NIDSコメンタリー 第296号 2024年1月30日 ドイツにおける戦没・殉職兵士追悼①——ドイツ国防軍を対象として

戦史研究センター戦史研究室主任研究官
庄司 潤一郎

はじめに

昨年10月21日、令和5年度の自衛隊殉職隊員追悼式が岸田文雄首相、木原稔防衛相らが参列して挙行された。同追悼式は、昭和32年から行われているが、今回は特別な追悼式となった。新たに名簿を奉納された26人の隊員のなかに、第8師団長の坂本雄一陸将が含まれていたからである。4月、着任後の視察で宮古島の上空をヘリコプターで飛行中に事故に遭遇し、坂本師団長を含む10人が殉職したのであった。これは、自衛隊の歴史において初めての経験であり、改めて、殉職した隊員の「名誉」の問題を考える契機になったと思われる。

一方、大東亜戦争に対する日本の戦没兵士に対する追悼をめぐっては、首相の靖国神社参拝をめぐって国内外で政治問題化することが物語るように、今でも議論が続いている。

そこで、第二次世界大戦において日本と同様に敗戦国であったドイツの戦没・殉職兵士に対する処遇について考えてみたい。日独両国は、軍事・安全保障の組織面において、敗北と戦争中の「負の遺産」故に、諸外国と異なり、日本では旧陸海軍と自衛隊、ドイツでは国防軍と連邦軍というように、戦前と戦後では「断絶」が見られる。

そのため、第二次世界大戦と戦後の殉職軍人・隊員に対する追悼も、別個になされている。一方諸外国では、歴史的連続を踏まえ一体化して扱われている。例えば、アーリントン墓地では、南北戦争以降現在にいたるまでの戦没兵士を対象としている。

本稿では、先ず第二次世界大戦におけるドイツの戦没兵士に対する追悼の問題を対象とする[1]

戦後ドイツにおける戦没兵士の追悼

ドイツは第二次世界大戦において、軍人だけで約350万人から400万人が戦没したといわれる。全国に約1万2000カ所の戦没者墓地があり、街角や教会などで、普仏戦争、そして両世界大戦の戦没者に対する追悼・慰霊、なかには祖国のために倒れた英雄として顕彰するための碑を散見することができる。

しかし、日本と同様に、侵略と敗北という歴史故に、第二次世界大戦で死んだドイツ人戦没兵士の追悼を目的とする国立の中央追悼施設が長い間設置されず、これまで種々の議論がなされてきた。

戦後当初、西ドイツにおいて、国家儀典のための中央追悼施設として実質的に機能してきたのは、1964年ボンのホフガルテンにあるアカデミー美術館脇に設置された十字架とブロンズの碑であった。そこには、「戦争と暴力支配の犠牲者のために」と刻印されており、「戦争と暴力支配」という曖昧な言い回しにはドイツ人戦没兵士をも含み、分け隔てなく両大戦とナチス支配のすべての犠牲者を対象としていた。

1980年に碑がボン北墓地内の戦没者墓地に移されたことにともない、同墓地には両大戦の戦没兵士をはじめ、一般市民の空襲犠牲者、強制労働により死んだソ連人、さらに武装親衛隊員など、2000人を超える人々が埋葬されていたため、追悼対象は「加害者」まで広がっていった。しかし、規模的には、アーリントン墓地など諸外国の追悼施設には遠く及ばないものであった[2]

中央追悼施設の模索

1980年代当初より、ドイツ連邦政府は、ライン河畔の連邦議事堂近くの政府地区に、国家中央追悼施設を設置する検討に入った。1981年5月には、ヘルムート・シュミット首相は、第三帝国の失敗と犯罪の結果死んだ人々、すなわち刑務所、強制収容所、また第二次世界大戦において空襲や前線で死んだドイツ人などに対する追悼の施設を設置すべきであるとの提案を行ったが、これまでの、すべての犠牲者を同一に対象とする考え方を受け継ぎ、より明確にしたものであった。

加害があまりにも大きすぎたドイツでは、ドイツ人戦没兵士のみを対象とするのではなく、「全犠牲者一括モデル」(“all-victims-together-model”)と称されるすべての「犠牲者」を一括して追悼する方式が採られ、それが基調となっていった[3]

シュミットの後を継いだヘルムート・コール首相は、1983年11月の「国民追悼の日」に、これまでの対象に加え、人種差別、さらにテロリズムによる犠牲者をも考慮した、極めて広範な「戦争と暴力支配」の犠牲者を追悼する施設を提案した。1985年3月、連邦政府は、このラインに沿って議論を行うことを決定したが、設置の是非、追悼の対象、被害者と加害者の同一視、戦争責任などの問題をめぐって激しい論争がなされ、与野党間においてコンセンサスは得られず、1986年5月断念するにいたった。

反対は、特に反ナチ運動の関係者からなされ、抵抗運動やガス室で殺されたユダヤ人と親衛隊員をひとまとめにするような施設は理解し得ないと主張した。緑の党は、ナチスの非人道的な犯罪による犠牲者と加害者とを同一視する危険があり、ドイツに国立の追悼施設は必要としないと批判したのであった[4]

ノイエ・ヴァッヘの設置

ノイエ・ヴァッヘは、ベルリン中心部を東西に横断するウンター・デン・リンデン通りの北側に沿って、フンボルト大学の脇に立つ古代ギリシャ風の小さな建物である。1816年と1818年の間に、有名な建築家フリードリヒ・シンケルによって、ナポレオンに対するロシアの勝利を記念して、王宮を警護する衛兵の新たな詰所として造られた。ノイエ・ヴァッヘ(「新たな衛兵所」)という名の由来も、そこにある。

ワイマール共和国において、第一次世界大戦の戦没兵士追悼所として改築され、第二次世界大戦勃発後は、ナチズム運動によって倒れた「同志」に加え、同大戦の戦没兵士も対象となっていった。戦後は、東ドイツによって、1960年「ファシズムと軍国主義の犠牲者のため」の追悼施設となり、建物の前には常時衛兵が立ち、バッキンガム宮殿やレーニン廟のような衛兵交代式は観光客にも有名であった。

ドイツ統一後、このノイエ・ヴァッヘを国立の中央追悼施設として改装することが改めて検討され、1993年1月には、閣議決定により、「戦争と暴力支配の犠牲者のためのドイツ連邦共和国中央追悼施設」として、公式の中央追悼施設とすることが決定された。

統一後急速に設置された背景には、コール首相の強い意向があった。コールは、ドイツは、諸外国のように、外国の国賓などが訪問すべき戦没者追悼施設を有していないが、それは国家の威厳に関わる問題であり、ドイツが「普通の国」になるためにも、長年の懸案であった新たな中央追悼施設を建立しなければならないとの信念であった[5]

しかし、ノイエ・ヴァッヘは、前述した軍事的・政治的伝統から、その選択自体にも問題を孕んでいたが、コール首相の抱いていた追悼施設のコンセプトが論議に拍車をかけた。戦没兵士と他の犠牲者の隔てをなくし、ひとくくりに同等に追悼することを企図していたコールは、新たなノイエ・ヴァッヘを、ドイツ統一の象徴として建物に刻まれたドイツの名誉ある歴史とともに、「犠牲者」を一つのカテゴリーに統合する場としたのであった[6]

ノイエ・ヴァッヘの中身

建物の中央には、女流彫刻家ケーテ・コルヴィッツの「死んだ息子をだく母親像」の拡大したレプリカが安置されている。

ノイエ・ヴァッヘの床には、「戦争と暴力支配のために」と刻印されていた。歴史家のラインハルト・コゼレックは、ドイツ語においては、Opfer(「犠牲」)という言葉は、英語でいう“Victim”(「犠牲」)と“Sacrifice”(「献身」)の両方の意味を有しているのと同様に、新たなノイエ・ヴァッヘは、「犠牲」と「献身」の両方の意味を持っており、戦争や殺戮の犠牲者と戦死という自発的かつ積極的行動の結果とを同一視していると指摘した。さらに、在独ユダヤ人中央協議会議長のイグナツ・ブービスは、こういった傾向をユダヤ人の犠牲の過小評価であると批判していたのである[7]

ユダヤ人団体及び連邦議会における批判を受けて、ブービスとの間で協議がなされ、コール政権は妥協して、入口に、ユダヤ人の犠牲を明記した二つの銅製の額を取り付けることでとりあえず合意に達した。左の額には建物の歴史、右の額には追悼される犠牲者が、「ノイエ・ヴァッヘは戦争と暴力支配の犠牲者を記憶し追悼する場所である」との銘文のもと、具体的に記されていた。それは、以下の通りである。

1)戦争を通して苦しんだ諸民族、2)世界大戦における戦没者、3)戦争及び戦争の直後、故郷において、捕虜として、「追放」により死んだ罪なき人々、4)殺害された数百万人のユダヤ人、シンティ・ロマ、同性愛者など、5)宗教・政治的信念のために死んだ人々、6)暴力支配に抵抗し命を犠牲にした抵抗運動家、7)1945年以降の「全体主義的独裁」に抵抗したため、迫害され殺害された犠牲者

冒頭に言及されている「戦争を通して苦しんだ諸民族」、「世界大戦における戦没者」との表現には、国籍、民族などが明示されていない。したがって、ドイツの関わった戦争すべての戦没者、すなわちドイツ及びドイツと戦った敵国の軍人・軍属はもちろん、ドイツとは直接関係のない日本軍兵士や原爆をはじめとする日本の一般の戦災死没者も含まれることになる。一方、PKOなどによるドイツ連邦軍の死亡者は、戦争や「暴力支配」によらないため含まれないとされる。

いずれにしても、両大戦のドイツ人戦没者も含まれることになった。特に、第二次世界大戦の戦没兵士が、戦後公的に追悼される最初の例であり、画期的なものであった。

他方、「戦争と暴力支配」という表現で一括してすべての死者を「犠牲者」と見做す考え方は、戦争に対する責任を明確にするのではなく、むしろ地震などの自然災害の犠牲者を追悼するようなもので、その結果万人が犠牲者足り得るとの指摘もなされた。コゼレックは、「コール(首相)は、第三帝国を、それが去ったあとに犠牲を残した外部に存在した暴力と見做している。戦争や暴力は交通事故のようなもので、誰も望まなかったものなのか。そうであれば、すべての人が犠牲者なのか」と疑問を投げかけていた[8]

その後のノイエ・ヴァッヘ

いずれにしても、ブービスとの間で一応の妥協は成り立ったものの、依然として不満は残っていた。1993年11月14日の「国民追悼の日」に、ノイエ・ヴァッヘは除幕式を迎え、リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー大統領、コール首相ら三権の長が出席したが、多くのユダヤ人の代表は、ブービスは参加したものの、抗議の意思を表明して出席を拒否したのであった。会場の外では、「ドイツ人加害者や軍人は犠牲者ではない」、「加害者と被害者の区別がなくなってしまう」などのプラカードを持ったユダヤ人や左翼のデモが行われた[9]

現在ノイエ・ヴァッヘは、毎年「国民追悼の日」に、大統領、首相、連邦議会議長などが列席して、献花などの政府主催の式典が行われるとともに、外国元首訪独に際しても献花がなされている。一方、元軍人の団体からは、追悼はドイツの戦没兵士に限定されるべきとの批判がなされ、ネオナチなどの極右勢力は、「英雄追悼の日」と称して、警察と衝突する事件も起きた。

おわりに

ノイエ・ヴァッヘをめぐって、日本では評価する見解が散見され、新追悼施設を検討した内閣の私的諮問機関「追悼・平和祈念のための記念碑等施設の在り方を考える懇談会」や参議院など国会においても、理想像として紹介された。

対照的に、外国では問題点や課題が指摘されている。第一に、ドイツの目指した「全犠牲者一括モデル」は行き詰まったとの指摘である。

完成した記念碑の一帯では、子供たちがかくれんぼなど遊びに興じ、アベックが愛を語り合っている光景も見られ、ホロコーストを想起する場でないとの指摘もある。いずれにしても、別途ホロコースト記念碑を建立せねばならなかったことは、「戦争と暴力支配」の犠牲者として、ユダヤ人もドイツ人もともに犠牲者として追悼しようと試みたノイエ・ヴァッヘ構想の破綻を意味しているとの厳しい見解も見られる[10]

ハンブルク大学のペーター・ライフェル教授も、「加害者も被害者も一つの国家的慰霊碑に、という試みは失敗した」と述べているのである[11]

ちなみに、2005(平成7)年6月に、沖縄の摩文仁に建立された「平和の礎」は、日本軍兵士だけではなく、国籍を問わず沖縄戦で亡くなった米兵、県民(満州事変以降の沖縄出身の戦没兵士を含む)、朝鮮半島からの労働者などすべての人々の名前が刻まれ、哀悼の意が表されている。14000人に及ぶ敵国軍人の名を刻む記念碑は世界でも例がなく、日本では初めてのケースであるが、ドイツのノイエ・ヴァッヘと同様に、「加害者」と「被害者」を同一視することへの懸念が一部で見られた。

第二に、追悼(施設)をめぐる「政治」と「心」の難しい関係である。すなわち、儀典など「制度」を重んじるのか、国民の「感情」を優先させるのか、個々人の「心」とも関連した複雑な問題であり、両立は容易ではないだろう。

コール首相の強い政治指導により、戦後初の公的な中央追悼施設が設置され、ドイツにとり永年の宿願は達成されたものの、国民的コンセンサスはなく、追悼対象を包括的にひとくくりにした結果、外国の犠牲者はもちろん、ドイツ国民からも遊離したものとなってしまったのである。

普段は、外国人観光客が好奇心でのぞき込むだけで、多くのドイツ人は戦没者追悼の場として別の施設の必要性を感じているのが実情であり、統一後のコール政権は、過去の政権と同様に、ノイエ・ヴァッヘを敬われるのではなく、むしろ重荷となる国立の追悼施設としてしまったとも指摘されたのであった[12]

さらに、ノイエ・ヴァッヘに対する批判への妥協としてホロコースト記念碑を建てた点も、「歴史」より「便宜主義と取引」といった政治の所産であるとも指摘された[13]

日本では、福田康夫内閣が平成13(2001)年、私的諮問機関である「追悼・平和祈念のための記念碑等施設の在り方を考える懇談会」を発足させ、翌14年12月に提出された報告書では、国立の無宗教の追悼・平和祈念施設が必要と指摘されていた。しかし、その後、そのための調査費の計上は見送られ、現在では凍結された状況が続いている。

Profile

  • 庄司 潤一郎
  • 戦史研究センター戦史研究室主任研究官
  • 専門分野:
    近代日本軍事 · 政治外交史、歴史認識問題