NIDSコメンタリー 第303号 2024年3月8日 ドイツの「過去」の克服と日本 ——「ドイツ見習え論」のその後

戦史研究センター戦史研究室主任研究官
庄司 潤一郎

はじめに

1980年代後半以降、歴史認識が問題化されるにともない、日本は十分に「過去」に向き合っておらずドイツの例を模範とすべきとの「ドイツ見習え論」が、日本において頻りに議論されるようになった。歴史認識問題の国際化により、東アジアにも波及していった。
しかし、その後、日独をめぐる状況は、大きく変化した。まず、当時は世界においてもタブーであった、「慰安婦」問題をはじめとする戦場における性や植民地支配(日本は例外で既に議論されていた)の問題が、現在では注目されるようになった。
また、日独両国とも、第二次世界大戦の「過去」ゆえに、湾岸戦争への対応に象徴されるように、軍隊・自衛隊の海外派遣には慎重であったが、その後ドイツは、日本とは対照的に、アフガニスタンなど積極的に関与するようになった結果、戦闘に巻き込まれるなどして海外で116人が殉職している。
さらに、最近では、ガザ紛争における対応でも、後述するように全面的にイスラエルを支持するドイツと日本では温度差が見られ、その一因として「過去」の問題が指摘されている。
こうしたなか、現在では日本において「ドイツ見習え論」はほとんど言及されることはなくなった。
そこで、本稿では、「ドイツ見習え論」の変遷について、ドイツの動向と日本の反応に焦点を当てて概観することにより、その特徴と問題点について考察したい1

ヴァイツゼッカー大統領演説(1985年)-「ドイツ見習え論」の波及

「ドイツ見習え論」は、戦後40周年にあたって、1985年5月8日に連邦議会においてなされたリヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー大統領の演説を契機として、日本で広まっていった。
「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となる」との有名な一節は、日本でも頻繁に引用された。一方、当時日本は「戦後政治の総決算」を掲げた中曽根康弘内閣であったため、靖国神社公式参拝や防衛費のGNP1パーセント枠撤廃など「軍拡」を批判する文脈のなかで語られた2。そのため、「過去」の克服と同時に、例えば社会学者の日高六郎によって、ヴァイツゼッカー大統領の演説が「ヨーロッパ非戦の原点」(『月刊 社会党』1985年10月号)として紹介されたように、「平和主義」の側面とも結びつけられ、強調されていた3
1990年代に入り、「慰安婦」問題が起き、戦後50年を迎え日本国内で「過去」への向き合い方について議論が高まるなか、「ドイツ見習え論」はより広まっていった。例えば、『毎日新聞』は、1995年8月13日の社説で、ドイツは戦争への歴史的反省を踏まえ欧米各国の警戒感を解消していったが、日本はドイツほどの信頼を回復していないとしたうえで、以下のように指摘していた。
「ドイツの知恵に学ぶなら、過去の戦争と侵略がアジアを日本化しようとした行為だったことを認めるべきであろう」
また、1995年8月15日の社説で、7紙が戦争責任との関連でヴァイツゼッカー元大統領に触れていた4
さらに、戦後50年前後から、「ドイツ見習え論」は中国や韓国などの東アジアにも波及していった。例えば、1995年6月、新華社は、日本の戦後50年決議を論評した中で、「日本とドイツの戦後処理は、天と地ほどの差がある」と指摘していた5
一方、ヴァイツゼッカー元大統領は退職後も日本での人気は衰えず、新聞社の招きで、戦後50年の1995年と1999年の二度講演のために来日しており、彼自身「私の影響力がまだこれほどあるとは思っても見なかった」と驚きを隠さなかったのである。
しかし、元大統領自身は、日独両国には、類似点とともに歴史の連続性、文化、社会、政治体制の構造の面などにおいて大きな相違点があり、「二つの国を比較するのは大変に困難なことです。両国を横に並べて比較することには大いに自制しなくてはなりません」と、安易な比較には慎重であった6

コソボ空爆(1999年)-ドイツを「見習えない」?

戦後ドイツは、基本法の制約と第二次世界大戦の「過去」故に、NATO域外への派遣には慎重な立場に終始していた。1991年の湾岸戦争においても、ドイツは、日本と同様に、多額の資金援助はしたものの、掃海艇派遣にとどめ軍事的な人的貢献は行わなかったため、「小切手外交」との批判を浴びた7
湾岸戦争の教訓から、ドイツは、1992年5月カンボジア(国連カンボジア暫定統治機構=UNTAC)以降、ソマリア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナなど、海外への派遣を積極化していった。主に、医療など後方支援部隊であったが、NATO域外への派遣が合憲か否かについて、ドイツ国内では見解が分かれていた。
その意味で、1994年7月の連邦憲法裁判所による、連邦議会の承認を条件としてNATO域外への連邦軍の派遣を合憲とするとの判決は、画期的であった。戦後ドイツの安全保障政策を制約した種々の枠組みが消え去り、「ドイツの『戦後』は名実ともに終わり、新たな国家像を求める動きが始まった」と指摘された8
その後ドイツは、コソボ紛争に際して1999年3月に、ゲアハルト・シュレーダー政権は、「人道的介入」 として、戦後初めてNATO域外に実戦部隊を派遣し、ユーゴ空爆に参戦した。NATOにとって初めての軍事行動であると同時に、ドイツにとっても第二次世界大戦後初めて海外において軍事力行使に踏み切り、重大な転換点となった。
特に、派遣を決定したのが、平和主義を主張していた社会民主党(SPD)、同盟90・緑の党の左派連立政権であったことに加え、空爆した地域はかつて第二次世界大戦においてドイツが侵略した旧ユーゴスラビアの地であっただけに、「ドイツ見習え論」を主張していた人々にとっては驚愕と困惑が広がった。日本において、「平和主義」と「過去」の克服の問題が関連付けて理解されていたため、その衝撃はより大きいものがあり、「ニッポン『左翼』の袋小路」とまで評された9
社民党の田英夫参議院議員は、ドイツを見習えと訴えてきたが、「そのドイツが爆撃したんじゃ、もう歴史認識や補償問題のモデルにするわけにはいかない」と述べ、共産党の不破哲三委員長は、「ドイツよ、おまえもか」と洩らした。
また、社民党の土井たか子党首は、ドイツが空爆した以上、護憲派の立場は苦しいのではとの問いに、「短絡的なことを言うわねえ」と、以下のように反論した。
「ドイツがやったから、日本もなんて論法は通じませんよ。日本とドイツの違いを忘れてはいけない。第一に憲法が違う。ドイツには軍隊がありますが、日本の憲法は徹底した戦争放棄です。第二に戦後補償の問題。周辺国から危惧や不信感を招く日本の現状は、ドイツと比べようがありませんね10
このような日独間の懸隔の背景には、「平和主義」の意味と歴史の教訓の相違がある。
戦後ドイツの外交安全保障政策の原則は、第一に、単独主義の回避(Not going alone)、すなわち多国間枠組み(Multilateralism)の重視である。第二に、二度の世界大戦を引き起こしたことによる不戦の原則(No more war)である。そして第三に、アウシュヴィッツに象徴されるホロコーストに対する反省から生まれた「アウシュヴィッツは繰り返さない」(No more Auschwitz)である。すなわち、人道・人権を尊重し、民族浄化などの残虐行為を許さないということである。第二の「不戦」と第三の「アウシュヴィッツは繰り返さない」はお互いに通底すると同時に、第三国が残虐行為を行った場合は、殺戮行為を阻止するために軍事力を行使するという矛盾が生じる可能性もあった11
それが、まさにドイツにとってコソボ紛争であり、コソボにおけるイスラム系アルバニア人に対するセルビア人部隊による民族浄化(大量虐殺)を阻止するために、人道的観点から軍事力行使に踏み切ったのである。まさに、人道が「不戦」より優先されたのであった。
シュレーダー首相は、傍観者にとどまることで「戦争を繰り返すな」の原則を守るか、あるいは「殺戮と追放の阻止という、より高次の原則」のために軍事行動に踏み出すかの選択に迫られたと述べた。さらに、バルカン半島はかつてドイツが侵略した地で介入すべきではないとの議論に対して、「まったく逆の議論も可能だ。つまり、今そこで行われている新たな残虐行為の阻止こそ、私たちの道徳的義務だ」と反論した12
ヨシュカ・フィッシャー外相は、ドイツには「戦争を繰り返すな」と、「アウシュヴィッツを許すな」つまり民族の虐殺に立ち向かえという二つの意識があるが、ホロコーストになぜ抵抗しなかったのかという問いに今こそ向き合わねばならず、民族浄化に屈してはならないと指摘した。さらに、自分自身は「左派の活動家だったが、平和主義者」ではないと述べ、コソボ紛争を終結させるには「地上軍を投入し、民族浄化を阻止すればいい」とまで主張したのであった13
すなわち、ドイツにとっては、「過去」とはまずホロコーストであり、ホロコーストを阻止することが「歴史の教訓」となる。戦争はホロコーストとは峻別され「過去」の二義的側面である。したがって、民族浄化阻止のための武力行使(戦争)は当然のことながら肯定され、「戦争を繰り返すな」より「アウシュヴィッツを繰り返すな」すなわち民族浄化の阻止の方が重んじられたのであった。
一方、日本に見られるのは、絶対的な「反戦・平和主義」である。例えば、作家の小田実は、コソボ紛争のように、「人道的介入」として戦争を正当化しようとする動きは、「人権」を大義名分にした「人権戦争」であるとして、以下のように述べた14
「それは、戦争には正義はないとして、戦争と軍隊の全廃を、自国のあり方、いや、あるべきあり方を通じて世界に訴えた日本の『平和憲法』の価値が真に問われるときにきていることでもある」
さらに、「平和主義」の個人的実践である「良心的兵役拒否」になぞらえて、日本は「良心的軍事拒否国家」として歩むべきであると主張した15
ちなみに、小田は、当時NHK衛星放送の番組「正義の戦争はあるのか」でドイツを訪問し、緑の党の担当者と議論を行ったが、物別れに終わっている。
日本の「平和主義」は、絶対的な「反戦・平和主義」であるが、一方ドイツのそれは、相対的なものであり、日独間では「平和主義」の意味合い・位置づけが異なっていた。したがって、日本では「平和主義」と「過去」の克服とが密接に関連していたため、連邦軍がコソボ紛争に本格的に参戦して以降、「ドイツ見習え論」は下火になっていった。

アフガニスタン派兵(2002年~)-「反面教師」としてのドイツ

2001年9月の9.11同時多発テロを受けて、シュレーダー首相は、米国に対して「無制限の連帯」を表明した。NATOの集団的自衛権発動を受けて、2002年1月連邦軍を「不朽の自由作戦」に、さらに国際治安支援部隊(ISAF)の一員としてアフガニスタンに派遣・投入した。ドイツは、国際社会の安定を維持するという責任を果たすべきとの観点から、大きく舵を切ったのであった。
当初の任務は治安維持、人道支援や復興目的の開発援助であったが、アフガニスタン情勢の悪化にともない、第二次世界大戦後初めて地上戦に巻き込まれていった。
国際支援部隊の任務終了(2014年)後も、連邦軍は規模を縮小し任務を訓練や支援に移行して残留した。そのため、2021年6月に最終的に撤退するまでののべ20年間に約15万人の兵士を派遣した。第二次世界大戦以降、連邦軍の海外派遣の中で、最大規模で、最も長期間に及ぶ海外派遣となり、連邦軍に59名の犠牲者を生んだ。一方、クンドゥズにおいてドイツ連邦軍指揮官の要請による米軍の爆撃で子供を含む民間人が死傷するという、第二次世界大戦の「過去」を有するドイツ人にとっては衝撃的な事件も起きた。
アフガニスタン派遣を通して、ドイツは「普通の国」になったと言われる。シュレーダー政権の関係者も、「21世紀に入ってドイツは完全に普通の国の状態に戻った。ドイツは過去について自覚をもちつつ、未来の義務を果たしていく普通の国になった」と、自画自賛していた16。ドイツにとっては、「普通の国」になることは、統一後ヘルムート・コール政権以来の念願であり、したがって、まさに「歴史的決定」であった。
一方日本においては、「ナチス・ドイツによる暴虐の歴史から由来する安全保障政策上の『タブー』はもはやなくなったと言っても過言ではない」と指摘されると同時に17、厳しい批判も散見された。
現代ドイツ政治の専門家である木戸衛一は、「軍隊はやはり軍隊である。しかも、国外に派兵し、実際に戦闘行為を行っている軍隊のありようは、『戦争法』(注:安全保障法案)後の日本への警告に満ちている」と指摘しつつ、「日独の市民社会は、両国および世界の軍事化を食い止めるために、連携を強めなければならない」と結んだ18。「警告」という語が物語るように、ドイツは日本が見習うべき「模範(教師)」ではなく、もはや「反面教師」となったのである。
特に、当時日本では安全保障法案が議論されていたため、自衛隊の海外派遣と関連づけて言及された。ちなみに、ドイツ政府は、集団的自衛権を行使できるよう憲法解釈を変更した2014年7月の安倍晋三内閣による閣議決定を、「きわめて普通の通常なステップ」で、「日本が、国連平和維持部隊により強力に参加できるようにもなる」と「明確に歓迎」した。さらに、翌年の安全保障法制に対しても、全面的に「歓迎」していた19
また、『朝日新聞』の「現実路線が見失ったもの ベルリン(地球儀)」と題した記事(2002年4月2日付朝刊)は、ドイツ連邦軍のアフガニスタンへの派兵について、日本と同様に抑制的であった湾岸戦争当時からは想像しがたいとして、ドイツは「普通の国」として責任ある対応をすべきと主張しているが、「現実的な対応を急ぎすぎて、市民の声に耳を傾けるという大事な理念が後回しになったのではないか」と批判していた。
また、ドイツでは肯定的に理解された「普通の国」については、例えば、「『普通の国』に落ちたドイツ」(岩間陽子「シュレーダー政権の7年」『読売新聞』2005年10月20日付夕刊)というように、否定的に評されていたのであった。

ガザ紛争-「日本見習え論」?

昨秋生起したガザ紛争に対して、ドイツは、軍事衝突直後にG7首脳として最も早くオラフ・ショルツ首相がイスラエルを訪問し、その後も一貫してイスラエルの「自衛権」を全面的に支持するとともに、イスラエルの「自衛権」を否定しかねないとの理由で、当初は即時停戦には否定的な態度を採っていた。
また、年末南アフリカが、イスラエルの行いは「ジェノサイド」であると国際司法裁判所(ICJ)に提訴した件について、ドイツ政府は、南アフリカの主張は事実無根であり断固反対すると声明を発表した。
このような姿勢は、例えば国連人権理事会において主にイスラム諸国から非難を受けるほど、際立ったものであり、日本のメディアでも、背景とともに関心をもって報道された。
一方日本の上川陽子外相は、「主権国家として、自国及び国民を守る権利を有することは当然でありますが、一般論として、こうした権利は、国際法に従って行使されるべきことはいうまでもない」と述べていた。さらに、ガザ地区の人道状況に鑑みて、「人道目的の一時的戦闘休止、すなわちhumanitarian pauseが重要」であると主張し、イスラエル側にも働きかけてきた20
また、林芳正官房長官は、南アフリカの提訴については、イスラエルの行動がジェノサイドに当たるかは現在国際司法裁判所で審理を行っているところで、状況を注視すると述べるにとどまっていた。このように、日独間の対応には温度差があり、その背景には、ドイツはホロコースト、日本は「平和主義」というように、第二次世界大戦という「過去」に対する各々の教訓が存在している。
いずれにしても、ドイツのこのような態度は、ドイツ自身の「国是」に起因すると言われる。アンゲラ・メルケル首相は、2008年イスラエル建国60周年に際してイスラエルを訪問した折、国会(クネセト)で行った演説において、イスラエルとの関係はホロコーストの歴史的責任に由来する特殊なものであるとしたうえで、「イスラエルの安全保障はドイツの『国是』の一部である」と述べていた。
軍事衝突直後、連邦議会は「イスラエルの安全保障はドイツの国是である」との決議を全会一致で可決し、ショルツ首相もイスラエルを訪問した際に、同様の趣旨の発言を行っている。
メルケルの演説に見られるように、その背景には、ホロコーストの歴史があることは言うまでもない。それは、単なる「負の遺産」というよりも、「負い目」に近いと言えよう。
コソボ紛争において、民族浄化の阻止という普遍的な人権が「平和主義」を凌駕して軍事力行使にいたった。今回のガザ紛争では、ガザ地区の人道状況といった人権よりも、ホロコーストへの反省が優先されたのであった。すなわち、ある意味で、ドイツの「過去」の克服は、ほぼホロコーストという「負い目」への対応に収斂していると言っても過言ではない。そして、ホロコーストは、「歴史に比較が不可能なほど重大な犯罪だったのであり、あらゆる相対化から禁断されたもの」とヴァイツゼッカー元大統領が指摘したように、ほかの犯罪と比較することは不可能とされたのであった21
一方、ホロコーストに収斂することによるドイツの「過去」の克服の問題点も指摘されている。ドイツ植民地支配に関する研究の権威であるヘニング・メルバー(プレトリア大学特任教授)とラインハルト・ケスラー(フライブルク大学教授)は、ドイツによる自身の負の遺産に関する記憶の文化は、多くの人々によって模範的と見做されているが、それにもかかわらず、いくつかの重大な欠陥があると述べている。
まず、事実上「ショア」(ホロコースト)に収斂することで、ナチス時代のほかの大量犯罪が、疎外され無視されているという。例えば、第二次世界大戦期における独ソ戦をはじめとする東部地域における犠牲である。
また、もう一つの明らかな欠陥は、植民地帝国としてのドイツの過去であると指摘する。植民地統治期間は1884年から1919年と相対的に短いものの、この経験は20世紀前半のドイツの暴力的な軌跡に重大な影響を及ぼしたにもかかわらず、1945年以降、この歴史はほとんど忘れ去られてしまったという。メルバーらは、こうした現象を、「選択的健忘症」と称した22
したがって、ガザ紛争においても、イスラエルの行動をジェノサイドとして国際司法裁判所に提訴した南アフリカの姿勢を批判したドイツに対して、かつてドイツの植民地であったナミビアのハーゲ・ガインコブ大統領は、ドイツの「衝撃的な姿勢に深い懸念を表明」しつつ、「人種差別主義者のイスラエル国家による大量虐殺の意図に対するドイツの支持を拒否する」と批判した。さらに、かつてナミビアで犯した大量虐殺に対して、ドイツ政府はいまだに完全には償っておらず、ドイツは、「あの恐ろしい歴史から教訓を引き出していない」と述べたのであった。
メルバーは、ホロコーストに対するドイツの罪悪感は、パレスチナを犠牲にしたイスラエルへの無批判な忠誠になっており、それはナミビアに対するドイツの対応とは著しく対照的であると述べた。さらに、ガインコブ大統領の強い反発は、ドイツ人の「ダブルスタンダードや道徳的偽善」に対する多くのナミビア人の感情を反映しているとも指摘したのであった23
むしろ、植民地支配の問題は、ドイツのみならず世界的にも、見落とされているのが現状である。その意味で、日本は、いまだ解決には至っていないものの、例外的、もしくは先進的に取り組んできており、歴史認識をめぐって「世界のトップランナー」であるといった指摘もなされている24。さらに、第二次世界大戦期の戦場における性の問題も、ドイツでは長年タブーであったが、日本の「慰安婦」問題を契機に徐々に取り組むようになっていった25
ラインハルト・ツェルナー(ボン大学教授)は、以下のように語っている26
「戦争責任の面で日本は、『ドイツから学べ』と言われるが、この問題に関してはそうとも言えないのだ。第二次大戦における性暴力の問題は、戦後、体系的かつ徹底的に論じられたのは、これまで日本の慰安婦問題以外にない。日本はこの問題に20年以上ひとりで取り組んできた」
むしろ、植民地支配や戦場における性の問題に関しては、「日本見習え」ということであろうか。
一方、ガザ紛争を契機に、ドイツ国内では、政府のイスラエル支持とは対照的に、再び反ユダヤ主義が拡大しつつある。歴史家のミヒャエル・ヴォルフゾーン27は、昨年11月議会における水晶の夜80周年の追悼式典において、1949年以降のドイツ連邦共和国のように、亡くなったユダヤ人(ホロコーストの犠牲者)が社会や政治によって追悼されているのは歴史的に見て賞賛すべき例外であるが、一方、現在生きているユダヤ人の多くは、ドイツ人によって批判されていると指摘した。
その上で、戦後ドイツでは、様々な場において反ユダヤ主義が継承され、むしろ「急進化・常態化」しており、「ドイツ国家の失敗」であると批判したのであった。さらに、ヴォルフゾーンは、教育が反ユダヤ主義に対する万能薬であると信じるのはナイーブであると警鐘を鳴らした28
ヴォルフゾーンの指摘は、ドイツ人に限らずまさに人間が「負の遺産」に向き合い学ぶことの難しさをも物語っていると言えよう。

おわりに

本稿では、「過去」の克服において、ドイツではホロコースト、日本では「平和主義」が重視されるというように、大きな懸隔があったため、日本において「ドイツ見習え論」が次第に言及されなくなった経緯を辿った。
同時に、ドイツの「過去」の克服は、「比較不可能」なホロコーストのみに収斂することにより、植民地支配や戦場における性の問題が見落とされてしまうといった問題点を有していた。こういった問題点は、「ドイツ見習え論」が既に言及されることがなくなった日本はもちろん、東アジアでも理解されつつある。
例えば、かつて、2012年「慰安婦」問題が日韓間の懸案になった折、韓国系の団体によってニューヨークのタイムズスクエアに設置された巨大看板には、ワルシャワにあるゲットー記念碑に跪いているドイツのヴィリー・ブラント首相の写真を掲示して、日本の謝罪を要求した。ゲットー記念碑は、1943年ユダヤ人の隔離地域であったゲットーにおいて武装蜂起したものの最終的に鎮圧されたユダヤ人の行為を称えるために建立されたもので、文字通り、「比較不可能」なホロコーストに関係するものである。
しかし、現在の韓国では、新聞に「ナミビア人に笑われる『謝罪するドイツに日本は見習え』論」と題したコラムが掲載され、我々はよくドイツを引き合いに出すが、ドイツはナミビアに謝罪しておらず、「ナミビア人の前で『ドイツを見習え』などと言えば笑いものになるだろう」と指摘され、ドイツの植民地支配に対する対応が問題視されている29
日本が自身の「負の遺産」の「過去」に真摯に向き合うことは大切なことである。しかし、日本では、「過去」の克服に限らず、自国の問題点を批判するためにしばしば海外の例が引き合いに出される傾向があるが、比較は複雑かつ難しい作業であり、安易な比較は慎むべきであろう30
「ドイツ見習え論」の変遷は、戦後日本の思想の特徴と同時、まさに、日本で散見される海外との比較の抱える問題をも如実に示しているのではないだろうか。

Profile

  • 庄司 潤一郎
  • 戦史研究センター戦史研究室主任研究官
  • 専門分野:
    近代日本軍事・外交史、歴史認識