦を予測する洞察力、将来戦において現有の編成・装備で生き残って戦いに勝つための「戦い方」を案出する創造力、指揮官の「戦い方」についていけば生き残って敵に勝てることを兵士に納得させる感化力・組織力、確立した「戦い方」を交戦規定(SOP)化する企画力、兵士が交戦規定(SOP)を心手期せずして遂行できるまで反復演練を徹底する実行力、状況に応じて柔軟に決心する状況判断能力など、指揮官として優れた資質を持っていたと思われる。

ダニ中佐が指揮する第3射撃中隊は、5月2日にデイビッド・リー・ゴールドファイン(David Lee Goldfein)中佐(後に米空軍参謀総長)が操縦するF-16も撃墜したとされている。アライド・フォース作戦で撃墜されたNATOの固定翼機(無人機(UAV)を除く)は2機だけと発表されており、いずれも撃墜したのが第3射撃中隊であったことから、戦いにおいて違いを生み出すのは、必ずしも「装備の優劣」だけではなく、「人」すなわち、優れた指揮官と徹底的に訓練された練度の高い部隊であるといえる。

また、ユーゴスラビア国民軍が、圧倒的劣勢に立たされていてもヒューミントによる情報収集や通信の傍受など情報活動に注力したことにより、F-117の待ち伏せ攻撃を可能にしたことは、戦いにおいて「情報の優越」がいかに重要かを示す好例であろう。

一方、NATOは、連日同じ飛行経路で航空攻撃を行い、通信に秘匿をかけず、F-117に支援機を随伴させないなど多くの過失を犯していたことが明らかになっているが、これらは、質量とも圧倒的な兵力差から生じた油断が背景にあるのでないかと思われる。自らの力を過信して敵の力を見くびり、油断した時に隙が生まれ、敵から厳しい反撃を受けるという戦例は枚挙にいとまがない。

そして、ダニ中佐が射撃管制レーダーの照射を命じた瞬間に、ダルコ大尉が爆撃のためF-117の爆弾倉を開いたという「運」によって、「ステルス機の撃墜」という世界で唯一の戦例が生まれたのである。

真偽は定かではないが、撃墜されたF-117の残骸がロシアや中国の駐在武官等に持ち去られて、ステルス機の開発に利用されたとする複数の記事がある。鹵獲された兵器は、分解され徹底的に研究されるのが常であり、ロシアと中国が既にステルス機を開発して配備している現実を見ると、軍事的合理性のある話であると思う。また、ベオグラードの中国大使館が誤爆されたことについて、NATOは、「古い地図」を使用したことにより攻撃目標を誤ったと説明したが、中国大使館の地下に保管されていたF-117の残骸を破壊するための意図的な攻撃であり、爆弾は地下で爆発せず残骸もそれ以上破壊されなかったとの真偽不明の記事もあった。

不思議なのは、撃墜されたパイロットが救出されていることから、撃墜地点は判明していたはずであるにもかかわらず、F-117の撃墜直後になぜNATOが機密性の高いF-117の残骸を破壊しなかったのかということである。

戦いにおいては、装備を戦場に遺棄せざるを得ない状況になることも予想されるため、敵に渡したくない機密の部分については、誰がどのような手段で破壊するか、日ごろから訓練しておく必要があるとともに、指揮官は、破壊にどれくらいの時間がかかるのか時間的な尺度を把握しておく必要があろう。

現在では、ステルス機のステルス性能も向上し、防空部隊を見つけるための情報収集手段の多様化や、センサーの性能の向上などにより、ダニ中佐のステルス機対策及び敵防空網制圧(SEAD)対策をそのまま使用することはできないであろう。

装備には必ず弱点があるものであるが、我々は他国の装備の弱点をどこまで解明できているであろうか、ウクライナ戦争やガザ紛争などから、将来の戦場で行われる戦い方をどこまで予測できているであろうか、敵の装備の弱点や将来戦における敵の戦い方に対して、我の編成・装備で勝てる戦い方を創造できているであろうか、戦い方を交戦規定(SOP)化し、それを隊員に納得させ、かつ徹底できているであろうか、敵の情報収集手段について理解し、敵の情報活動から我の位置を秘匿・欺へんするための方策を確立し、訓練を行っているであろうか。

部隊の基本的行動及び隊員の基礎動作の訓練だけやっていては「真に戦いに勝てる部隊」を創造することはできないのであり、敵の装備や将来戦に基づく戦い方を確立して練度を積み上げ、隊員に徹底することが求められるのである。

Profile

  • 中村 宗一郎
  • 戦史研究センター戦史研究室主任研究官
  • 専門分野:
    東アジアの安全保障、バルカン半島の安全保障、陸上自衛隊史