NIDSコメンタリー 第299号 2024年2月14日 ドイツにおける戦没・殉職兵士追悼②——ドイツ連邦軍を対象として

戦史研究センター戦史研究室主任研究官
庄司 潤一郎

はじめに

②では、戦後のドイツ連邦軍における戦没・殉職兵士に対する追悼について述べる。前稿(①)で指摘したように、1993年にドイツ初の中央戦没追悼施設としてノイエ・ヴァッヘが設置されたが、戦後の連邦軍は「戦争と暴力支配」の犠牲に当たらないため、追悼対象とはされなかった。したがって、統一的な施設はなく、各軍種に追悼施設が存在する状況が続いていた。陸軍はコブレンツのエーレンブライトシュタイン要塞(1972年開設)、海軍はラボエ(1954年開設)、そして空軍はフュルステンフェルトブルック空軍基地(1962年開設)に、各々設置されていたのである。ちなみに、この3つの追悼施設では、両大戦の戦没者もすべて追悼されている。

背景

ドイツ連邦軍は、1955年の創設以来、任務中に3387人の兵士が殉職している(2024年1月31日現在)。その中には、1992年以来カンボジアを皮切りに部隊が海外に派遣された結果、海外任務で殉職した116人も含まれている。最も多いのがアフガニスタンで、59名と半分以上を占めている[1]

特に、2002年1月に、国際治安支援部隊(ISAF)の一員として、英米に次ぐ規模の部隊をアフガニスタンに派遣した。当初の任務は治安維持、人道支援や復興目的の開発援助であったが、アフガニスタン情勢の悪化にともない、第二次世界大戦後初めて地上戦に巻き込まれていった。

2008年8月には、連邦軍が民間人に発砲したため、初の連邦軍による民間人の犠牲者(女性1人、子供2人)が生じ、第二次世界大戦の記憶からドイツ社会に大きな衝撃を与えた。 

同年10月には、自爆テロでパトロール中の連邦軍兵士が死亡した際の追悼式において、フランツ・ヨーゼフ・ユング国防相は、初めて「戦死者」(Gefallene)という語を使用した。その後も連邦軍の犠牲は増加していったため、それに対応するため、メルケル政権は、2009年7月、殉職した4人の兵士に前年制定された「勇敢勲章」を戦後初めて授与した。翌2010年には、メルケル首相も、アフガニスタンの状況を「戦争」と呼び、政権として実質的に戦争状態であることを認めたのであった。

他方、2009年9月、クンドゥズにおいて、連邦軍司令官の命令による米軍の爆撃で、子供を含む多くの民間人が巻き添えとなり死傷する事件が起きた。

こうした中、当初は派遣容認論が強かったドイツ国内において、徐々にアフガニスタンへの派遣反対、撤退論が高まっていった。例えば、アフガニスタンへの派兵について、2008年の支持62%、不支持34%が、12年には支持38%、不支持55%となった。また、アフガニスタン派兵は成功であったかについては、2008年の成功36%、失敗17%が、12年には成功24%、失敗36%と世論は逆転し、否定的見解が多数を占めたのであった[2]。統一した追悼施設が設置されたのは、まさにこのような時期であった。

「連邦軍栄誉の碑」(Das Ehrenmal der Bundeswehr)

2005年12月初めに、アフガニスタンのカブールを訪問したメルケル政権のユング国防相が、現地のドイツ連邦軍兵士自らが同僚の犠牲を追悼するために作った慰霊碑に感銘したことが端緒であった。その個人的な体験が、連邦軍のすべての殉職者に感謝と敬意をもって追悼すべき統一的な施設の設置を検討する契機となったのであった。

追悼施設は、発案当初より、戦死者の犠牲的献身を称えるといった古典的なものとは距離を置き、新たなコンセプトが模索された。著名な専門家による委員会が設置され、慎重な議論を経て、最終的にミュンヘンの建築家アンドレアス・メック教授の提案が選ばれた[3]

一部には「ドイツ兵も絡んだ戦闘で多くのアフガン市民も死んだ。彼らこそ追悼されるべきだ」といった主張も見られたが[4]、追悼施設設置の必要性・是非については、与野党間でほぼ一致していた。

むしろ議論が分かれたのは、追悼対象と設置場所であった。追悼対象について、国防省は、連邦軍に限定するとともに、海外派遣に限らず創設以降のすべての殉職者を対象とするよう計画していた。一方、社会民主党(SPD)、自由民主党(FDP)、緑の党といった野党に加えて、ウォルフガング・ティールゼ連邦議会副議長も、軍人に限定せず、海外での任務中に死亡した外交官、警察官、消防士、さらに人道支援・開発援助に従事していた民間人にまで広げるべきであると主張した。また、連邦軍兵士の場合は、海外任務での殉職者に限定すべきであるとされた。

国防省は、最終的に、公務中殉職したすべての連邦軍兵士を対象とすることを決定した。その理由について、ユング国防相は、軍人という職業においては生死の問題が本質的に際立っている点で、ほかの職業とは全く異なっているとしたうえで、以下のように述べている[5]

「軍隊には、明確な上下の階級秩序、軍事的に不可欠な命令と服従の原理、そして自分の命をも犠牲にする極めて広範囲に及ぶ忠誠義務があり、これは軍隊とほかの職業を区別している。ただし、こういった規律・義務は、最近の風潮では好まれるものではない」

すなわち、軍人の任務の特殊性を重視し、したがって、軍人の殉職の意味合いが曖昧になることを避け、「純粋性」が尊重されたのであった[6]

追悼対象と関連して、設置場所についても、意見が大きく分かれた。国防省は、ベルリンのベントラーブロックにある国防省の本省に設置することを計画した。特に、ベントラーブロックは、1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件に象徴される国防軍による反ナチ抵抗運動と密接に結びつく場所であり、戦後の連邦軍の伝統を理解するうえで核心的意味を有しているとされた。

一方、野党は、連邦軍はあくまで連邦議会に従属しており、したがって連邦議会議事堂前に設置すべきであり、連邦軍は市民社会の一部となっていることから広く一般に公開されるべきであると反論した。

例えば、自由民主党の国防問題専門家であるエルケ・ホフは、「連邦軍は『議会軍』であり、連邦議会の決議によってドイツ国民を代表して行動している。したがって、連邦議会の近くに建てられるべきであり、かつ目立つ場所でなければならず、国防省内ではなく、広く開かれた公共の場がふさわしい」と主張していた[7]

場所も、最終的に国防省の意向を受けて、国防省内に設置された。総工費は、約400万ユーロであった。こうして建立された「連邦軍栄誉の碑」は、ベルリンのベントラーブロックにある国防省の敷地内に設置され、ヒルデブラント通りと国防省の練兵場に面していた。一般の人々も自由に見学することは可能であるが、可動式の壁によって、国防省で行事がある際など一時的に閉鎖され入門を制限することが可能であった。

建物のデザインは、長さ32メートル、幅8メートル、高さ10メートルの鉄筋コンクリート製のブロックで、透かし彫りのブロンズの殻で覆われて、その構造は兵士が死亡した際に真っ二つに折れる識別票を想起させるものであった。室内は、まず壁に「ドイツ連邦軍の死者へ。平和、正義、自由のために」と刻まれている。「沈黙の部屋」では、殉職した兵士の名前が、各々約5秒間投射される仕組みになっており、「記憶の書」は、20枚のブロンズ版で構成され、殉職者すべての名前が記載されている。また、「インフォメーションルーム」では、連邦軍の歴史と各々の兵士が殉職にいたった経緯・背景が紹介されている。

2009年9月8日、ホルスト・ケーラー大統領を迎えて落成式が挙行され、多くの要人も列席した。ケーラー大統領は、「『連邦軍栄誉の碑』は、英雄顕彰や犠牲者崇拝に奉仕するものではなく、戦争も美化しない。この場所は何も美化されておらず、ただ哀悼の場所である」と演説を行った。

一方、周辺では、戦争反対派による抗議活動が行われ、デモ参加者は「兵士は人殺しだ」とヤジを飛ばし、警察官に連行されたのであった。

「追憶の森」(Der Wald der Erinnerung)

2014年12月、ドイツ連邦軍は、13年間に及んだ国際支援部隊の任務終了にともない部隊を撤収させることになった。2015年以降は、規模を縮小して、訓練と支援に任務を移行することになった(最終的にアフガニスタンから撤退するのは、2021年6月で、20年間に及び約15万人の兵士を派遣した)。

そこで、問題となったのは、アフガニスタンやボスニア・ヘルツェゴヴィナなど派遣地域で殉職兵士を追悼するために同僚の発意によって建立された「栄誉の木立」(慰霊碑)の取り扱いで、ドイツ本国に移送されることが検討されていた。

一方、これまでに殉職した兵士の遺族は、ベルリンのような、物理的にはもちろん政治的にも騒々しい首都ではなく、静かな場所で故人を偲ぶことのできる場所を要望していた。

こうして、両方の流れを受けて生まれたのが、「追憶の森」である[8]。したがって、ベルリンの「連邦軍栄誉の碑」と競合するのではなく、それを補完するものであると位置づけられた。静かで威厳のある環境で故人を偲ぶことと、「栄誉の木立」の再現が目的とされたのであった。すなわち、「追憶の森」は、海外任務を中心としつつ連邦軍のすべての殉職兵士を対象とした、集団的な追悼と個人的な弔いの感情を融合したものであり、「仲間意識」、「支援」、そして「助け合い」を具体的に表しているとされた。

設置場所について、「連邦軍栄誉の碑」と同様に、連邦議会近辺なども候補に挙がったが、最終的にポツダム南西約7キロのシュヴィーロフゼーのヘニング・フォン・トレスコフ兵営に決定した。そこには、連邦軍の海外派遣を指揮する統合作戦司令部が置かれていた。その敷地内の、約4500平方メートルの森が当てられ、総工費約200万ユーロで建設された。

2014年11月15日に、ヨアヒム・ガウク大統領、フォン・デア・ライエン国防相らが列席して、開設式が挙行された。

「追憶の森」は、入口を入ると、全長150メートルの「追憶の道」がある。道の両側には、7つのフィールドグレーの石碑があり、連邦軍の十字架の下に、海外で殉職した兵士の名前、没年月日、任務地域が刻まれている。最初の名前は、1993年旧ユーゴスラビアで殉職したアレクサンダー・アルントである。

「追憶の道」の突き当りには「静寂の場」という広々としたホールがあり、周辺部に、5つの作戦地域から移送された「栄誉の木立」が再現されている。クンドゥズ、マザーリシャリフ(アフガニスタン)、プリズレン(コソボ)などである。親族が自らの希望に応じて植樹を行い、また植えられている樹木に適宜印をつけるなど、各々が思い思いの方法で追悼することができるように工夫されている。

入門については、一般には広く自由に公開はされていない。連邦軍の事前の許可が必要で、立ち入りに際しては、政府発行の身分証明書やパスポートと引き換えにパスが渡され、「追憶の森」までは兵士が同行する手続きになっている。

「追憶の森」に対しても、厳しい批判がなされた。ベルリンから約30キロという距離、「連邦軍栄誉の碑」と重複しており予算の無駄遣いといった批判のほかに、設置場所に象徴される趣旨や位置づけについても、異論が唱えられた。

アフガニスタンの任務に従事したW.ルッツは、殉職した兵士は、遠方に隠されるのではなく、ベルリンの連邦議会議事堂の前など中央で追悼されるべきであると主張した。一方、従軍牧師らは、宗教的なつながりが見られない点を問題視していた。また、自由な立ち入りを阻害する複雑な入門手続きなども批判されたのであった[9]。    

社会民主党のラインホルト・ロッベ(元連邦議会軍事委員長)は、「追憶の森」の設置場所は「恥ずべきもの」であるとしたうえで、首都の中心部の目立つ場所ではなく人里離れたところに設置したことは、「戦争の犠牲者を隠すことによって、彼らの尊厳を傷つけるのみならず、親族に対する平手打ちである」とまで言い放った。そして、これは、「ドイツにおける追憶文化の失敗を物語っている」と主張したのである。また、軍人のみならず、外交官、開発従事者などドイツのために命を落としたすべての人々を追悼する施設が必要であるとも語った[10]

おわりに

日本では、ドイツ連邦軍の殉職者に対する追悼をめぐっては、その海外派遣の問題点を指摘しつつ、批判的に言及する論調が目立った。特に、当時日本では安全保障法案が議論されていたため、自衛隊の海外活動を大幅に拡大させる懸念があるとの文脈において言及された。

例えば、「近未来からの警告 積極的平和主義の先に」と題した連載ではドイツの現状を取り上げ、「支援任務『戦死』隠す国」と批判した記事において、「追憶の森」を参照しつつ、「近い将来、日本にも同様の施設が造られることにならないだろうか」と指摘されたのである[11]

一方、ドイツでは、本論で考察してきた通り、反戦・平和ではなく、ドイツ連邦軍の追悼を認めたうえで、その方法、場所をめぐって議論がなされた。ドイツの識者は、以下のように指摘している[12]

「ドイツという国は、国家として派遣命令を出したにもかかわらず、任務中に犠牲になった兵士を、森の中ではなく首都の真ん中で追悼することを躊躇しており、それを受け入れるにはまだ時間が必要である。ただ、この点は変えなければならない」

ドイツにおける連邦軍の殉職兵士の追悼をめぐる論点の第一は、設置場所である。連邦軍の海外派遣に連邦議会は特別な責任を有しているとの観点から、国防省や連邦軍施設内ではなく、連邦議会議事堂付近にすべきであるとの議論である。

2020年には、連邦議会の国防委員会会議室前に、海外派遣中に死亡した連邦軍兵士の記念碑が建てられた。しかし、鉄の壁に取り付けられた黒いブロック上の電子式名簿の記念碑は、ほとんど誰にも気づかれず不適切であるといった声も聴かれたのであった[13]

第二に追悼対象の範囲で、軍人に限定するか、公的に殉職した人々にまで広げるべきか否かである。すなわち、海外で亡くなった外交官、警察官や人道支援に従事していた民間人も含めるべきであるといった主張が強くなされた。このことは、軍人のアイデンティティや任務の特殊性とも関わる、本質的な問題であった。

第三に、慰霊碑へのアクセスと公開性の問題である。一般人でも自由に訪問できる場所・手続きにすべきか、一定の制限を設けるべきか否かの点である。設置場所と追悼範囲の問題と密接に関連すると同時に、他方個人を静かに弔いたいという遺族の心情があり、「公共性」と「個人の心情」の調和の難しさを指摘することができる。

加えて、追悼の連続性と断絶の問題がある。一般に諸外国では、アーリントン墓地(米国)、セノタフ(英国)、「無名戦士の墓」(フランス)、などに象徴されるように、歴史的連続性を踏まえ一体化して追悼がなされている。

ドイツでは、ノイエ・ヴァッヘの建立により、国防軍をはじめとする第二次世界大戦までの戦没兵士は追悼の対象となったが、戦後の連邦軍は、除外されていた。そのため、連邦軍の殉職者に対する統一的な中央の追悼施設は、長い間存在しなかったが、アフガニスタンへの派遣を経て、漸く2009年9月に「連邦軍栄誉の碑」、2014年11月には、「追憶の森」が落成した。いずれにしても、戦前と戦後では断絶が見られるのである。

本稿①及び②で見てきたように、ドイツは現在でも、第二次世界大戦とアフガニスタン派遣という二つの「戦争」における戦没・殉職兵士の追悼に苦悩しているのである。

一方日本では、1962年、警察予備隊創設以降の殉職者を対象とした「自衛隊殉職者慰霊碑」が市ヶ谷の自衛隊敷地内に建立され、1998年9月、「メモリアルゾーン」に移設され、現在にいたっている。

ジャーナリストの三好範英は、ドイでの追悼施設に言及しつつ、日本の問題について、以下のように述べている[14]

「ただ、自衛隊海外派遣がこれまで以上に活発化し、不幸にも海外での活動で、自衛隊員の犠牲者が出た場合、この殉職者慰霊碑(注:市ヶ谷のメモリアルゾーンにある「自衛隊殉職者慰霊碑」)での式典だけでよいのか、国民に開かれた場や形式での追悼は必要ではないか、そうした議論が起きてくることも予想される。・・・日本としてもドイツのケースは、今後も十分注視に値するであろう」

もちろん、日独両国の歴史的歩みや置かれた環境は大きく異なっており、安易に比較することはできないが、将来的に日本にとって参考になる点があるのではないだろうか。

Profile

  • 庄司 潤一郎
  • 戦史研究センター戦史研究室主任研究官
  • 専門分野:
    近代日本軍事・外交史、歴史認識