NIDSコメンタリー 第283号 2023年11月7日 海上自衛隊航空基地の成り立ち(全2回)——後編 下総航空基地
- 戦史研究センター 安全保障政策史研究室
- 工藤 亜矢
はじめに
前回は、地元自治体からの誘致を受けて開設された鹿児島県の鹿屋航空基地について述べた。鹿屋基地は海上自衛隊がまだ保安庁警備隊であった1953年12月に開隊されたが、今回述べる下総航空基地は、鹿屋基地開隊から約9年後の1962年9月に開隊された基地である。
1952年から保安庁保安局保安課長、54年から防衛庁防衛局第一課長などを歴任した海原治は、自衛隊の草創期における陸、海、空自衛隊の基地整備について、「当時は置けるところに置いてきた」「決して防衛の観点ではない」「日本の防衛のためなんて基本的な計画に沿ってやるような余裕はゼロ」と述べており[1]、同様に元防衛事務次官の加藤陽三も、自身が防衛局長であった1960年代前半は「基地問題が一番難しくなった時代」と回想している[2]。
まさに加藤の言うところの「基地問題が一番難しくなった時代」に開設された千葉県の下総航空基地は、どのような経緯で開設に至ったのだろうか。本稿では、鹿屋基地とは異なり「基地問題が一番難しくなった時代」に成立した下総基地の、その開設にあたっての問題と解決策に着目する。
白井航空基地(Shiroi air base)と藤ヶ谷飛行場
下総航空基地は千葉県の柏市と鎌ケ谷市を跨いだ場所に位置する。鹿屋が元々旧海軍の飛行場であったのに対し、こちらは藤ヶ谷飛行場と呼ばれた旧陸軍の飛行場であり、戦後はやはり米軍に接収されて、海上自衛隊が使用したのは1959年10月からである。当初は航空機整備員を教育するための白井術科教育隊のとしての使用であり、基地の名称も当時共同使用していた米軍が「Shiroi air base」と呼称していたことから「白井航空基地」と呼ばれていた。近隣にある白井村からその名称になったと思われる。その後米軍が撤退し、海上自衛隊の航空部隊が所在する基地となるのは1962年のことであるが、そのタイミングで下総航空基地と改称された。現在は白井術科教育隊の後身である第3術科学校や、航空機搭乗員を養成する下総教育航空群などが所在する、海上航空の教育を担う基地である。
元々海上自衛隊には、航空機の整備員を教育する機能を持った航空基地を関東に整備したいという構想があった。1957年頃、海上幕僚監部(以下、「海幕」と記す。)はその目標を海軍航空隊のあった茨城県の鹿島に置いていたが、結局断念して他の候補地を探すことになる[3]。元海上幕僚長の内田一臣は、自身が海幕の業務計画班長だった1958年、59年頃に米軍からの返還見込みのある施設を海幕管理課長の富崎作らと視察に回っていたと振り返っており、そうした中で白井基地の米軍との共同使用に成功したと回想する[4]。この富崎が米軍撤退後の白井基地の取得について調達庁及び大蔵省財務局に打診したところ両者は極めて否定的であり、内局も白井基地の使用についてはタブー視していたという。その理由は周辺の町村長が米軍基地反対運動を先頭に立って行っている状況であり、白井基地取得は百里基地以上の反対闘争に発展しかねないからというものであった[5]。
白井基地について1953年11月24日の読売新聞千葉版では「民有地69748坪が接収されたまま今まで何ら補償されず地元を軽視している」と、県に陳情があったことが報じられており、1956年12月25日の記事では、戦時中に旧陸軍が土地買収に着手し、売買契約書、登記承諾書を作成したものの、終戦の混乱で手続きが中断されたまま米軍に接収されたとある。同記事では固定資産税が地主にかかったままの登記未済の土地や買収未済の土地があり、関東財務局の調べでは21万坪が登記未済、うち1~2割程度が買収未済地とみられると続く[6]。
この土地に旧陸軍が飛行場を開設したのは終戦直前の1945年6月である。それ以前は会員制の「武蔵野カンツリー倶楽部」が1929年に建設した、ゴルフ場「藤ヶ谷コース」であった。当時「武蔵野カンツリー倶楽部」の常務理事をしていた平山孝は、ある日陸軍中佐が近隣の地主200名程度に実印持参で集まることを命じ、有無を言わさず土地を提供させ印を押させたと述べている[7] 。1960年に関東財務局が行った旧軍買収土地の確認調査へ沼南村長(後述する中台正夫)が回答したところによると、買収の時期は1943年の2月と7月であり[8]、その後1945年6月の「藤ヶ谷飛行場」完成直後に終戦となって、登記に関わる作業は中断、終戦後はShiroi Air Baseとして米軍の管理下に置かれることになった。そうした理由から前述のような住民の陳情、反対運動が発生したのである。
海上航空再建の構想については、厚生省第二復員局残務処理部のメンバーによる研究から始まって警備隊、海上自衛隊と継続して検討され続け、その時々で航空基地の候補地も検討されてきたが、この藤ヶ谷飛行場あるいは白井基地という名称は一度も出てくることはない。一方で1953年に保安隊第一幕僚監部が検討した空軍構想の資料中に「白井」の名前が見え、管理は「JADF」との記載がある[9]。JADF(Japan Air Defense Force)は日本防衛空軍と呼ばれ、日本の防衛を任務とし後に航空自衛隊の創設にも大きな影響を与える極東空軍直轄の部隊である。しかし元々陸軍が買収したこの土地に、陸上自衛隊でも、設立にJADFの影響を受けた航空自衛隊でもなく、海上自衛隊が使用することになったのは、内局が土地問題を抱えた基地の使用に強い危機感を持っていたところ、海上自衛隊が強引に取得に至る行動を取ったことも理由の一つではないだろうか。海幕の富崎が内局の経理局長に白井基地取得の交渉をした折、富崎の執拗な申し入れに経理局長が怒り、「海上自衛隊だけでやれるものならやってみろ。ただし、地元でトラブルが起こったら直ちに中止させるし、責任の取り方も考えてもらう」と言い放ったとの証言も残る[10]。
下総航空基地となるまで
富崎は『海上自衛隊第3術科学校10年史』において、「(下総を想えば)なんといっても中台村長さんである」と語っている[11]。中台正夫は現在の柏市内に位置する沼南村の村長を務めた人物であるが、米軍白井基地の諸問題を解決するために組織された「白井基地対策協議会」会長でもあった[12]。富崎は中台がいわゆる白井基地反対闘争の長であると知りながらも訪問し、中台と対話を重ねる。そして住民が抱える土地登記関係の問題について富崎が関係部局をまわって解決することを提案し、実際に海幕が中心となって調査を行い、ついに白井基地周辺の買い上げ済と未買い上げの境界線が明瞭に示されている書類が発見されたという。以降、中台は反対する住民を説得するなど、海上自衛隊の強力な支援者となった[13]。
1959年10月、白井術科教育隊が開隊するが、富崎はそれを「海上自衛隊の尖兵的役割」と表現し、海上自衛隊が村に「馴染む」ことで更に航空基地整備へと調整が広がったと語る。特に自身が術科教育隊から第3術科学校へと改編されたこの学校の副校長として赴任してからは、隊員の存在が基地受け入れを決断した中台への批判の種とならないよう、また滑走路拡張を伴う航空基地整備が円滑に行えるよう、術科学校の職員及び学生を指導して地元に根付くための活動を行い始めた。例えば乗り合いバスで席を譲るなどの親切運動や、繁忙期の地元農家への援農、文化交流への参加や地元小中学校の運動会での運動場への散水など、いわゆる「ソフト・パワー」を駆使して、地元に理解者を増やすことに努めた[14]。
航空基地の整備に大きく働いた人物がもう一人いる。当時の防衛事務次官、今井久である。今井は元内務官僚で戦後は行政審議委員会、調達庁長官などを経て1957年から防衛庁事務次官を務めており、当時は白井基地のある町村と隣接する松戸市に在住していた[15]。そのため地元事情に明るく千葉県知事とも親密な関係にあったことから、富崎は地元行政機関との折衝には今井を頼ったという。今井が白井、鎌ケ谷、沼南の三町村、松戸の有力者を集めて富崎を紹介する場を設けるなど、今井の配慮で地元有力者が基地整備に協力する方向に動かされたとの回想も残る[16]。当初白井基地をタブー視していた内局だが、最終的には事務次官自ら基地整備の調整を行うに至っていた。なお『鎌ケ谷市史』によれば白井基地の整備に際し、軍事基地反対の立場からの運動も生起しているがこれらの運動が大きく発展することはなく[17]、白井基地の滑走路拡張工事は1961年9月28日から行われた。滑走路の完成後にこの基地に開隊した第4航空群の初代司令であった阿部平次郎は、今井の尽力に触れて「基地設置反対運動が全国的に起きていた当時、誠に順調に開設しえたのは先生のお陰」と語る[18]。
滑走路が整備された白井基地は1962年9月、「下総航空基地」として開隊した。
地元地権者との交流
前述したとおり海上自衛隊は白井基地に先ず術科教育隊を開設し、地元との融和を図りながら滑走路整備を行っていくが、白井基地の滑走路拡張工事開始間もない1961年10月17日の第39回国会参議院内閣委員会会議録に、当時の白井基地に関する次のような答弁が記録されている。滑走路用地の一部について澁谷貴重という人物が自身の所有地であることを主張し、1954年に東京調達局に賃貸契約を結んでほしいと申し入れ、1960年には千葉地方裁判所に提訴しており、1961年当時は係争中の状況であったとのことである[19]。澁谷貴重は地元の名家出身で政治家や官僚にも知己の多い人物であるが、当時滑走路内の土地の一部に所有権を主張していた。後年、富崎の書簡を基に元第3術科学校長の中村克二が記した文章に、防衛省の仲介となって住民と交渉をしていた中台も澁谷との交渉には最終的に匙を投げたと残されている。中村の記述には続いて、当時、地元住民も招いて行われた第3術科学校の運動会で、隊員が澁谷家の先祖である赤報隊の澁谷総司の仮装行列を披露し、澁谷がそれに感動して滑走路工事に同意したとのエピソードが残されていた[20]。
2022年8月、澁谷家から鎌ケ谷市に同家所蔵の資料2万4千454点が寄贈されたが、その中には航空基地に関わる訴訟に関連した資料のほか、澁谷貴重と海上自衛隊との交流が分かる資料が多数含まれている[21]。「昭和三十六年秋 第三術科学校運動会 副校長 一等海佐富崎作」と裏に記された写真には、澁谷とみられる白髭の人物と制服姿の人物がにこやかに写っており、また裏書はないが別の写真には澁谷と、本物の馬に跨る赤報隊らしき仮装をした一団との写真も残されていた。寄贈史料の中にある運動会の案内の下書きから赤報隊の仮装の写真は滑走路完成後の1963年のものと推察されるが[22]、「親切運動」や「援農」で地域住民との融和を図るとともに、海上自衛隊が地元の地権者などの有力者に積極的にアピールしていたことが分かる史料といえる。
おわりに
前回から2回にわたり鹿屋と下総を例に挙げ、草創期における海上自衛隊の航空基地整備について見てきた。当時、自衛隊がその基地を整備するために取り組む相手は、旧軍基地を接収したまま使用していた米軍であり、工場用地等の土地を欲した民間企業であり、あるいはその土地に根付いた住民達であった。自治体は地域振興などのために企業誘致と自衛隊誘致を天秤に量り、仮に自治体が自衛隊誘致に舵を切ったとしても住民の反対運動が激しければ基地整備は困難を極めた。
前回に述べた鹿屋は、旧海軍の航空隊による地域経済の活性化の記憶により、当時の新聞記事の言葉を借りるなら「軍都の夢」を追って自治体が海上自衛隊(警備隊)を誘致し、住民もまたそれを歓迎した。一方下総では、終戦直前の旧陸軍による強引な土地買収に起因した補償問題が継続されており、基地への反対運動が行われている状況であった。幸い補償の問題に金額的な目途がついたこと、村長や地主など地域の有力者が自衛隊に理解を示したこと、反対運動は土地の問題が主であり、反自衛隊などの思想と直結しなかったことなどから事態は収束に至った。現地へ足を運び反対者の話しに丁寧に対応したこと、事務次官の政治力による有力者への根回しなどが実を結んだのだと言える。
1950年代から1960年代にかけて、敗戦の記憶はまだ生々しく、旧軍と自衛隊を同一視する国民も多かったことだろう。時代が変わっても人々の記憶は残っており、自衛隊が基地を整備しようとした時代、まさに戦前、戦中の出来事が地元住民の意識に大きく影響していたのだと言えよう。
Profile
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戦史研究センター安全保障政策史研究室
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海上自衛隊史