NIDSコメンタリー 第304号 2024年3月15日 インパール作戦から80周年、なぜ日本軍はビルマで戦うことになったのか —— 開戦初期におけるビルマ方面作戦の変転を中心に

戦史研究センター国際紛争史研究室
新福 祐一

はじめに

今年は、日本陸軍のインパール作戦から80年目にあたる。インパール作戦については、第十五軍司令官の牟田口廉也が強行した、無謀な作戦の代名詞とされており、現在も批判の対象となっている。牟田口がインパール作戦を発意した動機については、戦争終結に対する本人の異常な使命感(野心)とともに、昭和17年8月に大本営陸軍部から準備が指示された二十一号作戦に対して、消極的意見を述べたことによる反省が取り上げられている。

この二十一号作戦は、ビルマ(現ミャンマー)からインド東北部へ防衛線を拡張する企図で南方軍が具申したものである。そして、牟田口はこの二十一号作戦を下敷きに、インパール作戦を発展させていった。インパール作戦間、ビルマ方面軍の作戦参謀であった不破博は戦後に、二十一号作戦について「ビルマ作戦開始の当初から、それに必要な兵力を投入すべき」であったと大本営陸軍部の先見性のなさを批判している1。このように、二十一号作戦はインパール作戦を分析する上で重要と言えるが、管見の限り、二十一号作戦はインパール作戦の前座的な形で紹介はされていても、立案された経緯、それまでのビルマ攻略目的との関連、南方作戦におけるビルマの位置づけおよび戦争指導との関連について、分析されたものは見当たらない。

日本陸軍、すなわち大本営陸軍部は、開戦当初からビルマについてどのような戦略をもっていたのか。本稿では、日本陸軍の開戦初期における戦争指導方針と、ビルマ方面の作戦の推移から二十一号作戦に至る経緯を明らかにし、大本営陸軍部の作戦指導におけるビルマの位置づけの変転について、その原因を考察してみたい。

イギリス屈服促進としてのビルマ攻略

まず、開戦時において、ビルマおよびインド方面に日本はどのようなことを期待していたのか。また、それに基づいて陸海軍はどのように協同を図ろうとしていたのであろうか。日中戦争に続いて、米英蘭との開戦決定を行う際、戦争終結のための構想として準拠になったものは「対英米蘭蒋戦争終結促進に関する腹案」(以下、「腹案」)である。「腹案」において、戦争終結のための決め手となるのは、アメリカよりもイギリスまたは中華民国(以下、中国)の屈服にあった2。しかし、中国の屈服ができないために南方に進出し、結果的に他の3カ国とも開戦することに帰結したことを踏まえると、実際に期待できたのはイギリスの屈服であった。

このイギリスの屈服について、一般的に言われているのはドイツの欧州正面、特にイギリス本土上陸により「対英屈服に期待したもので、いわゆる他人の褌で相撲を取る策」である3。しかし、日本陸軍はこれとは別に、日独が中東からインドで手を結ぶことにより、インドの占領をはかり、これによりイギリスの戦争継続を困難にして屈服を図ることを考えていた。この構想を抱いていたのは、大本営陸軍部作戦部長の田中新一であった。

それまでビルマ攻略は、南方作戦におけるタイおよび仏印の安全確保にとどまっていた。だが田中は、開戦直後の1941年12月10日にはビルマ作戦の促進の件について取り上げ、1月上旬に「55〔師団〕の三大、33〔師団〕の1/2」にてビルマ占領を企図するとともに「戦争終末促進の具体策」として「印度西亜の打通作戦」を取り上げていた4。そして以後の戦争指導の第二期「西亜、「ソ」連を中心とする陸戦及び印度洋戦」では、ソ連および中国の対日戦対処とともに「印度攻略戦」「印度洋攻略戦」を、ドイツは独ソ戦の次に「独の西南「アジア」戦」を列挙している5。これはあくまで田中個人の意見であり、大本営陸軍部の総意ではないものの、陸軍部の作戦部長が、この時期から中東から西アジア(以下、西亜)を打通してドイツと連携しようとしていたことは、注目すべきである。田中はこれをI・M戦略(インド洋、ビルマ、インド、中東方面戦略の略)と称し「此等を実現するための政戦略基地としてビルマが存在した」と戦後述べている6

これに基づき、12月21日大本営陸軍部作戦課長の服部卓四郎が南方軍に連絡に赴き、「援蔣路を遮断するとともに「ビルマ」に於ける英国勢力を一掃」してラングーン、マンダレー、そしてアキャブの「要域を占領確保」する案を提示、南方軍はそれに基づき第十五軍(司令官:飯田祥二朗)に命令を下した7。この結果、ビルマは、ラングーンから雲南に向かう援蔣陸路の遮断のほかに、インド方面へ進撃する際の足掛かりとして、位置づけられた。さらに1942年1月14日、田中は「戦争終末促進のため先づ(ママ)イギリス屈服に主力を注ぐ」ことを強調し、「濠州、印度の対英遮断、離反を図る」ためにビルマ独立に続いて「印度洋制覇を企図し、独伊の中近東攻勢作戦を誘致」するとともに、「戦争終末促進のための作戦(印度・西亜打通作戦を日独策応の下に強行)」を挙げている8。このために田中は、インド洋の制圧または通商破壊による英印遮断、および要所となるセイロン島の攻略に注目した。インド洋の通商破壊については海軍が主体となるものであったが、セイロン島攻略は陸軍も参加する計画で、その規模は当初1個師団と見積もられていた9

田中がこのように考えた理由は2つある。一つは、独ソ戦の先行き不透明化である。12月10日ドイツがモスクワ攻略を一時中止すると表明したことを受け、コーカサスや北アフリカなどから中近東への進出に期待を寄せた10。もう一つは、「腹案」との一貫性である。田中はアメリカの屈服はできないため、海軍により太平洋方面の安全を確保して持久している間に、イギリスまたは中国の屈服促進を図るべきと考えていた。大本営陸軍部作戦課にも、この考え方に基づいて戦争指導および作戦指導について起案するよう指示している11。また参謀総長の杉山元もドイツ側に対して最も要望したい事項は「近中東方面に進出してインドを脅威し英本国との連絡を遮断し……同方面に於て帝国と作戦的に連絡提携」することであると上奏している12。そして、1月14日にはインドと国境を接するビルマ作戦の目的は「緬甸に於ける英国軍を撃破して緬甸の要域を占領確保」して「対支封鎖を強化」と上奏しており、イギリス屈服に貢献させることを企図していた13

中国の屈服促進のためのビルマ攻略への転換

しかしながら田中は、3日後の1月17日の日誌には「ビルマに蒋軍を誘致しこれを一挙殲滅」し「支那事変解決の一大転機」にすることを明言している14。1月23日杉山もビルマ攻略の命令允裁時に「一挙に支那軍を撃滅する如く計画して居ります」と天皇に説明している。確かに、大本営陸軍部のビルマ攻略構想案では、ビルマの援蔣陸路の遮断や対中国封鎖の強化について言及されているが、あくまで攻撃対象として言及されているのはイギリス軍(英印軍)であり、中国軍を主体としたものではなかった。このように急変した理由はなぜであろうか。

まず、ドイツ側の思惑との相違である。ドイツ海軍は地中海方面の戦況好転のため、日本海軍にインド洋の通商破壊作戦を期待したが、ドイツ国防軍司令部(OKW)のアルフレート・ヨードル大将(Alfred Josef Ferdinand Jodl)は、ドイツとしては中近東よりもソ連との戦いに重点を置いており、日本には対ソ攻撃を求めていた。このため、西亜打通による日独提携についてはすぐに期待し得ない状況であった15。実際、ドイツ、イタリア、日本の三国軍事協定締結の際、イギリス屈服を目的に入れ込もうとする日本側の要望は入れられず、作戦地境の明記と相互協力程度にとどまった。田中はこの結果に「英国屈服の前途暗し」「印度洋、西亜打通当分見込少し」と述べている16。このように、ドイツ側との連携の可能性が低いと見るや、田中は英国屈服に見切りをつけたようにみえる。だが、ここで「当分」という保留をつけているのは注意を要する。

もう一つは、援蔣ルート遮断により戦争継続ができなくなることを恐れた、蒋介石の対応である。蒋は雲南の防衛を強化していく過程で、12月にはビルマにおいて日本と決戦することに積極的になり、雲南軍をビルマに派兵している17。その兆候を、いつごろ大本営陸軍部が察知したかは明確ではないが、1942年1月14日杉山が「支那軍は目下約十ケ師内外緬甸、支那国境付近に配置」されており、一部がビルマに入っていると天皇に上奏していることから、前年12月末には把握していたものと推測される18

南方軍も、中国軍のビルマ侵入を予期し、第十五軍より数的に勝る中国軍と戦闘になって戦線が膠着しないよう、あらかじめ殲滅できるよう作戦計画を考察していた。作戦主任であった荒尾興功は、服部から第十五軍の作戦をビルマ全土の占領に変更するよう打診を受けたとき、「マンダレー付近以北に於ける支那軍との戦線構成面白からず」と考え、1月25日には「英支連合軍を殲滅するを目途」とし、中国軍および英印軍の退路を両翼から遮断する作戦構想を作成している19。この結果、南方軍はセイロン作戦用として控置していた第十八師団も転用し、第十五軍を4個師団態勢で攻撃させるよう計画した。田中も南方軍司令部に出張した際に「『ビルマ』作戦は支那事変処理に利用致度く徹底撃滅を希望す」と述べている20

西亜打通の保留

このようにビルマ方面の作戦目的は「それまで中国大陸で繰り返し追求してきた、中国軍主力の殲滅」に転換したようにみえる21。しかし、西亜打通について、田中は断念したわけではなかった。3月7日大本営政府連絡会議で決定された「今後とるべき戦争指導の大綱」で、陸海軍の侵攻方向が分裂した際に、田中は「〔海軍の〕太平洋の積極作戦は国力促成の根幹を揺るがす」ことを恐れるとともに戦争終結のために「印度-西亜打通の重視」を挙げている。

その一方で、海軍が4月6日にセイロン島含むインド洋の英国艦隊への攻撃を行った際に、陸軍はこれに呼応する姿勢を見せていない。この時期、ビルマ方面はマンダレーを目標とした英印軍および中国軍の包囲殲滅作戦の途上であったこともあるが、田中は3月16日の段階で、独伊の呼応がみられないため情勢がまだ熟していないと見ていた。そして西亜打通の実現は、独伊の進出とともにビルマ作戦の効果と相まって「昭和十八年度中に……印度の経(ママ)略を概成」しようと考えていた22。戦後、田中は戦争終末促進の決め手として海軍が太平洋の制海権を確保している2ケ年の間に「独伊と策応する印度-西亜打通」と「重慶政権の屈服」が必要であったと回想している23。西亜打通は「当面」という保留のもと、田中の中で生きていたままであった。

一方ビルマ方面における戦況は、予期の通りにはいかなかった。ビルマにおける中国軍の殲滅を企図した第十五軍の作戦は、中国軍の早期撤退もあいまって包囲殲滅に至らなかった。ビルマ全土の掌握は5月中旬に成し遂げたものの、懸案となるものが出てきた。それはビルマを前線とした航空消耗戦の可能性、およびインド-中国の航空輸送による援蔣ルート(援蔣空路)の出現である。

インドはカルカッタ(現在のコルカタ)を拠点として多くの航空基地を保有しており、これにアメリカの支援も加わり、連合軍の航空優勢を保っていた。ビルマが日本に占領されて以降は、陸路のほかミートキーナの航空基地を使用した中国支援はできなくなったものの、インド東北部のチンスキアおよびチッタゴン周辺の航空基地からの航空攻撃とともに、細々ではあったもののヒマラヤ越えの航空路による中国支援及び航空攻撃が続いていた。6月29日に南方軍の以後の態勢について、最も注意を要するのは「緬甸に於いて航空消耗戦を惹起すること」であり、その対策として陸軍は航空部隊で「主として西南支那及東北印度に於ける敵航空勢力其の他要点の破砕」を行うよう指示していることや、南方軍総参謀長の塚田攻が「カルカッタに対する航空攻撃を準備中」と説明していることから、インド方面の航空基地が脅威として認識されていたのは明らかである24

ちょうどこのころ、支那派遣軍より西安および重慶作戦が提案されているところでもあり、田中にとってビルマは、中国の屈服との影響が主要な関心事になっていた。ビルマ占領のめどがついた5月10日に「印度が米英の兵器廠となる兆候」から援蔣は継続され、ビルマを占領しても「重慶は依然として抗戦に帰結」すると予想していた。6月4日には、援蔣空路の輸送状況は細々としたものであるが、「空輸援蔣がますます急速に供せられることは疑いなし」と判断し、中国屈服には直接重慶攻略か「援蔣基地印度を屈服させるのほかなき」と考えていた。さらに重慶攻略とあわせて「印支空輸の遮断に関する一研究」を行い、「差当たりチンスキア航空基地の処理を要す」こと、さらに援蔣空路の完封ができなければ「重慶攻略と印度進攻(航空基地の奪取を最小限とする)」の二つを考えざるを得ないとみていた25。このように、田中は中国屈服の決め手としてビルマでの殲滅を逃した結果、直接重慶攻略だけでなく継戦能力の遮断のため、インドの一部に進出することが必要と考えていた。

西亜打通の再浮上と頓挫

しかし西亜打通はまた息を吹き返した。この契機は、ドイツの北アフリカ戦線における進撃である。6月1日からはじまったエルウィン・ロンメル(Erwin Johannes Eugen Rommel)のトブルク攻撃は成功し、英軍は退却。22日にはエジプトに侵攻し、スエズ運河の危機も予期された。田中がこの戦況について把握したのは6月20日であり、6月26日には東条英機首相兼陸軍大臣に、まだ実施は確定でないものの「北阿の独伊作戦が進捗し、トブルクの陥落があり、またインド内部の反英反乱の情勢にもかんがみ、今秋までにはセイロン作戦実行の機会が来るものと期待」していると連絡している26。あわせて、ドイツによる「青作戦」によりコーカサス方面での戦況進展も期待されていた。北アフリカでのドイツ進撃とコーカサス方面への侵攻について、田中は、中東が「北方〔コーカサス〕よりする独乙軍と西方〔エジプト〕よりする独伊ロメル(ママ)軍により」脅威におかれ、「さらに進んでドイツ軍と日本軍が印度で握手することは夢物語ではなくなる」と感じたと戦後回想している27

これに加え、連合艦隊がミッドウェイで敗北したこと、およびドイツ海軍とイタリアが、インド洋~東アフリカ沿岸における日本の作戦協力を求めたことから、大本営海軍部がインド洋方面における作戦に関心を持ち始めた。田中は6月10日に、ミッドウェイでの敗北を踏まえ「対英戦争指導要綱」について考察しており、そこに「西亜に関する件」および「印度に関する件」について検討する必要があると考えていた28。すなわちセイロン作戦の具現化である。以上を踏まえると、インドへの攻撃は援蔣の航空基地奪取による中国屈服への寄与と、西亜打通によるイギリス屈服への寄与という一石二鳥を考えていたものと思われる。

セイロン作戦はすでに南方軍にも事前に予告していたこともあり、速やかに具体化された。大本営から南方軍に対する今後の態勢についての命令には「南方要域の安定確保に任ずると共に外郭要地に対する作戦を準備」することが明記され、同指示の別冊には「外郭要地に対する作戦準備要綱」として、セイロン作戦(第十一号作戦)が示された。規模は2個師団で、作戦時期は「独逸の西亜作戦進捗に依り印度方面の敵が西方に牽制せられたる時等」とされ、北アフリカ戦線とともに、日本軍の印度謀略工作の進捗も含め、時期を見計らうものとなっていた29

しかし、田中の思惑はまたも頓挫する。ひとつはドイツの戦況不振である。7月上旬、エル・アラメインにおいてロンメルの部隊は英軍と会戦、進撃はストップした。そもそも、ドイツは北アフリカではなくコーカサス方面に主力を向けている関係上、増援する可能性は少なく、戦況好転は望めなかった。

もう一つは、海軍の要望である。7月18日陸海軍部作戦部員会合で、海軍側よりセイロン島への「跳びつき」作戦は不可能であり、攻略の際はカルカッタなどインド東部から陸軍が作戦に協力することを要望した。海軍の真意は、陸軍が重慶作戦など大陸方面に指向するのをけん制する目的があったものと思われる。

田中はこれに対し、セイロン島攻略はまだ可能性があるにしても「カルカッタ作戦は、ビルマ作戦の二倍の兵力を要し、重慶作戦よりも消耗が大き」いことから、セイロン作戦を含む西亜打通よりも「確実なものは重慶作戦ではないか」と戦争指導課員に指示している30。7月20日、田中は「諸般の事情より察するに、印度・西亜打通作戦も至難なるを免れず」、現段階では水ものであり9月ごろに作戦を再検討することで落ち着いた31。そして7月23日、陸海軍局部長級の懇談会で、カルカッタ作戦の困難性について認識統一された結果、セイロン島作戦は宙ぶらりんの状態になり、実現の可能性は遠のいた32

インドの反攻基地化と中国支援の懸念

このような状況で、唯一変わっていなかったのは、今後インドを拠点とした米英の反攻が予期されること、そして中国に対する支援も継続するということである。特にアメリカの支援による航空優勢のもと、ビルマに対する爆撃だけでなく、援蔣空路を通じた中国に対する支援対策が重要となった。参謀総長の杉山は7月20日、航空消耗戦と援蔣空路遮断のため、航空作戦を研究するよう、南方軍に指示した。田中は8月3日の記録で地上兵力を用いて「印支遮断を完遂する必要あるべく、やむを得ずとするも少くもチタゴンの航空基地奪取」が必要だと認識していた。南方軍の第三航空軍は、航空撃滅戦(特に基地攻撃)を行うものの、成果がはかばかしくなかったことを踏まえてのことである33

そしてちょうどこのころ、南方軍では作戦参謀の林璋(あきら)起案による「印度東北部に対する防衛地域拡張に関する意見」が大本営陸軍部に提出される。のちに二十一号作戦の底本となったものである。田中はソロモンにおける対応と北アフリカ戦線の戦況進捗の不振を懸念しつつも「将来の航空消耗戦に対応するため、チタゴンおよびチンスキヤ(ママ)地区の敵航空基地を奪取する」必要性と「印緬国境方面の敵の防備が全然がら空き」という好機に飛びつく。そして「印支連絡・援蔣航空基地の限定目標」で「実行を別命」する形で認可した34

田中がインド侵攻に期待をかけている理由は、今のうちに政戦略をインド方面に集中しないと、インドが豪州のように英米の「恐るべき反攻の基地」となることを懸念しているためである35。すなわち、インドの防衛空白の好機に乗じて最大限インドの全土、最小限援蔣航空基地の奪取を企図していたことがわかる。しかし、1942年8月から11月の間にインドに英印軍および米式中国軍が増強されることにより、インド侵攻の可能性は「時日の経過に従って」悪化した。ソロモンやドイツの戦況不振もあいまって「英屈服、戦争終末の構想は既に過去の夢となった」ことを田中は悔いている36

田中に見られる大本営陸軍部作戦部の問題点

最後に、田中の揺らぎがなぜ起きたのか、その原因を考察したい。田中の指針は、一見するとイギリスや中国の屈服という「腹案」に合致したものであり、情勢に基づいた現実的な対応のように見える。戦史叢書でも、田中が1月中旬の段階で西亜打通から支那事変解決にシフトした理由として、西亜打通の見込みが少ないことよりも、中国軍のビルマ進入の情報と以前から大本営陸軍部にあった蒋政権屈服の願望によるためであるとしている37。また、田中は戦後に大本営陸軍部の本音はビルマの占領ではなく「援蔣ルートを掃蕩」し「重慶政権屈服の機会を促進」することを期待していたと回想している38。そのように考えると、田中の本心は常にイギリスよりも中国の屈服にあり、太平洋方面に関心を持つ海軍を軌道修正させるため、西亜打通を持ち出したという説明もできる。

しかし、6月から7月にかけて再浮上して消沈したセイロン作戦における田中の対応の変化を見ると、和田朋幸氏が指摘するように「その時々の情勢を機会主義的に利用」しようとしており、中国屈服で一貫したものとは言いがたい39。では、田中の思考にはどのような特徴が見られるのか。田中自身の強気かつ本音を言わないという個人的な性格の影響は否定できない。しかし、特に田中に顕著なのは、戦術偏重の思考である。この戦術偏重は戦機の重視と単純化につながる。

まず戦機の重視についてである。昭和期の日本陸軍の戦術教範であった「戦闘綱要」(のちに「作戦要務令」)では「戦闘一般の目的は敵を圧倒殲滅」して戦勝を獲得するとあり、また「統帥綱領」にも「作戦指導の本旨は、攻勢を以て速かに敵軍の戦力を撃滅」とある40。物的戦闘力の不足から無形戦闘力の発揮を重視した日本陸軍が、敵を撃滅して戦勝を獲得するために必要としたものは、主動の地位に立つことであり、それを達成するために、敵の意表に出ることで「機を制し勝を得る」とされた41。「戦闘綱要」や「統帥綱領」には、このほかにも「機を失することなく」、「機先を制す」という文言が多い。この機という語は「戦機」を指しており、「勝を制すべき機」と定義されている。そして戦機を見抜くのを「戦機看破」、戦機を利用するのを「戦機捕捉」と説明している42。このように、戦機は状況の推移により浮動するものであり、敵の態勢と行動によりタイミングが異なる。

一方で、戦機を判別するためには状況がどうであるか判明しなければならず、それにこだわるとかえって敵が主動の地位を占めるため「為さざると遅疑する」ことは戒められる43。よって、戦機を看破するには常に状況を注視し、我に有利と判断した場合は速やかに決心し、行動することが求められる。田中が西亜打通について、我に有利なタイミングに飛びつき、または不利とみると保留するなど浮沈するのはこのためである。

田中が西亜打通の判断基準としていたのは、ドイツの姿勢であった。開戦初期はドイツとともにイギリス屈服のための軍事協定が結べないことが判明し、一方で中国側がビルマに派兵したことが判明すると、田中は西亜打通を保留して中国軍の撃滅に向かった。しかし、6月に北アフリカ戦線が進展し、独伊の中東進出の期待が持てるようになると、また西亜打通を掲げた。そして独伊の戦況が進展しないことがわかると、再度保留されている。明らかに、田中にはドイツの戦況を戦機としてとらえていたといえる。

次の特徴は単純化である。日独伊との軍事的提携については、それぞれの戦況だけでなく、政略的要素(政治的な企図や思惑)が含まれる複雑なものであるが、田中は局地における戦術的な勝利をとらえて、日本の戦局全般の打開を目指そうとしている。すなわち、独伊の北アフリカ戦線の進撃とインド方面の進撃により、在インドのイギリス部隊を撃破して戦術的な勝利を得れば、戦略的な状況の打開に直結すると見ていた。一見これは理にかなっているように見えるが、インドで英印軍を撃破してから掃討および占領統治が生じることを踏まえると、かなり単純な戦局判断といえる。

この点について、当時はなかった概念であるが、戦争を見る視点として共通認識となりつつある作戦術の概念を踏まえてみると、問題の所在が明らかになる。戦術的な努力を媒介昇華して戦略的に意義のある結果に繋ぐために、戦略と戦術の間に作戦術が不可欠であるとされる。具体的には戦略に寄与するために、戦術的行動を連関させて個々の戦術行動を律する戦役を計画する必要がある。片岡徹也氏は、日本陸軍は「一戦争は一作戦で終結するのを至上の要求としていたから、いくつかの戦役に戦争を切り分けて考える必要性を認めなかった」ため、個々の作戦はあっても「長期的あるいは大局的な視野を欠いた」ことで敗戦を迎えたと指摘した44。田中が北アフリカにおける戦術的な勝利のみで戦争が解決できると考えていたのは、片岡の指摘を証明するものである。

そして思考の単純化は、戦術と戦略の直結、特に戦術的な概念の戦略への上方適用につながる。本来、「腹案」については戦略的な方針である以上、軍事的勝利は戦略上の一要素でしかなく、ほかの外交、経済などの成果を総合しなければならない。しかし田中からすれば、局地的かつ戦術的な勝利を得れば、戦局を好転できるとみており、他の要素は捨象または軍事に追随するものとなる。つまり、戦争の複雑な様相は戦術によって単純化された結果、長期的視野ではなく、各個の戦術的勝利を基準とした短期的視野に狭められるのである。

このような戦機を重視する姿勢、および思考の単純化は、隷下部隊に対して戦機を捕捉(状況により独断)したら対応することを期待する。日本陸軍は敵に対して主力を使用する方向が決定しない間、部隊を集結準備させていずれにも対応できるよう待機の態勢をとる「準備陣」という考え方があるが、田中のビルマに対する考え方はこれと合致する45。すなわち、独伊の戦況によりインド方面の英印軍が中東方面へ配備され、空白が生じる戦機に対応させようとしていたとみることができる。

しかし、一方で部隊が大きくなるにつれて準備の所要時間も増えることから、作戦構想を予告して準備させるリードタイムが必要となる。だがビルマにおいてはこれが十分示されないまま、逐次戦線が拡大していった。第十五軍の参謀長であった諌山春樹が、二十一号作戦を持ち掛けられたとき、大本営の参謀に「どこまで行ったら済むんだ」と言ったのは、その時の気持ちを表しているものであろう46。部隊規模が小さければ、臨機な判断に基づく行動は可能であるが、数個師団からなる軍であれば、いかに戦況を洞察しても計画の立案から物資準備、認識統一まで時間を要する。逆に言えば、大本営陸軍部の臨機の情勢判断に基づいて、行動を起こすのは難しい。もしこれが長期的視点、いわゆる作戦術をふまえた戦役を設計していれば、隷下部隊もその地位と役割を自覚して準備できるであろうが、日本陸軍、特に田中の場合はそれらに対する認識がなかった。これはいわば、大本営陸軍部作戦担当者が、戦術的な観点で戦争指導を行ったために生じた弊害といえよう。

おわりに

このようにインド侵攻の企図は、「腹案」遂行のためイギリスの屈服を図ることを目的としたI・M戦略か、援蔣ルートの完全遮断による中国屈服への寄与か、田中のなかで揺れ動いた。それにより、ビルマ方面の位置づけも影響を受けた。最終的に落ち着いたのは、印緬国境の航空基地攻略であり、対インド侵攻の起点から英印軍からのビルマ防衛、そして援蒋空路の遮断による中国屈服への寄与となった。二十一号作戦は、突如として南方軍や大本営陸軍部がインド侵攻に積極化したというよりも、田中の企図の揺らぎのなかで誕生したと見るほうが適切と考える。

その後、ソロモン方面の戦況悪化により、中国方面の重慶侵攻は作戦そのものが中止になったが、二十一号作戦は作戦準備の中止のみにとどまった。つまり準備陣的な状態で、保留されたままであった。田中は、牟田口がインパール作戦を猛烈に進めようとしたときは「最早やI・M政戦略のチャンスは過ぎていた」と戦後回想している47。しかし田中が当時、二十一号作戦を完全に中止としなかったのは、太平洋方面よりもインド方面に戦術的な好機が訪れ、戦局の転機となる期待を持っていた表れであろう。

田中はやがて作戦部長を解任され、牟田口中将の後任として昭和18年2月に第十八師団長に着任した。田中と牟田口が師団長交代の際にどのような話をしたのかは、管見の限り史料がない。しかし、二十一号作戦に対するビルマ現地部隊の消極性とともに、戦争指導上の焦点であったことが話題に上がったとすれば、牟田口中将が「南方軍及び大本営の希望を覆し……軍の威信を汚す結果になった。まことに申し訳のないことをした」と後悔したのも、ある意味理解できるといえるかもしれない48

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  • 新福 祐一
  • 戦史研究センター国際紛争史研究室
  • 専門分野:
    日本陸軍史、アメリカ陸軍史