NIDSコメンタリー 第264号 2023年7月6日 ストックホルム発・ヤルタ緊急電は東京に届いたのか——「小野寺情報」をめぐる研究動向とMAGIC 文書からの考察

戦史研究センター主任研究官
清水 亮太郎

はじめに

小野寺信(おのでらまこと・元陸軍少将)は、第二次世界大戦中、中立国スウェーデン・ストックホル厶において駐在陸軍武官として、米英ソ三国首脳会談におけるヤルタ密約――ドイツ降伏後3か月後にソ連が日ソ中立条約を破棄して対日参戦するという情報――を日本本国に伝えながらも、貴重な情報を本国政府に無視された、悲劇の情報将校というイメージが定着している人物である。1945年2 月後半にもたらされたこの情報が無視されたため、すでに対日参戦を決意していたソ連に和平仲介交渉を持ちかけ、8 月9 日には満洲に対するソ連の侵攻を招いたとされる。しかし、小野寺が送ったとされるヤルタ密約を伝える電報が、連合国側による傍受解読記録を含め、現在まで発見されていないことから、大本営における「握りつぶし」を含め、「小野寺情報」をめぐって様々な問題提起がなされてきた。本稿では、ヤルタ密約と小野寺情報をめぐる研究状況を概観、検討を加えたうえ、若干の考察を提示したい。

1 ヤルタ会談における密約

1945年2 月4 日から11日の日程で開かれたヤルタ会談は、フランクリン・ローズヴェルト、ウィンストン・チャーチル、ヨシフ・スターリンの米国、英国、ソ連の三大国の指導者が一堂に会し、最終盤を迎えた第二次世界大戦の終結に関する連合国の戦略を調整、決定した機会であった。主たる議題はポーランド政府の形態の問題と対日本戦略であり、後者の極東問題に関しては、スターリンはすでに1943年11月のテヘラン会談において、ドイツ敗北後、対日戦争に参加する意向を表明し、さらに44年10月、米国の駐ソ大使ハリマンとの間で、地上軍による満洲に対する侵攻計画の全般的計画について説明していた。しかし、ヤルタにおいてはじめて文書によって、ドイツ降伏後2か月または3か月を準備期間として対日参戦を約束したのであった。

参戦の政治的条件として、ソ連は南樺太及びそれに隣接する島嶼の「返還」、千島諸島の「引き渡し」、日本の支配下にあった遼東半島先端部の大連港の国際化、旅順港の租借権の回復などを要求した。軍事面では、ローズヴェルト大統領は、米統合参謀本部の要求にもとづき、ソ連軍による満洲への全面的侵攻、沿海州に戦略空軍(陸上機)基地の設置を求め、2 月8 日、ローズヴェルト、スターリンの2人の会談で合意を見たのであった。

当時、日ソ両国間には、1941年4 月締結の日ソ中立条約が有効であったため、ソ連が米英側に与して参戦することは、戦局を決定的に左右する極めて重要な情報であった。当時、中立国スウェーデンの首府ストックホルムに日本公使館付陸軍武官として駐在していた小野寺信は、この日本にとって、死活的に重要な情報をいち早く把握し、日本に伝えたとされるのである。

小野寺は、1985年12月放送のNHK の番組『日米開戦不可ナリ:ストックホルム小野寺大佐発至急電』において、ヤルタ会談の直後、在ロンドンのポーランドの情報機関からストックホルムのポーランド公使館付武官を経由して提供された、「ソ連はドイツ降伏後3か月を準備期間として対日参戦する予定なり」(番組内ナレーション)という情報を東京に送ったにもかかわらず、東京からは「何の反応もなし」(小野寺自身の発話)だったとの証言を行った。

小野寺が証言に踏み切った理由は、1983年にある書籍を通じて佐藤尚武元駐ソ大使の「不覚にも日本側として私も東京もこの事実を知らず、終戦後に至って密約の存在を知った」との回想を読み、「わたしの情報が上層部に伝達されていなかった事実をはじめて知って愕然とした」ことがあった[1]

さらに小野寺の没後、1993年8 月、百合子夫人は、新聞社の取材に対し、ヤルタ密約に関する「情報が入ったのは2月半ば。小野寺のラトビア・リガ駐在時代の武官仲間で、当時スウェーデン駐在武官だったポーランド人のフェリックス・ブルジェスクウィンスキーから、『英国のポーランド亡命政府から入った情報』としてもたらされた。内容は『ソ連はドイツの降伏後3か月後を準備期間として対日参戦するという密約ができた』。小野寺は『これは大変な内容だ』と驚き、ただちに百合子夫人に特別な使い捨ての乱数表(ワンタイムパッド)を用いて暗号化させ、東京に電報した、という証言を行った[2]

これら小野寺夫妻の証言により、悲劇の情報将校という小野寺像が生まれ、小説、テレビドラマなどにより再生産されていった[3]。しかし、旧陸軍関係者からは、にわかに脚光を浴びた夫妻に懐疑的な見方をするものも存在した。2000年前後には、米国における旧ナチスドイツ・日本帝国戦争犯罪情報公開法の成立を受け、情報機関CIA が保有していた小野寺関係のファイルが機密指定解除、公開され、連合国側が、小野寺に対してインテリジェンス・オフィサーとして高い評価を与えていたことが明らかになった[4]

2 新資料にもとづく研究の進展

2012年、岡部伸氏は、小野寺の遺族から資料提供を受け、浩瀚な評伝『消えたヤルタ密約緊急電:情報士官・小野寺信の孤独な戦い』を発表した。同書は、青年期から晩年にいたるまで、小野寺の生涯に即して、日中戦争、太平洋戦争時の事績をバランスよく読みやすい筆致で記述したもので、小野寺に関心を持つものがまず手に取るべき書物である。ヤルタ密約に関しては、岡部氏は、イギリスに保管されていた小野寺関連の資料調査を中心に、複数の状況証拠から、小野寺がヤルタ密約を日本に伝えていたことの証明を試みた。

ヤルタ密約に関する小野寺情報について、まず岡部氏が発見したのは、ドイツ外務省が全大公使館に送信した回覧電報(サーキュラー)であった。岡部氏によれば、そこにはヤルタ会談の初日、「ソ連がついに対日政策を転換、つまり参戦を決めた」ことが記されていた[5]。ドイツ国防軍情報部(Abwehr)所属で、ストックホルムにおけるスター諜報員、カール・ハインツ・クレーマーと小野寺は、緊密に協力し、相互に情報を交換していたため、小野寺がポーランド情報部から得たヤルタ密約に関する情報がクレーマーを通じて、ドイツ外務省に流れたと推論したのである。

もう一つの岡部氏の発見は、当時の駐独日本大使大島浩の戦後の回想である。大島は、1958年、当時『大東亜戦争 戦史叢書』の編纂にあたっていた防衛庁戦史室の聞き取りに応じ、「昭和20年3月頃か、『ヤルタ会議(2 月)の結果、ロシヤ(ママ)が適当な時期に参戦する(対日)』と云うことをリ[リッベントロップ――筆者注(以下同様)]外相からの伝言として政務局長[外務次官に相当]が電話して河原参事官が受けた。其の後でリ外相は『ロシヤが参戦するかどうか自分は少いと思う』と云ったが大島は「参戦は周囲の事情であり得ることだと云った。上記の二つとも外務省に電報したが、もっと重要に取り扱ったら宜しかったと今悔やんでいる」との証言を残している[6]。この二つの状況証拠をもって、岡部氏は、小野寺の得たヤルタ密約情報が日本に伝達されていた――小野寺→クレーマー→ドイツ外務省→大島という経路で――と推定したのである。

以上の議論に対して、スウェーデンの日本研究者、バート・エドストローム氏は2021年刊の著書で異論を提起した。まず2 月14日のドイツ外務省発のサーキュラーであるが、そのイギリス公文書館にある原文の検討を行っている。エドストローム氏の著書から直訳する。

在ストックホルム・ドイツ公使館は9 日、次のように報告した。信頼できる代理人の報告:米国、英国、カナダ、ソ連の代表者の間で最終的なレンドリース[武器貸与]契約が締結された。それによると、ソ連は対日政策を原則的に変更する用意があると宣言した」 [中略] ワシントンだけでなくロンドンの外交筋からの情報によると、スターリンは現在開催中の三国会談の初日にロシアの日本政策の変更に同意を示した [中略] 英国政府はまずソ連と日本の間の通商関係、最後に外交関係の断絶が行われるだろうと見なしている[7]

岡部氏の議論とは異なり、上記の回覧電報においては、明確にソ連が「参戦を決めた」とも、「対日参戦に同意した」とも記されていない。その代わりに、文書には「ソ連は対日政策を原則的に変更する用意があると宣言した」、「スターリンはロシアの日本政策の変更に同意を示した」との慎重な記述がなされている。

つまり、ヤルタ会談の結果に関するドイツ外務省の報告は、ソ連が対日政策を原則的に変更することを約束したというにすぎず、政策変更の内容についてはいっさい言及されていない。イギリスの電文解読者たちは、この変更が、ソ連と日本との間の、まず商業的、次に外交的関係の中断(「断絶」)を意味するものであると、最善の推測を加えている。

さらにエドストローム氏は、クレーマーがベルリンに送った報告書をスウェーデン軍情報機関が傍受、解読した記録の分析を行った。スウェーデン情報機関は、枢軸側のクレーマー、小野寺を厳重な監視下に置いていたのである。ヤルタ会談に触れたクレーマーの報告は20通以上にのぼる。その情報源は、戦後に連合国側の尋問に対して行われたクレーマーの供述によれば、小野寺がスウェーデン参謀本部、外務省などから得た情報であった。

ヤルタ会談開催中の2 月8 日、クレーマーがドイツに送った報告は、「ソ連が対日政策を原則的に変更するとの宣言を行った後、米国、英国、カナダとソ連がレンドリース協定の締結に合意した。しかし、どのような形でソ連が戦争に参加するかは決まっていない。ワシントンおよびロンドンの外交筋の情報によれば、スターリンは会議初日に対日政策の原則的変更に同意した。米陸軍航空隊司令官のアーノルド将軍は、東シベリアに航空基地を設定する詳細な計画に関する議論を提起している。ロンドンは、まず日ソ間の通商関係、ついで外交関係の断絶を期待している」という内容であった[8]

これは、14日付のドイツ外務省発のサーキュラーの内容とほぼ完全に一致している。これらからエドストローム氏は、小野寺がポーランド情報部から得たと推論されていたヤルタ情報は、主としてスウェーデンの軍・外務省から得たもので、しかもソ連が対日政策を原則的に変更することに同意したというにすぎず、政策変更の内容を明示するものではなく、まして「参戦」の意図を明示したものではなかったと論じたのである。

3 MAGIC文書における大島電

先行研究において、小野寺がヤルタ密約に関する情報を送った状況証拠とされているのは、前節で検討した、①2 月14日付のドイツ外務省発のサーキュラー、そして②戦後の元駐独大使・大島浩による証言であった。

後者の大島証言について、検討してみたい。第二次世界大戦中、日本の在外公館が本国に送った暗号電報は、米英側によって傍受、解読され、「マジック」(MAGIC)情報として大統領、統合参謀本部、国務省などに回覧され、政策形成に活用されたことがよく知られている。とりわけ、ヒトラー、リッベントロップなど政権幹部と親密な関係を築いていた大島の駐独大使館からの傍受解読情報は、米英両国にとって最重要視され、のちに米国陸軍情報部の幹部が「私は戦争の歴史のすべてを通じて、大島の情報ほどに重要で価値のあるものを知らない」と回想したほどであった[9]

同時期のマジック情報を見ると、ヤルタ会談に関する情報は、確かにベルリンの大島大使から日本政府に、大島の証言通り二度、送られている。

まず、ヤルタ会談終了直後の2月15日、大島は、ドイツ外務次官グスタフ・シュテングラハトと会見し、ヤルタ会談についての情報を得た。大島の東京への報告によれば、シュテングラハトは、スウェーデンの情報源からのレポート("a report from Swedish source ”)を読みあげた。その内容は、①米国はレンドリース法を延長し、2月以降対ソ連物資援助を拡大することになった。②スターリンは対日政策を変更し、極東における航空基地を米英に使用させることに同意した、などの具体的な情報を提供するものであった[10][MDS, no.1063; 2/20/1945] 。

2 月19日には、大島はヨアヒム・リッベントロップ外相と会見している。リッベントロップは、ポーランド問題で米英首脳がルブリン政権を容認するなど、全体としてスターリンの勝利に終わったとのヤルタ会談に関する印象を述べた後、逆に大島に対して、日ソ中立条約更新に関する日本側の見通し、連合国が4月開催を予定しているサンフランシスコ会議が日ソ関係に及ぼす関係などにつき質問している[MDS, no. 1063; 2/21/1945] 。仮に、この会見の場でソ連の対日参戦が決定したという確定的な情報をドイツ側が大島に伝えていたならば、こうした問答が行われることはあり得ない。したがって、大島が、ドイツ外務省から伝達された、ヤルタ密約、とくにソ連参戦に関する確定的な情報を日本に送っていたとは考えられない。

小野寺がクレーマーに提供した(そしてドイツ外務省から大島に提供された)情報とは別の情報を、別のソース(ポーランド情報機関)から得て日本の参謀本部に伝えていた可能性は、完全に否定することはできない。

だが、(海軍)軍令部が作成していた「情況判断資料」には、2 月19日条に、「「ソ」聯は今直に対日宣戦布告等の急激なる政策の変更を行わざるも対独戦終了と共に東「ソ」に於る若干の陸上機基地を米国に貸与する件に関しては既に確約せり(在瑞陸軍武官)」との記載がある[11]

したがって、ヤルタ会談の内容について、ストックホルムの小野寺もまた、大島電と同様の内容を陸軍中央部宛に送っていたと考えられる。その情報ソースについては、小野寺夫妻の証言どおりロンドンの亡命ポーランド政府情報部であって、クレーマーに対して「スウェーデンの軍・外務省」と情報源を偽って伝えていた可能性は、理論的には否定されない。

しかし、いずれにしても、小野寺夫妻の証言どおりに、ヤルタ会談終了直後の2 月後半、小野寺がソ連の対日参戦に関する確報を伝えていた、ということはできない。というのは、マジック情報によれば、5 月7日、参謀本部ナンバー2の参謀次長(河辺虎四郎中将)がストックホルムとリスボンの陸軍武官に対して、ソ連が中立条約更新拒否の通告を行い、対日態度の硬化、極東への航空兵力増強の兆候があるので、ソ連の対日参戦の可能性を考慮し、警戒を求める訓令電報を送っているからである[MDS,no.1141, 5/10/1945][12]。つまり、ドイツ崩壊の5 月初旬の時点までに、ソ連参戦に関する確定的な情報は、スウェーデン、ポルトガルのいずれからも送られていなかったのである。

4 公然の秘密だったソ連参戦情報

元大本営参謀の堀栄三は、「ドイツ降伏後3ヶ月で対日攻勢に出る」と明言したことは、スウェーデン駐在の小野寺武官の「ブ情報」にもあったが、どうも大本営作戦課で握りつぶされていたようだ」と著書のなかで記している(本人がその情報を見たとは書いていない)[13]。日本陸軍のソ連専門家(元参謀本部ソ連課長)、林三郎は、小野寺夫妻の証言以前の1974年刊の著書のなかで、スターリンが「ドイツ降伏後三ヶ月後に対日参戦する旨を約束したとの情報を、我が参謀本部は本[ヤルタ]会談の直後頃に入手した」と記している。情報ソースについては、触れていない[14]。これらの記述が「握りつぶし」説の根拠となってきた。

しかし、林は1980年代末に行われたと思われる講演では、「確か暑くなりかかった頃、6月か7月に、スターリンがヤルタ会談において、ドイツ降伏3か月後に対日参戦をする約束をしたという情報を、私は確かに参謀本部で見ました」、しかしその頃の陸軍中央部では、このソ連の密約説を半信半疑に受け取っており、7月下旬に参謀本部ロシア課はソ連の対日参戦の時期を「夏秋の頃と、非常に幅をもたせた判断をしている」と証言している[15]。1974年刊の著書では、密約情報に接した時期をヤルタ会談直後頃としていたのが、80年代の講演では、「6月か7月」、情報源についても「小野寺電報ではありません。私の覚えているのは外務省の電報で、スペイン公使の須磨[弥吉郎]さんによる須磨電報です」と述べている。

2012年8 月、NHK が放送した『終戦:なぜ早く決められなかったのか』取材班とそれにリサーチャーとして協力した吉見直人氏は、スウェーデン以外の中立国の陸海軍武官からソ連の対日戦参加に関する情報が送られていたことを明らかにした。1945年5 月、スイス・ベルンの海軍武官から「フランスからの情報」として、ヤルタ会談において、ソ連が極東戦に関する期限を設定し、それまでに日本が降伏していなければ、米英側に加勢するとの報告を行い、5 月24日、海軍省に届いていることが旧海軍史料で確認できる[16]。ポルトガル・リスボンの陸軍武官からも、5 月26日、米英側とソ連の交渉が合意に達した場合、ソ連が6 月末に対日参戦する危険があるとの情報が送られた。6 月8 日にはシベリア東部への軍隊、物資の集結が進んでおり、7 月中旬以降、宣戦布告を待たずにソ連が満洲国境から侵攻する可能性は非常に高い、との報告を行なっている[17]。駐リスボン陸軍武官からの報告が東京の陸軍中央に届いた証拠は、旧陸海軍史料には残されていないものの、5月後半から6月にかけて、複数の情報源からソ連の対日参戦に関する情報が寄せられていた蓋然性が高い。大本営の「奥の院」たる作戦課の一握りの作戦参謀に限らず、陸軍省・参謀本部の中枢部署所属の佐官級将校であれば、接することができる状況にあった。つまり、「握り潰し」とは程遠い状況で、ソ連参戦に関する情報は、いわば公然の秘密であった。

その後の経緯を簡単に確認しておくと、6 月22日、日本政府は、御前会議を経て、ソ連政府への和平仲介を求めることを正式に決定した。客観的な国際情勢の分析よりも、和平交渉に肯じない陸軍も相手がソ連ならば同意するだろうという国内政治上の事情が優先された結果であった。「幻想の外交」[18]として厳しく非難されてきたゆえんである。

その背景には、アメリカ型の自由主義よりもソ連型政治経済体制を選好する人々が官僚・軍部の中堅層(在外の外交官、武官を含め)に少なからず存在したことに加え、大戦後の米ソ対立を予測してソ連が日本に好意的な態度をとることに期待する考えがあり、その基本的立場によってソ連の対日政策に関する評価も左右された。

7 月10日、最高戦争指導会議において、天皇の親書を携えた近衛文麿元首相を特使としてソ連に派遣、和平仲介を依頼することを決定し、佐藤尚武駐ソ大使が受入れ方につきソ連外務省と交渉するもソ連側は提議に具体性がないとして拒否、7 月26日、日本に無条件降伏を要求する米英中3国のポツダム宣言が発表された。ポツダム会談において、トルーマン米大統領から日本に対して原子爆弾を使用する計画を通知されたスターリンはスケジュールを早め、8 月8 日、ソ連は日本に対して宣戦を布告、翌9日、ソ連軍は満洲に侵攻を開始した[19]。奇しくもドイツ降伏から正確に3か月後のことであった。

おわりに

本稿で確認したとおり、現在のところ、小野寺武官がヤルタ会談の直後に、ドイツ降伏後3か月後にソ連が対日参戦することを約束したという情報を東京に送っていたことを裏付ける証拠は、存在していない。しかしながら、ソ連の対日参戦に関する情報は、その期日こそ明示していないものの、ベルン、リスボンなどの陸海軍武官から東京に送られ、ドイツ崩壊後の5 月末から6 月にかけて、外務省、陸海軍の中枢部において広く共有されていた。このような意味では、「小野寺情報」は東京に届いていた、ということができる。しかし、それとは相反する、ソ連は参戦しないだろうとの種々の情報や分析も、スウェーデンの岡本季正公使をはじめ、各地から届けられていたのである。情報評価の難しさを示す事例ということができるが、悲観的なシナリオを中心に据えて評価を行うのが原則というべきであろう。

太平洋戦争開始以来、中立条約を結んでいたソ連との外交関係は、大戦中の日本外交の主軸であり、独ソ和平の仲介により戦争終結を図るという構想が外交方針の基底に存在した。その主唱者は開戦時の外相で、1945年4 月再び外相に就いた東郷茂徳であった。

今日の観点から見れば、1945年5 月初めのドイツ崩壊後、その考え方を大きく転換すべきであり、米英両国との和平条件――それは8月のポツダム宣言受諾時と大きく変わらないものとなったであろう――に関する直接交渉を決断する必要があったことは間違いない。

Profile

  • 清水 亮太郎
  • 戦史研究センター戦史研究室
  • 専門分野:
    国際関係史