NIDSコメンタリー 第307号 2024年4月10日 「独立」と「同盟」のはざまで —— 日米安保体制形成期における模索

戦史研究センター 戦史研究室長
中島 信吾

はじめに

今年、2024年は鳩山内閣が発足して70年になる。無論、ここでいう鳩山内閣は2009年に発足したそれではなく、1954年に発足した鳩山一郎内閣のことである。

1950年代前半は、占領から講和独立という日本が初めて経験する激動の時代であり、安全保障政策上も、警察予備隊(1950年)~自衛隊(1954年)の創設に至るわが国防衛力の再建と、日米安保条約の締結(1951年)という、今日に続く日本の安全保障政策の大枠が形成された重要な時期である。

この旧安保条約の内容は日本にとっては不平等なものであり、当初から日本国内では評判が悪かった。同条約の締結に、外務省の条約局長という立場から関与した西村熊雄が、安保条約下における日米関係を「物と人との協力」と称したことはよく知られている。すなわち、日本は「物」=在日米軍基地を提供し、その代わりにアメリカは日本を守る(=「人」)のであって一方的な関係ではない、相互性は確保されているというのが西村の説明である1。とはいうものの、日本側からすれば、この非対称な相互性が保障されていたわけではなかった。

日米安保条約が公表された当初、日本国内では米軍が日本防衛を目的に駐留することは容認するという反応が大勢だった。だが、サンフランシスコ講和会議から1ヶ月あまり後、国会審議の場では安保条約への不満が渦巻いた。日本は基地提供の義務を負うにもかかわらず、米国が日本を防衛する義務が明記されていないことへの驚きと失望が噴出したのである。加えて、内乱条項や条約の期限に定めがないことへの反発も大きかった2

さらに条約の内容それ自体に加えて、条約に基づいて出現した日米安全保障関係の実態的側面に対しても、日本国内には不満が存在した。それは主として、講和後も継続的に駐留した米軍に対してであった。つまり、占領が終わって再び独立国家になったはずなのに、多数の外国の軍隊が存在しつづけている状況についての不満であった。外国の軍隊が常時日本国内に存在していることは、今日よりも違和感を持って受け止められたのである3

1950年代前半、政治の舵取りを担っていたのが戦前期に外交官だった吉田茂であり、5度にわたって内閣を組閣した。しかし1954年、与党自由党内における反吉田勢力と「第2保守党」と呼ばれた改進党が中心となって日本民主党(以下、民主党)が結党され、同年12月、鳩山を首班とする内閣が発足した。

民主党が結党に際して発表した政策大綱では、抽象的な表現ではあるものの、「国力に応じ均整を得た少数精鋭の自衛軍を整備」、「逐次駐留軍の撤退を可能ならしめることを目途とし」、「之に応じて、現行の日米安全保障条約を双務的条約に改訂する」とした4。つまり、日本自身の防衛力を徐々に整備し、それに伴って在日米軍の撤退を促す。そして安保条約を改定する、というのがその骨子である。

安保条約の締結から3年、日本は初めての政権交代を経験し、安保改定を訴える政党が与党となる政権が誕生したのである。そして外務大臣として安保改定問題の正面に立つことになったのが、吉田と同様戦前期に外交官だった重光葵であった。彼らはいかなる日米関係の将来像を描いたのか。本稿は彼の主導の下で作成された安保改定構想を中心に取り上げ、「戦後」になって比較的日が浅かった当時の日本における、日米安全保障関係の現状への認識と追求しようとした将来像の一つの側面について検討する。

1 重光葵の戦前と戦後

重光葵は昭和戦前期の代表的外交官の一人であったが、東京裁判でA級戦犯として禁固7年の実刑判決を受けた。その後1952年6月、追放解除早々、当時結党したばかりの改進党の総裁に迎えられ、政界に復帰した。民主党内閣では、重光は副総裁・外務大臣としてこれを支えることになった 。民主党が結党に際して安保改定を政策大綱に盛り込んでいたことは先述したが、重光は改進党時代から、戦後の日本外交における日米関係の重要性については強く認識しており、それ故に吉田内閣を批判することもあった 。そして彼は外相就任後、こじれきった防衛分担金削減問題をめぐる日米交渉に直面したが、それへの対応に関する鳩山内閣の政治姿勢に対しても、「日米関係を危殆ならしむ」ものとして批判した。「妥結に導かざれば内閣も日米関係も破綻すべし」という悲壮な決意で日米交渉に臨んだのであった7

重光は、日米関係の重要性については認識した上で、米国に対して安保改定を求めていった。換言すると、安定的、あるいは良好な日米関係の構築と安保改定は必ずしも矛盾するものではないと捉えていたのである。それでは、鳩山内閣の外務大臣として、彼がどのように安保改定に取り組んだのか見てみよう。

2 欧米局案

鳩山内閣が発足してから半年あまり経った1955年6月23日、外交史料館が公開している史料では、夏に計画された日米外相会談に備え、外務省欧米局第2課が安保改定のための要綱案を作成したことが確認できる。この案のタイトルは「日米安全保障条約並に行政協定改訂要綱試案」であり、条約案そのものではなくその骨子ともいえるものである。この案によれば、旧安保条約は「形式的には独立国としての日本が対等な立場において米国との間に締結した条約とは言い難い」ものであり、当時と今とでは状況が変化している。さらに、国内のナショナリズムについても指摘し、日本の独立後も「実体的には大規模な占領軍の継続的な駐留」という現実が、国民の中にある「占領の継続と云う潜在意識を払拭」できず、不必要な日米間の摩擦の原因となっていると述べる8

改定の時期については、日本の防衛力増強に呼応して在日米軍の撤退が進み、「米軍陸上部隊が全面的に撤退可能となる時期」としているが、具体的に明示されているわけではない。また在日米軍との関係についてさらに述べると、新条約下においては米地上軍の撤退は前提として考えられている一方で、「一定程度の海空部隊は」引き続き駐留を継続するものとされている。新条約と憲法の関係、そしてそれとも深く関係する条約区域の問題については、憲法については改正を前提としないこととし、「従って新条約により日本の負うべき義務には海外出兵を含まない」ものとする、とある9

欧米局がこの要綱を作成した翌日、安保改定をめぐって同局と条約局の間で会議が開かれているが、そこでは在日米軍の地位については地上軍を全面撤退させるか否かという点が論点となった一方で、海空軍の安保改定後の駐留は前提とされており10、この時点では、後述するような在日米軍の全面撤退は議論の対象とはなっていなかった。

3 「相互防衛条約案」の作成―条約局案

この、6月24日に行われた条約局と欧米局の協議を受けて、以後は条約局長の下田武三(後に次官、駐米大使を歴任)を中心に作業が行われ11、約三週間後に案が作成された。そしてこの案には、これまで見てきた欧米局案とは大きく異なる点が含まれていたのである。そもそもタイトルが、それまでの「日米安全保障条約」ではなく「日本国とアメリカ合衆国との間の相互防衛条約(試案)」(以下、「相互防衛条約案」と略記)となっていた12。そして下田は同日、日米相互防衛に関するメモを作成しているが、これは改定案の背景、日米の現状と日本が望む将来、そして改定案の内容を解説するもので、主語は重光個人、すなわち「本大臣」となっている13。下田によれば、この案は渡米のタイミングに合わせて検討を命じられたのではなく、それよりも早い時期に研究を命ぜられていたという14

旧安保条約は自国を防衛するための手段を十分に持たない時期に結んだもので、日本政府はこの条約が果たしてきた役割を高く評価しているものの、日本国民に対して、自国の安全を自己の問題として把握することを忘れさせ、さらには条約に基づく米軍の駐留が「あたかも占領の継続」のように感じさせている、と指摘する。そこで「本大臣は、日本内外の情勢に照らし、日米安保条約は発展的解消を遂ぐべき時期が近づきつつあると認めるものである」と述べる15

その上で「相互防衛条約案」第4条では、以下のように「相互防衛の発動条項」を規定している。

「各締約国は、西太平洋区域においていずれか一方の締約国の領域又はその施政権下にある地域に対して行われる武力攻撃が自国の平和及び安全を危うくするものと認め、かつ、自国の憲法上の手続きに従って共通の危険に対処するために行動することを宣言する」。

この部分は、「米華五条、米韓三条、米比四条、アンザス四条、シアト四条と同工異曲、ただしいずれか一方の締約国の『施政権下にある地域』を加えたのは、沖縄、小笠原を包含せしめるため」であった16

つまり条約局は、条約区域を検討するに際し、NATOやANZUSといった多国間防衛条約、米華、米韓、米比といった二国間の相互防衛条約の条文を参考にして、西太平洋区域と地域を限定しつつも、日本も海外派兵を行うことを前提とした条約案を作成したのである。この時点で、自衛隊発足に先立ち、参議院では「自衛隊の海外出動を為さざることに関する決議」がなされていたことはいうまでもない。また憲法との整合性についても問題になることが予期されるわけだが、この点、この年の8月に実施される重光・ダレス(John F. Dulles)会談の直前、外務省は想定問答を作成している。

それによれば、日本の憲法解釈は安保条約締結の1951年とは異なり、鳩山内閣では憲法第九条の下でも自衛軍を持つことは可能との解釈をとっている。「相互防衛についても、それが自衛行動の範囲内のことを規定するものであるなら、もちろん現行憲法の下において可能である」とする。さらに、相互防衛のカバーする地理的な範囲については、「日本の国内情勢及び自衛力の規模からして、一足飛びに広範囲の相互防衛を約することは困難であると思う。したがって朝鮮や台湾は、現在米軍がいるけれどもこれを除外し、西太平洋における日米両国の領土又はその施政権下にある地域に限りたいと思っている」としている。つまり条約局案では、旧条約とは(あるいは1960年に改定された新安保条約とも)大きく異なる条約区域と憲法解釈を採用したのであった17

条約区域について規定した第4条に続き、第5条では在日米軍の全面撤退について規定されている。この点は他の条約を参考にせずに作成した条項である。

「アメリカ合衆国の陸軍及び海軍の一切の地上部隊は、日本国の防衛六箇年計画の完遂年度の終了後おそくも九十日以内に、日本国よりの撤退を完了するものとする。

アメリカ合衆国の空軍部隊及び海軍の海上部隊の日本よりの撤退期限は、両締約国政府間に追って協議決定するものとする。(ただし右の期限は、いかなる場合にも、前項による地上部隊の撤退完了後六年以内でなければならない。)」18

冒頭にある防衛六カ年計画とは、鳩山内閣が策定しようとした中期防衛力整備計画のことである。1956年から計画が始まり、1961年に終了するものとされていた19。つまりこの第5条に基づけば、1961年に在日米軍の地上部隊は日本からの撤退を完了し、加えて、在日米海空軍についても、遅くともそれから6年以内、1967年までには撤退を完了し、日本に常駐する在日米軍はすべて撤退するということになる20

重光率いる外務省が作成した「相互防衛条約案」は、地域を限定しながらも、「物と人との協力」を「人と人との協力」に切り換え、かつ「物=基地」を常時米国に提供することも将来的にやめるという、それまでの日米安全保障関係の根本的な部分に変更をもたらす内容を含んでいたのである。ただ、こうした安保改定の構想は、政府全体で決定されたもので無いことはもちろん、鳩山もあずかり知らないものだった。「他の閣僚に協議したこともない本大臣限りの全くの私案にすぎない」ものだったことを付言しておこう21

ではもう少し重光の考えを掘り下げてみよう。重光は外相会談のために事務方が用意した物とは別に口上書を準備しており、そこに彼の考え方が良く出ている。重光はじめ「反共勢力は日本再建のためには・・・米国と緊密なる協力の下に進む以外に途のないことを了解」しており、日本政府は外交の基調を米国との協調に置いている。ただ左翼勢力は「日本は米国の隷属国であって完全なる独立国ではない、日本は米国の対ソ戦争の軍事基地となっておって、日本人は米国の傭兵として使役されている」と宣伝している。そして日米安保条約は「日本が防衛力(軍隊)を有ち得ないという独立否認の誤った憲法解釈に立って造られたために、まったく不平等の関係に出来て」おり、そうした不平等性が「左翼勢力の反米思想鼓吹の根源」となっている。

したがって、安保条約のような不平等な取り決めは「双方対等同盟の関係に立つ双務防衛の観念に立つ協定に置き換えられなければならぬ。・・・斯様にして始めて日本の地位は防衛に関する限り対等なる独立国として完全なものとなり、国民の納得を得て、左翼関係を封ずることが出来るのである」と述べる。そして最後に「私の使命」として、「日本は今日国家として重大なる局面に遭遇して」おり、「特に国内において共産反共産左右勢力の対決の時期に入っている」としたうえで、われわれとしては「飽くまで米国との協力関係を緊密ならしめて」、それを「国策遂行の基調となすべきことを認識」していると述べた22

4 「相互防衛条約案」をめぐる反応

重光がアリソン米国駐日大使(John M. Allison)との間で第1回の渡米予備会談を持ったのが7月13日のことである。このときに重光は旧条約改定の必要性を述べた上で、「根本的にはCommon Security の考え方よりequal footing によるalliance でなければならぬと思う」とアリソンに伝えた。それに対してアリソンは、自分としては、安保条約を改定するとなったら「mutual defense の考え方に立たねばならぬと考えており、これは貴大臣のequal footing の考え方と同様の考え方で、本国政府にもいってやっている」として、重光の主張に理解を示した23

そして一週間後に行われた重光・アリソン会談で、「私の単なる個人的一案」と断った上で、重光は「相互防衛条約案」をアリソンに手渡した。アリソンの反応は好意的なもので、「非常に有益である。元来アメリカの案はこうであった。・・・自分の考えもこれに共鳴するところが多い。ワシントンにも伝えることとしたい」と述べた24

だが、こうした好意的な受け止めばかりというわけではなかった。パーソンズ(J. Graham Parsons) 駐日公使は下田に対し、「相互防衛条約案」にある、相互防衛関係の樹立(第4条)と米軍撤退(第5条)が矛盾していると指摘し、「一方は日米提携関係を強化しようとするものであり、他方は米軍はいてもらっては困るから帰ってくれということではないか」と述べた。それに対して下田は、一見そのように見えるかもしれないが、両者は同一の事がらの表裏をなしているとして次のように述べた。

「日本が真に独立国家たるの実を挙げるという根本命題の二つの面を現しているのである。外国軍にいてもらって自国を防衛するということでは、真の独立国ではない。だから自国軍を増強して、外国軍に帰ってもらうとともに、外国とイクォール・フッティングの相互防衛関係に入ろう、ということである」25

この段階では、「相互防衛条約案」の第4条と第5条のうちで米側の関心事項は、在日米軍の撤退問題に集中していた一方で、「西太平洋」とした条約区域について記した第4条と現行憲法を踏まえたこの案の現実性については特に問題とはならなかったが、この点は外相会談においてダレスから指摘を受けることになった。

「相互防衛条約案」に対する反対は身内からもあった。当初安保改定案の作成を担当した欧米局はその後この作業からは外れたが、重光が渡米した際には、米国を担当する欧米局第2課長だった安川壮(のちに次官)も随行していた。そこで安川は初めて重光に意見具申する機会があったという。

「課長の私は平素大臣に直接意見をいう機会は絶無であったので、この際とばかり無遠慮に発言した。(中略)日本が18万人を中心とする防衛力増強を完了した際、米軍は全面的に日本から撤退すべきであると書かれている部分について、私はこの点だけは削除すべきことを主張した。重光大臣の、米国側が受け入れるか否かは別として、この際日本側の言いたいことは遠慮なく主張しておくべきだとの言に対し、私は米軍全面撤退を主張することは、米国側に日本の外務大臣は非現実的な人間だという印象を与えかねないと反論した」26

欧米局は、安保改定案の作成作業から外れた後も、自身の視点からこの問題について方針を検討していた。それによれば、安保条約を改定して相互防衛条約を目指すにしても、条約局案のように在日米軍の全面撤退を目指すことは現実的では無く、特に海空軍の一部については、少なくとも引き続き駐留を継続させるか自由な使用を認めることが必要と考えていたのである27。このような考え方を開陳する場がなかったのであろうが、外相会談の直前になってその場を得たということであったろう。

5 重光・ダレス会談

8月4日、渡米に先立って重光は軽井沢の鳩山の別荘を訪問し、日米外相会談について協議した。その際重光は、日ソ国交回復問題、賠償問題、日本の国内治安の問題、そして在日米軍の撤退問題については話題に出し、渡米に際しての重光の立場を支持してほしい旨要請したものの、安保改定については触れなかった。つまり、安保条約を相互防衛条約に改定するという問題について申し入れようとしていることについて鳩山は知らぬままだった28。また、日米外相会談には与党民主党から幹事長の岸も同行していたが、岸も重光が安保改定問題を取り上げるとは知らされていなかった29

重光・ダレス会談そのものの内容については、既存の研究でも詳しく論じられているのでそちらを参照されたい30。外務省の「相互防衛条約案」自体が日本の正式案として重光・ダレス会談で提案されることはなかったが、安保改定の申し入れは重光からなされた。そしてこの案の中核的な要素、すなわち旧安保条約の相互防衛条約化という主張を重光は行ったのである。条約区域に日本域外を含める点についてアリソン大使からは好感を得ていたが、ダレスからはその実現可能性について疑義を呈された。重光のアメリカに対する安保改定の申し入れは、ダレスの「木で鼻をくくるような無愛想な態度」で一蹴されたのである31

おわりに

戦前期日本を代表する外交官の一人だった重光は、戦後になって活動の場を政界に移した。その点、吉田茂と共通するものがある。他にも強い反共思想など共通するところも多い。そして戦後日本外交において日米同盟関係を基軸として考えるという点も同様である。他方で、吉田内閣時代に形成された、旧日米安保条約とそれに基づいて出現した講和独立後の日米安全保障関係については、重光はその変更を求めた。彼は鳩山内閣の外相として、「物と人との協力」がその本質と言われる日米安保体制に変容を迫る相互防衛条約案の作成を主導したのである。重光たちが描いた将来像は、日米安保体制における「人」の要素を日本側が強めていったその先の「物」のありようについて、一つの歴史的な問いかけとなっているのかもしれない。

重光たちの試みは失敗した。一方、安保条約の相互防衛条約化、日米安全保障関係を「人と人との協力」を可能とする関係へと変容させることが望ましいという考え方そのものは、当時、重光に限られたものではなかったと思われる。たとえば、後に安保改定を実現する岸信介がそうだった。ただ岸と重光の違いは、重光が現行憲法のままで相互防衛条約への改定が可能と考えたのに対して、岸はそのためには憲法を改正する必要があると考えたことだった。そこで岸は安保改定の後に憲法を改正し、もう一度安保条約を改定する構想を持っていたのである32

そうした岸の試みも、安保改定の実現と引き換えに彼の内閣が退陣し、実現することはなかった。ただ岸にしても重光にしても戦前から国家の中枢で活動していた者からすると、戦後形成された日米関係のあり方には大きな違和感があったに相違ない。旧安保条約とそれに基づいて講和独立後も現前した日米安全保障関係、そして日本の安全保障のあり方、さらにいえば国のあり方そのものについて、外務省の要職を歴任し、外務大臣をも経験した「帝国日本の外交官」たる重光からすれば、「対等な日米関係」を実現し、そして「独立を完成」させるためには、安保条約を相互防衛条約として改定することが必要であると考えていたのである。そして、戦争が終わって10年ほど、まだ大日本帝国のありようが記憶に新しい1950年代中盤というのは、重光、そして彼の賛同者たちにそのような構想を抱かせる時代であったとも思われるのである。

Profile

  • 中島 信吾
  • 戦史研究センター戦史研究室 室長
  • 専門分野:
    日本政治外交史、日本の安全保障政策史