NIDSコメンタリー 第285号 2023年11月14日 危機交渉における「弱さを偽る」戦略(下)——明確な脅しを欠いたロシアによる危機交渉の戦略的論理

政策研究部防衛政策研究室 研究員
本山 功

(本稿は、『NIDSコメンタリー』第282号「危機交渉における『弱さを偽る』戦略(上)——理論的前提とロシア=ウクライナ間の危機交渉の事実関係」の続編である)[1]

はじめに

前編(『NIDSコメンタリー』第282号)第2章、第4章で示された、戦争ではなく交渉によって到達できる平和解が本来存在するはずであるという合理的選択論の前提や、強制外交では脅しの信憑性を確保する必要性があるという理解、そして危機交渉において自己拘束型のメカニズムを働かせるための観衆費用への着眼からは、次のような予想が導き出される。すなわち、国家は戦争によってよりも交渉によって財を分割することを好むはずであり、そのためには戦争に先立つ危機交渉のなかで、武力行使の威嚇や警告が公然と、最大限に発せられるはずである、というものである。

しかしながら、前編第4章で確認した通り、ロシアによるウクライナ侵攻の開始直前期には、ロシアからウクライナや米国・NATOに対しての明確で強い脅しは観測されなかった。このようなロシアの行動は、(全面侵攻を選択したという事実と並んで)ロシアという主体を非合理的であると捉える見方を促進しているかもしれない。そこで、本稿ではそのような一見不可解な行動の背景にある論理をも統一的に説明しうる、合理的選択論に基づいた理論研究を紹介し、今般の事例との整合を検討する。第5章では、そのような理論的研究が提示した「弱さを偽る」戦略について、その概要やその戦略がとられやすくなる条件を示す。それらをもとに第6章において、前編第3章で概観した事実関係を踏まえながらロシアの行動を解釈することで、今般のウクライナ侵攻直前期のロシアが「弱さを偽る」戦略をとっていた可能性を指摘する。

なお、理論研究に用いられる用語や危機交渉における国家間の相互作用については、前編で説明したため詳細を再述せずに用いる。

第5章 「弱さを偽る」戦略

危機において脅しが公然と・最大限に発せられるべきであるという予想は原則として正しいが、危機交渉の文献は、それが成立しない場合の背景にある論理も明らかにしてきた。その代表的な例として、危機における秘密裡のシグナリングが効率性や合理性をもつメカニズムを、公的な脅しの有用性を示すモデルとの接続を維持したまま示した栗崎周平(2007)[2]や、本稿で以後とりあげるブラニスラフ・スランチェフ(Branislav Slantchev, 2010)[3]が挙げられる。

スランチェフは、朝鮮戦争に対する中国の介入をめぐる経緯に着想を得て、戦争に先立つ危機交渉で、本来期待されるはずの「コストのかかる脅し」が見られない現象の背景にある論理を分析した[4]

1950年秋頃、仁川上陸に成功した米軍を中心とする国連軍が38度線を越えて北進する可能性が現実味を帯びだすと、中華人民共和国(中国)が朝鮮半島へ軍事介入を行うだろうとの風説も流布することとなった。これに対して米国の政策決定者は、中国東北部への軍の集結を認識しつつも、中国の戦時体制への移行の兆候不足や指導部との間接的接触で得た所感などから、介入は現実的ではないと結論付けた[5]。実際に、中国は、対国連声明や機関誌への論説掲載を通じて朝鮮半島への問題関心を明らかにしたり、駐北京インド大使を通じた警告を発していたりしたものの、明確な脅しや開戦に向けた準備に欠けていたために、「宣伝の伝達」[6]以上のものとは受け止められなかった。しかしながら、戦後明らかになったところによれば、中国はソ連との調整ののちに朝鮮半島への介入を行う決意を固めており、東北部に集結した部隊は、北朝鮮との国境を流れる鴨緑江を秘密裏に渡河し「完全な隠蔽状態」のもとに陣地を構築していた[7]

このように、国連軍の38度線を越える北上を抑止しようとする中国が、明確な抑止の脅しを欠き、それを裏付ける軍事的準備を隠したまま朝鮮戦争へと介入した事実は、前編で示した危機交渉の理論に基づく予想から逸脱するものであった。軍事行動を秘匿する主な目的は、戦術的な優位を得るためであると考えられる。しかしながら、前編と本稿に通底している、戦争の大きなコストを避けるために交渉によって到達できる平和解が存在するという考え方に基づけば、中国は、国境地帯に大規模で公然たる軍事動員を行って威嚇を行うことで国連軍の北上を抑止したほうが、軍事介入によって国連軍を押し戻すよりもよい結果を得られたはずである。実際に、米統合参謀本部は、国連軍の38度線以北への進軍の条件として、(ソ連軍あるいは)中国軍の介入がなく軍事的に対抗する恐れがないことを挙げていた[8]。これらを踏まえれば、中国による十分なシグナリングがあれば、国連軍が38度線を越えて北上し中国国境へと近づくことを抑止できたと考えられる。したがって、軍事行動の秘匿が戦術的優位を与えるという事実そのものだけでは、なぜ中国が危機交渉による抑止を試みなかったかを説明できないのである[9]


朝鮮戦争に関する抑止研究
本章で取り上げた朝鮮戦争の事例は、スランチェフが問題関心のイラストレーションのために論文中で言及したものである。この事例を戦略的論理からとりあげたシェリング(Thomas Schelling)も、同様の関心を示している[10]
一方で、朝鮮戦争の事例は抑止の定性的な研究の中でもたびたび取り上げられてきた。アレクサンダー・ジョージ(Alexander L. George)とリチャード・スモーク(Richard Smoke)は、朝鮮戦争の推移を「抑止の二重の失敗」と表現した[11]。すなわち、中国は米国を中心とする国連軍が38度線を越えて進軍することを抑止することに失敗し、米国の側も中国の介入を抑止することに失敗したということである。彼らは特に後者の抑止が失敗した要因として、「動機の非対称性」に着目すべきだと述べている。すなわち、中国にとって、国境を接する地域に敵対的な性質をもつ統一朝鮮が誕生することは、安全保障上の重大な脅威であって、多大なコストを支払ってでも朝鮮戦争に介入する動機をもっていたと分析したのである。抑止の成否を決定づける要因に関するこれ以前の研究では、相手に課すことのできるコストの大きさが重視されてきたのに対して、彼らは相手と自身が争点となっている課題に対してもつ動機のバランスも分析すべきだと主張したのである[12]
リチャード・ルボウ(Richard Ned Lebow)は、合理的選択論に基づく抑止論に批判的な立場から、抑止が誤認によって失敗した事例として朝鮮戦争を取り上げた[13]。彼は、米国の国内政治において朝鮮半島の統一を求める意見が支配的となったことや、官僚制の政治化などの要因によって、米国政府が、半島統一の要求や期待に適わない情報に対して非常に無関心になっていたと指摘する。これが、中国による抑止のためのシグナリングを軽視したり無視したりすることに繋がって、抑止の失敗を招いたと説明する。なお、この事例の解釈を巡っては、中国による抑止の脅し自体が明確には存在していなかったことなどを指摘する批判がある[14]
最後に、トーマス・クリステンセン(Thomas J. Christensen)は、冷戦後に新たに公開された中国側の史料などを用いて、朝鮮戦争における抑止に関する従来の研究とは異なった結論を提示している[15]。彼は、中国による介入の決定が、介入をしなかった場合の結末を考慮して行われた点を重視している。中国は、朝鮮半島問題において妥協し敵対的な統一国家の形成を許せば、中国東北部に国境防衛のための一定規模の戦力を将来に渡って配置し続けなければならない。毛沢東は、国内の抵抗勢力を壊滅させられていない当時の状況下で、台湾と朝鮮半島の両方に安全保障上の脅威を抱え続けることを問題視し、この問題が財政的のみならず、政治的にも高くつくだろうと評価した。すなわち、「防衛線を恒久的に配置するよりも安価に、将来の米国の攻撃から身を守る」[16]ために、朝鮮戦争に介入したと主張したのである。このような見方は、歴史研究において明らかにされた、毛沢東の当時の思考とされるものとも一致する。すなわち毛沢東は、「帝国主義米国が戦争に勝つようなことがあると、彼らはますます傲慢になり、我々を脅かすだろう。(中略)義勇軍部隊を送るという形で北朝鮮に手を貸さなければならない。」と述べ、彼が帝国主義的侵略者と見做す米国の、傲慢さを打ち砕くことを重視していたということである[17]

武力行使の決意をもつ国家が、その強さをシグナルして相手に譲歩を求めるのではなく、決意の「弱さを偽って」戦争を選び取ってしまう場合があるという問題に対処するために、スランチェフは、各国の相対的なパワーの大小が危機の最中にとる動員などの行動によって内生的に変化するモデルを作成し、戦術的優位を得るインセンティブが戦争回避のインセンティブよりも大きくなる条件を探索した。このモデルにおいても、従来の危機交渉の論理は踏襲されており、決意をもつ国家がより良い交渉解を得るためにとることのできる唯一の手段は、依然として、決意をもたない国家と自身を差別化できるようなシグナルを発することのみである[18]

しかしながら、このモデルで「フェイント均衡」と名付けられた均衡において、決意をもつ挑戦国は、交渉が失敗した場合に生じるであろう戦争において、防衛国をして挑戦国が弱いと誤解してしまった場合に生じる利益を得るために、自国のタイプを明らかにすることによって生じる交渉上の利益の一部を諦める戦略をとる。言い換えれば、挑戦国は、自身が決意をもつ強いタイプであった場合、それを示して交渉上の優位を得るか、それを隠して(弱いタイプであるとみせて)おいて仮に戦争に至った場合には戦術上の利益を得るかを選ぶという意思決定問題に直面する。強い挑戦国にとって、自国の強さを示すことで有利な交渉解を得ることは魅力的であるが、一方で、防衛国に事態対処のための準備をする誘因を与えてしまいやすい。仮に、強い挑戦国が弱さを偽った場合は、交渉によって得られる解の条件は悪くなるが、一方で、戦争のリスクを抑えられる上に、仮に戦争に至った場合でも十分な準備ができていない相手と戦うことができて戦術上の有利を得ることができる。挑戦国は、これらのトレードオフを考慮しつつ、弱さを偽る場合がある。

挑戦国がこのような「弱さを偽る」戦略をとるのはどのような場合かという条件について、スランチェフは種々の特徴を指摘している。本稿ではこれらのうち2点を取り上げる。第一に、防衛国側が、挑戦国が軍事的に強力であると考えて悲観的であるほど、挑戦国は弱さを偽りやすくなる。これは、仮に防衛国が両国間のパワーバランスに楽観的である場合、挑戦国が弱さを偽らずとも、防衛国が十分念入りな事態対処のための準備をする蓋然性が低いと考えるからである。また第二に、防衛国側が、事態対処のための準備(動員や武器調達など)をする際にかかるコストが高いほど、防衛国が弱さを偽る確率が高まる。これは、挑戦国が弱さを偽った際に、仮に防衛国がその(挑戦国が本当に弱い)可能性にある程度懐疑的であったとしても、準備コストの高さから十分な準備に踏み切れず、結果として弱さを偽る行為が成功する蓋然性が高いと考えるからである。

さらに、スランチェフはこの弱さを偽る戦略が、防衛国を「戦争に誘い込む(luring into war)」可能性があることを指摘している。交渉において、挑戦国が弱さを偽って要求を(主観的に)控えめにしてさえも防衛国がそれを拒否する可能性が高い場合、強力な挑戦国は、条件の悪い平和解よりも準備ができていない防衛国と有利な戦争を戦うことを好む。すなわち、弱さを偽る戦略は、相手に誤った楽観的な情勢認識を持たせることで、戦いに誘い込もうとするものと解釈できる。

第6章 ロシアによる「弱さを偽る」戦略

スランチェフが提起したような「弱さを偽る」という戦略が、ロシアによるウクライナへの全面侵攻が始まる直前の事態を説明するかを検討する。

今般の事態は、「弱さを偽る」戦略がとられやすくなる条件を満たすものであると考えられる。第一に、ウクライナをはじめとする防衛国側は、米国やNATO諸国でさえ、挑戦国であるロシアの軍事的能力を高く見積もっていた。ロシア軍の能力が、一般的に信じられていたよりも限定的であることが判明したのは、実際の戦闘の継続を通じて初めて判明したことである。そして第二に、事態対処の準備を進める必要があるウクライナにとって、そのコストは高かったと考えられる。英国王立防衛安全保障研究所(RUSI)による、ロシア・ウクライナ両軍の開戦前からの計画や準備、開戦後の約3か月間にわたる戦闘の経過を分析したレポートは、開戦直前のウクライナ政府が全面的な戦争準備に踏み切れないジレンマに直面していたと指摘している。

しかしながら、すべての主要な攻撃軸を防御する方法が特定されていたにもかかわらず、総動員なしでは使用可能な部隊の数が限られていたため、部隊配置の重点設定は敵の意図の評価によって行われなければならなかった。また、大規模な攻撃を長期間遅らせる可能性のある持続的な脅威に直面したウクライナ政府にとって、総動員による経済的影響がこれを非常に困難にしたことを強調することも重要である。[19]

ロシアとの軍事的緊張が長引く中で、ウクライナ政府はあらゆる事態に対応できるよう図上演習を繰り返し、潜在的なロシアの侵攻ルートを様々に想定したものの、すべてに対応できるような満遍のない防衛計画を遂行するには部隊の数が十分でなく、その不足を補うための総動員は、自国経済に深刻な影響をもたらすため実行の決断が困難であったということである。

また、ロシアが権威主義国であることも、ロシアが弱さを偽りやすい状況を作り出している。危機交渉の研究では、議論はあるものの、民主国の方が抑止や強要を成功させやすいと考えられてきた[20]。それは、民主的政府のもつ制度的な特徴が、危機におけるコミュニケーションで脅しの信憑性を伝達するのに長けていると考えられるからである。権力監視の制度や定期的に行われる選挙によって、民主国の指導者は危機において空脅しを行う誘因を損なわれたり、前編第2章で言及した観衆費用を負いやすくなったりすると考えらえる。民主的な制度が危機におけるコミュニケーションで政治的指導者の意図を明確に伝達するのを助けるということは、裏を返せば、民主国は弱さを偽ることも難しいということである。したがって、自身の発言が国内のメディアや野党によって検証されることがなく、その発言が虚偽であった場合に次の選挙へ与える影響を心配する必要がない権威主義国の指導者は、危機において弱さを偽ることが容易であると考えられる[21]

これらの理由から、ウクライナへの全面侵攻を企図したロシアは、その意図を隠すことで交渉上の有利よりも戦術上の有利を得ようとする「弱さを偽る」戦略をとっていた可能性があるといえる。実際に、その侵攻の開始直前まで、ロシアのプーチン大統領やラブロフ外相がその意図を否定し続けていたことは、前編第3章において侵攻直前の経緯を振り返ることで明らかにしたとおりである。


能力面での隠蔽

ロシアが侵攻の意図をたびたび否定して隠していたのに対して、戦力の移動や大規模な部隊集結など、能力の面での侵攻準備はほとんど隠されておらず、「弱さを偽」ってはいなかったようにもみえる。しかしながら、能力面での欺瞞がなされなかったことには2種類の理由が考えられる。

第一には、意思の隠蔽と異なり、能力の隠蔽は単純に不可能であったという可能性である。先述の朝鮮戦争における中国の例では、中国人民義勇軍は、日没後に移動を行ったり北朝鮮人民軍の服装を着用したり[22]することで米国による航空偵察から逃れ、能力面での企画の秘匿を成功させた。しかしながら、航空機による偵察能力はもちろん、人工衛星やICTネットワークの発達した現代において、そのような秘密裡の活動が暴露される可能性は飛躍的に高まっている[23]。ロシアが侵攻の意図のみを隠し、能力を秘匿していなかったのは、単にそれが不可能であったからという側面があるだろう。

そして第二には、ロシアの全面侵攻に対する決意が、事態の推移を通じて醸成されたからという可能性である。すなわち、ロシアは当初、2014年以降繰り返してきたスナップ演習や抜き打ち検閲[24]、2021年春の大規模な部隊終結のように、軍事活動によって緊張を高めては鎮静化させるという従来の「多層的な闘争手段」[25]の一つとして、今回の危機を作り出したのかもしれない。危機交渉の理論において、国家のもつ武力行使への決意は、危機の中で「作り出される」ことが知られている[26]。危機の最中に、軍事動員や部隊の展開によって局地的なパワーバランスが変化した場合には、戦争という帰結に至った場合に得られる潜在的な利得が好転するため、当初は武力行使の決意をもたなかった国がその決意をもつに至ることがある。翻って今般の経緯を振り返るに、前編第3章で示した通り、ウクライナを巡る軍事的緊張が高まる中でも、フランスとドイツは侵攻の可能性を相当低く見積もり首脳外交等による事態の打開を模索していたし、米国もバイデン大統領が介入のコミットメントを早期に否認するなど[27]、NATOを中心とした西側の軍事力がウクライナとロシアの国境地帯での軍事バランスに重要な変化をもたらすとは考えにくかった。こうして、自ら高めた緊張の中で危機の推移を見守ったプーチン大統領は、西側からこれ以上の強硬な反応は出ないと予期して、2022年初頭というタイミングでの全面侵攻の決意を固めた可能性を指摘できる。ウクライナの善戦を観測した西側諸国は、ロシアの全面侵攻が始まった後になってから一定程度の関与を決意したようであり、ウクライナへの武器供与を質的・量的に拡大した。しかしながら、侵攻の開始前においては、彼らはウクライナのゼレンスキー大統領に首都キーウからの脱出を持ちかけていた[28]。その意味では、西側諸国の決意もまた、戦場での事態の推移を通じて醸成されたといえるだろう[29]。これらの分析から考えられるのは、ロシアが侵攻の意図を隠して能力を隠していなかったという現象に対する、次のような理解である。すなわち、意図に関しては、危機の当初は実際に決意をもたなかったために侵攻の意図を否定しておいて、侵攻の決意を固めてからも弱さを偽る戦略をとるために意図を否定し、交渉における重大な要求を発しなかった。さらに能力に関しては、当初はあくまで従来の「多層的な闘争手段」[30]の一つとして部隊の集結を始めたために徹底的な隠蔽を施さず、侵攻の決意を固めたときには既に米国等によってそれが検知・暴露されていたため、(隠蔽の単純な技術的困難さも相まって、)能力を隠すこと自体を諦めていたと考えられる。

ロシアの首脳部、ひいてはプーチン大統領がどの時点で意思決定を行ったのかを特定するのは後世の歴史研究によらなければならないだろうが、戦略的な論理からはこのような、当初は武力行使に十分な決意をもっていなかったプーチン大統領が、危機の展開を通じて決意をもつに至り、さらに侵攻開始の手段として弱さを偽る戦略をとったという可能性を指摘できる。

そしてこの解釈は、侵攻開始直後のロシアの戦い方とも整合的である。ロシア軍が、侵攻開始の当初は、ウクライナの首都キーウを早期に陥落させゼレンスキー政権を排除することで、ウクライナ全土での抵抗の意思を挫こうとしていたことは広く知られており[31]、戦場においてロシア軍の部隊から鹵獲された命令書等からも確認されている[32]。このような電撃的な作戦を成功させるためには、動員や武器供与の受領を通じたウクライナ側の準備が十分に整っていないままである必要があり、侵攻の意図を隠す弱さを偽る戦略をとることが最適といえる。事実として、ゼレンスキー大統領がロシアによる全面侵攻の脅威を十分深刻に見積もっていなかった可能性があることは第3章で指摘した通りである。また、先述の総動員に関する兵力不足と経済的負担のジレンマによって、ウクライナ政府が総動員を決断したのはロシアによる全面侵攻を受けた2022年2月24日であり[33]、その直前の2月22日の時点では、予備役の招集を認めたものの総動員は否定していたのである[34]。ロシアによる弱さを偽る戦略は、(それ自体は)一定程度の成功をみたと考えられるだろう。


「偽旗作戦」か「弱さを偽る」戦略か
ロシアによって侵攻の意図が否定され続けていた他の理由として、偽旗作戦を実行するためであったという説明も考えうるが、その可能性は低いとみられる。偽旗作戦とは、相手を非難したり自国の正当性を高めたりする目的で、自身が政治的・軍事的攻撃を受けているように演出する作戦である。今回の場合は、ロシアに侵攻の意図がないにもかかわらずウクライナや米国・NATOが危機を煽っているという構図を演出し、ウクライナ東部での親露勢力に対する攻撃を実行することで「自衛」としての侵攻の口実とする工作などが考えられる。2022年1月には、偽旗作戦を実行するための工作員がロシアによって配置されているとの情報を、米国が開示して警戒を呼び掛けた[35]
しかしながら、この偽旗作戦を実施・成功させるためにロシアが侵攻の意図を否定していたと考えるのは不自然である。なぜならば、第一に、偽旗作戦のもつ効果は非常に限定的だと考えられるからである。そして第二に、それにもかかわらずロシアが(恐らく)実際に準備を進めるほど偽旗作戦に強い意欲を持っていたのだとすれば、米国による暴露があったにせよ、侵攻の開始まで意図の否定を続けていたにもかかわらず計画を実行に移さなかったのは不自然だからである。
今回の文脈において偽旗作戦のもつ効果は、非常に限定的だと考えられる。この作戦の一義的な目的は、その後の軍事侵攻の正当性を担保することとみられる。この担保すべき正当性は、国内における正当性と、国外アクターに対する正当性に分類できる。このうち、ロシア国民に対する国内的な正当性は、プーチン大統領がメディア統制を通じた独自の世界観の流布に成功していることを踏まえれば、米国による事前の暴露があったとしても偽旗作戦を決行することで、十分に確保できたと考えられる。また、国外アクターに対する正当性については、元より、偽旗作戦によってそれを担保できていたかどうか不明である。国連憲章や国際法を明らかに無視したロシアによる軍事侵攻に対してでさえ、国際社会の反応はまちまちである。日米欧諸国がその行動を明確に非難したのに対して、中国はロシアに懸念を示しつつもその行動を「尊重」し[36]、ASEANはロシアに対する配慮から「微温的」[37]な声明を出すにとどまった。国外アクターがロシアの軍事侵攻に対して見出す正当性は、各国の置かれた環境や選好に応じて変わるものあって、偽旗作戦の有無がそれを大きく変容させうるとは考えにくい。仮にロシアが、偽旗作戦によって得られる程度の非常に限定的な正当性さえ希求するのであれば、国際法に反する侵攻はそもそも行わないであろう。
それでもロシアは実際に偽旗作戦を計画していたとされる。その動機がロシアによる独自の戦略思想や作戦文化にあるのかは判然としないが、仮に偽旗作戦に強い意欲を持つのであれば、米国によるインテリジェンスの公表(暴露)を受けても、計画を実行に移すと考えられる。前段の通り、単に正当性の確保という観点からは偽旗作戦に大きな効果は見込めないため、逆にその計画が暴露されたとしてもその効果が大きく減退することはないであろうからである。しかしながら現実には、ロシアは偽旗作戦の実行を断念したようである。このことは、ロシアが偽旗作戦を重視しなくなったことを表している。そして、仮に侵攻の意図の否定が偽旗作戦のためであったとするならば、その意図を秘匿しておく必要も失われたことになる。
こうして、偽旗作戦のために侵攻の意図を否定していたという説明は説得力を持たず、本文の当初の問題設定である、ロシアが、良い交渉解を勝ち取るために武力行使の脅しを明確化するはずであるという単純な理論的予想に反したことがパズルとして立ち上がってくるのである。

おわりに

本稿は、2022年2月に始まったロシアによるウクライナへの全面侵攻について、その開始直前期にロシアとウクライナや米国・NATOとの間で行われた危機交渉においてロシアが「弱さを偽る」戦略をとった可能性を指摘した。危機交渉の理論の基本的な考え方に基づけば、ロシアは、ウクライナ侵攻の直前に明確で最大限の脅しを発することで戦争を回避しつつ良い交渉解を得ようと試みるはずであった。しかしながら、現実にはそのような脅しは観測されず、一見して不可解な事象であった。本稿で紹介した弱さを偽る戦略は、そのような一見不可解な事象に対して、その背後にある論理を危機交渉の理論から逸脱することなく説明したものである。弱さを偽る戦略を提示した理論研究で示された、この戦略がとられやすくなる条件は、今般のウクライナ侵攻を取り巻く戦略的環境と整合的であり、その他の事実関係からも、ロシアが弱さを偽る戦略をとった可能性が示唆された。すなわち、キーウを早期陥落させることによって電撃的に勝利を得る作戦を企図したロシアは、武力を背景とした脅しによって交渉上の優位を得る(強制外交の)強要という方法ではなく、侵攻の意図を一貫して否定し続けることを選んだのである。ロシア政府内部から情報を収集できるとみられる米国や、米国からの情報に説得されたイギリスを除いて、フランスやドイツなどのヨーロッパ各国や、ひいては侵攻をうける当事国であるウクライナでさえ、ロシアによる侵攻の可能性について懐疑的であるか十分に信じられていない状態であった。一般的に、侵攻後に必要となる対処については、侵攻前から十分な準備を整えておく必要がある。ロシアの弱さを偽る戦略によって、ウクライナや一部のヨーロッパ諸国が侵攻の可能性をある程度低く見積もってしまったことは、そのような準備の促進を妨げた可能性がある。

この分析をより一般的な文脈へ応用させると、次のような示唆が得られる。ある国Aが軍事演習等を名目に軍部隊を集結・展開させたのち、その地域・海域に留まるなどの特異な行動を見せ、侵攻の可能性がささやかれているような場合を考える。このとき、A国が置かれた政治的状況や戦略的環境に基づいて、侵攻は利益にならないと判断し、侵攻の可能性を低く見積もるような分析をする際には、以下の2点に注意する必要がある。第一に、軍の集結・展開の目的を(侵攻の可能性を排除して、代わりに)強要であると分析することには、多大な困難がつきまとう。上編で述べたとおり[38]、その目的が強要であっても侵攻であっても、それぞれが必要とする軍の集結や展開の仕方に違いは無いからである。強要を成功させるためには、相手をして侵攻の可能性が十分高いと信じてもらう必要があるためである。

そして第二に、A国が弱さを偽る戦略をとっている場合、そのような分析はむしろ侵攻の可能性を高める恐れがある。侵攻の可能性が低いとの見方が支配的になれば、対処のための準備は抑制され、十分な水準に満たないものとなりうる。そのような状況下では、仮に本来、侵攻にかかるコストを鑑みれば十分な利益を得られないとA国が考えていた場合であっても、準備の出来ていない相手への侵攻であれば利益を得られると考えたA国が(弱さを偽ることに成功した為に)侵攻に踏み切ってしまう可能性がある。これは、有事やそれを見据えた段階における、認知領域の重要性を示唆しているともいえる。

弱さを偽る戦略は、合理的選択論に下支えされた危機交渉の理論研究によって提示された。ロシアによるウクライナ侵攻を受けて、元より根強かった国際政治や国際関係を合理性に基づいて分析することへ懐疑的な見方が、合理的選択論への無理解を含みつつ再生産され拡大しているようにもみられる。現代において戦争(全面戦争)は非合理的であるはずとの主張はその一例であるが、そもそも合理的選択論に基づく戦争原因の研究は、合理的な意思決定の産物として非合理なはずの戦争が帰結してしまう条件を探索してきたのである。合理的選択論が戦争を発生しえないものとして扱っているわけでないことは既に十分に明らかであるため、本稿では、今般のウクライナ侵攻を巡って生起した、合理的選択論の原則から単純に導かれる予想に反する事象について、合理的説明が加えられることを示し、それを支持する戦略的環境や事実関係についても指摘した。国際政治や国際関係に関する分析は、引き続き、各アクターの選好とそれぞれの戦略的相互作用に着目して行われうるものといえる[39]

Profile

  • 本山 功
  • 政策研究部防衛政策研究室
    研究員
  • 専門分野:
    数理政治学、安全保障論、危機交渉(抑止・強要)