NIDSコメンタリー 第277号 2023年10月5日 海上自衛隊航空基地の成り立ち(全2回)——前編 鹿屋航空基地

戦史研究センター 安全保障政策史研究室
工藤 亜矢

はじめに

1945年の終戦により陸軍省及び海軍省が解体された後、旧陸海軍人は時おかずして再軍備検討を始めた。特に厚生省第二復員局残務処理部の旧海軍人メンバーによる研究が、後の海上自衛隊の前身である海上警備隊創設の切っ掛けとなったことはよく知られている[1]。彼らは研究の当初から海軍により運用される航空軍備の必要性を訴えており、そのために全国の旧陸海軍の航空基地の状況をリストアップしていた[2]

1952年4月に海上保安庁内に発足した海上警備隊(同年8月保安庁に統合され警備隊)もまだ航空機を保有していなかったが、発足当初から航空部隊の整備に着手する計画であり[3]、警備隊となった後の1952年度補正予算でついに回転翼機9機の予算が認められる[4]。この最初の回転翼機は、重要港湾(東京湾)の入り口で航路の集束地であるという理由で千葉県の館山航空基地に装備された[5]。その後、警備隊は回転翼機だけでなく固定翼機も装備するようになり、1954年の海上自衛隊発足以降も全国に航空基地を整備していくこととなる。

旧軍は終戦時に基地を失い、その多くは米軍が使用しあるいは民間に払い下げられることになったが、長い占領の時期を経て改めて航空部隊を全国に展開しようとした際、どのような調整や問題に直面したのだろうか。本稿は、そうした観点で草創期における海上自衛隊の航空基地の成立経緯について取り上げたものである。特に長大な滑走路を必要とする大型固定翼哨戒機のために整備された、鹿屋航空基地と下総航空基地の二つについて、どのような経緯で海上自衛隊の航空基地となったのかを見ていく。なお、本稿は前、後編の2回に分け、前編の今回は鹿屋航空基地を、後編は下総航空基地を見ていくことにしたい。

自治体の誘致と鹿屋航空隊

鹿児島県にある鹿屋航空基地は海上自衛隊がまだ警備隊であった1953年12月に、館山に次いで二番目に開隊した航空基地である。開隊当初はビーチクラフト社のメンター2機の配備であったが、現在は哨戒機運用部隊の第1航空群などが所在する海上自衛隊の重要な航空基地の一つである。当地は元々、旧海軍の航空基地があった場所で終戦時に米軍に接収されて第5空軍が駐留し、その後接収が解除されて1948年4月からは大蔵省南九州財務局の管理、1950年12月からは警察予備隊の駐屯地として使用されるに至った[6]

『海上自衛隊二十五年史』によれば、警備隊は固定翼機用の最初の基地としてはできるだけ中央に近い場所とする方針であり、大阪の大正飛行場を検討していた[7]。そのような中、1953年2月に元衆議院議員で鹿屋市長も務めた永田良吉が保安庁第二幕僚監部(以下、「二幕」と記す。)を訪れ、「鹿屋基地は海軍が建設した由緒ある処であり、海上航空が再建されるのであれば第一番に鹿屋を選んで貰いたい。保安隊の陸上部隊に飛行場を使用させるとは何事ぞ」と述べたという。当時、二幕総務課で勤務していた元呉地方総監の香取穎男が回想している[8]

永田は早くから航空機の有用性に着目し、鹿屋へ海軍航空隊を誘致した張本人でもある。永田が鹿児島県議会議員であった1922年、彼の尽力で町営の笠野原飛行場が開かれ、そこに地域活性のために航空隊を誘致しようと永田自身が各方面に働きかけたことが海軍鹿屋航空隊の開隊の切っ掛けとなった。永田が衆議院議員となった後の1936年に、海軍が笠野原から西方にある現在の場所に土地を選定し基地を開設したのである[9]

1933年7月7日の朝、地主も知らぬ間に測量されてすぐに土地買収委員が土地を買い上げたという。相場より安い金額で土地を売却することになった農家は新しい耕地を買うこともできなかったが、飛行場建設の日雇いや、海軍工廠が出来た後にそこで働くなどして、兼業農家になったとのことだ[10]。1936年5月の航空隊誕生の祝賀式の日には地元住民が日の丸の小旗を振って「鹿屋航空隊を祝う歌」を歌い、基地開設の前後には地元の大隅鉄道は国営となり、更に上下水道も完成、観光団も急増するなど、鹿屋は「燃え立つような新興気分」であった[11]。永田は自身の飛行機好きもあるが、長年飛行場による地域活性化の構想を描いており、この時に一度その実が結ばれたと言える。その鹿屋基地は前述のとおり終戦後米第5空軍が進駐したが、1948年3月に5空軍が移駐した後は市街も火が消えたような寂しさとなり、当時公職追放の身であった永田が鹿屋市長の田平藤一に働きかけ、今度は警察予備隊を誘致した。

1961年に刊行された永田の伝記『永田良吉伝』へ当時の防衛庁長官赤城宗徳が寄せた「序文」には、永田について「(昭和)28年に航空隊設置の議起こるや、率先誘致に奔走されましたことは、今なお、我々の記憶にあらたなところ」とあり、永田が警察予備隊の誘致のみならず警備隊の設立間もない頃から鹿屋への積極的な警備隊の航空隊誘致を行っていたことが分かる[12]。なお、永田が旧軍航空隊の誘致を行っていた1923年頃、当初は同郷の先輩を頼って陸軍と交渉していたが遅々として進まず、挙句は大喧嘩になり「陸軍には頼まんぞ」と捨て台詞を残した後、海軍との交渉に至ったという。永田自身、「海軍のわかりのよいのには真にうれしいでした(ママ)」と語っているが[13]、こうしたエピソードを知ると香取の回想にある「保安隊の陸上部隊に飛行場を使用させるとは何事ぞ」との発言も少し頷ける。鹿屋に駐屯した警察予備隊は、保安隊となり陸上自衛隊となった後の1955年に鹿児島県国分市へと移駐した。

警備隊の鹿屋航空隊開隊に関しては、『海上自衛隊二十五年史』には鹿屋市民の歓迎と、鹿児島県や関係各部の積極的な協力があったと記載されている。また、当時の新聞も「市民は好むと好まざるとにかかわらず、いままた保安隊と警備隊の陸海防衛力を擁して旧軍都の夢を追っている」と報じており[14]、そこには市民の基地に対する「負」の感情はほとんど感じられない。鹿屋市が発行する『鹿屋市史』においては、鹿屋市街地の住民が自衛隊を歓迎した半面、飛行場付近の住民からは反対の声や騒音公害等を訴える声が高まったとあるものの数行程度の記載にとどまり、「しかし伝統に輝くこの飛行場は、再び飛行機に掩われて行くのである。」と続く[15]

P2V-7供与に向けて

こうして1953年12月に開隊した鹿屋航空基地であるが、1955年3月から同年末にかけて滑走路拡張工事が行われている[16]。開隊間もない鹿屋航空基地の施設は旧海軍時代に建設されたままのもので、滑走路にはうねりがあり、誘導路は傷んで砂利がむき出しで、配備されたメンターのプロペラが砂利で傷つくこともあったという[17]。しかし開隊約2年後には拡張工事の結果、滑走路の長さ耐荷重とも当時の日本で第1級と呼べる飛行場となる。海上自衛隊は鹿屋基地以降、1956年の大湊及び大村、その翌年に八戸と次々に航空基地を整備していくが、これらの新規航空基地の整備より優先して鹿屋の滑走路拡張を行った理由は、米国から供与される当時最新鋭の対潜哨戒機と言われたP2V-7の受入れのためであった。

警備隊が海上自衛隊となる直前の1954年6月、二幕は「MSA援助に関連する米側意図の判断並びにこれに応ずる警備隊業務計画の改定要領について」という文書を作成している。当該文書は、日米相互防衛援助協定[18]による米側支援を最大限に引き出すために、警備隊の1954年度以降の業務計画を米側の意図を汲んだ内容に修正するべきとの方針をうたったものである。その文書内でP2V-7関係個所を概略記述すると以下のような趣旨になる。なお、資料内ではただ「P2V」と記載されているが、「最新鋭」とされていることから「P2V-7」であると推察できる。

①1955年度初頭にP2Vが供与されることが確定したので必要な基地施設を整備するよう、54年度業務計画を改訂する、②米側がこの最新鋭を譲渡してくれることは有難いことであり、受け入れ態勢には万全を期さねばならない、③米海軍が対潜航空兵力としてP2Vを考えているにもかかわらず、日本の基地施設の現状が困難であるので、米側は日本側に基地整備を急ぐよう希望している[19]

この件に関し『海上自衛隊二十五年史』では、警備隊が米側の援助を受けるに際し、在日軍事援助顧問団(Military Assistance Advisory Group Japan:MAAGJ)に最新鋭のP2V-7の供与を要請したところ、1954年3月にMAAGJから連絡があり、日本には受け入れられる基地がないので差し当たり別の機種(PV2)を供与すると回答があったと記載されている。二幕はなるべく早期にP2V-7の供与を得るために、鹿屋航空基地をP2V-7用に整備する方針を固めて保安庁の承認を得て、これをMAAGJに伝えた[20]。1953年に館山、鹿屋と立て続けに基地が開設された後、次の航空基地が大湊に開設されるまで約2年のブランクがあるが、その間にこの滑走路拡張工事がなされており、当時の海上自衛隊が何よりも最新鋭の哨戒機の取得を優先させていたことが分かる。

先に述べた「MSA援助に関連する米側意図の判断並びにこれに応ずる警備隊業務計画の改定要領について」には、米海軍が「日本の主要海上交通路を有効に掩護するためには太平洋沿岸に数個の海軍用航空基地を整備するべきであって、その位置及び数量は日本側で決定すべき問題である」との見解を示していると記載されており、こうした米海軍の見解が海上自衛隊の航空基地の整備に何らかの影響を与えていたことは想像に易い。加えて鹿屋の滑走路拡張には、より直接的に米海軍がその建設の推進に関与していた可能性を示す証言もあった。

元海上自衛隊幹部学校長の鈴木英は、1955年の初めから「FTG」と称された作業がなされていたと回想している。FTGとは協同企画グループ(Free Talking Group、日米の防衛協力のために組織された自衛隊各幕レベルのグループ)のことではないかと考えられるが[21]、鈴木はその検討作業の中身において「在日米軍の任務としていざとなった時アメリカに友好を持った政府を残すこと」「そのために関東地区の主、それから九州の南半分、という2つの目標があがっていました」と続けている[22]

鈴木によれば1955年当時、FTGの基本的作戦として米側から提示された計画の中に九州の南半分を目標としたものがあり、鹿屋はその圏内に入っているために立派な飛行場を造ることに「米側が同意する」と示したと述べている。それらが「公文書には残されていない」と前置きした上で、鈴木は「要するに前線を下げても又、取り返すという作戦ですね。沖縄から飛んできてね。そのためにも鹿屋地区には立派な飛行場を造れということでした」と続けている。日本の有事を想定した日米共同作戦計画案の策定作業の中で、既に鹿屋基地が日本の防衛上重要な基地として位置付けられていたことが分かる証言である。

おわりに

先に述べた永田良吉は後に、「自衛隊の飛行機は騒音じゃなくて、金をばらまいていると思えばよか」「今の航空隊、あれはいくさ道具ではない。毎日街に出て金を落とすからドル箱よ」と語っており[23]、財政にあえぐ鹿屋市の浮揚策を、過去に一度実現した航空隊によるものに期待していた。当時の地方財政への自衛隊の期待に関しては、元防衛事務次官の加藤陽三も警察予備隊設置当時の1950年代初頭を振り返り、戦後の不況の中にあって全国各地からの部隊誘致を断るのに大変苦労したと述べている[24]。まさに鹿屋もその一つであったと言えるが、その後の経済発展とともに状況は一変する。元々、旧陸海軍基地の跡地は終戦時に接収した米軍の使用状況を考慮する必要があったうえ、地方開発との競合もあり、基地構想は困難を極めることとなった。前述の加藤は自身が官房長となった1960年代前半が「丁度基地問題が一番難しくなった時代」とも述べており、いずれの基地も周辺の整備事業や補償に相当の予算を支出して対応したという[25]

次回、後編は千葉県の下総航空基地について述べる。下総航空基地が海上自衛隊の航空基地として開隊したのは1962年、加藤の言う「基地問題が一番難しくなった時代」に整備された航空基地である。

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    海上自衛隊史