NIDSコメンタリー 第257号 2023年4月11日 防衛省・自衛隊における統合問題の起源 -保安庁創設時の「一軍化」問題

戦史研究センター 戦史研究室長
中島 信吾

はじめに

2006年、統合幕僚会議が統合幕僚監部に改編されてからすでに15年以上になる。いずれ、統合幕僚会議という組織が存在したこと自体が歴史となる日も遠くなかろう。防衛省・自衛隊にとって、今日、統合の強化、推進それ自体は前向きな、そして異論の少ない課題になっているように見受けられる。だが防衛省・自衛隊草創期、この課題は、根本的な部分で議論が存在する政策上の論点であった。そして統合の問題は、1954年7月における統合幕僚会議誕生のときが起源ではなく、その約2年前、保安庁が創設されるときに遡る問題である。本稿では、統合問題の起源ともいえる、保安庁創設時における一軍化問題について検討する。

保安庁創設に際しての統合問題

現在、日本には陸海空3自衛隊が存在するが、1945年のうちには帝国陸海軍は解体され、日本の軍事力は消滅した。

戦後日本の防衛力の再建過程では、3つの軍種が同時に発足したわけではなかった。その嚆矢は陸上自衛隊の前身である警察予備隊の創設であった。1950年6月に勃発した朝鮮戦争への対応として、当時日本国内に駐留していた米陸軍の4個師団のうち3個師団が朝鮮半島に投入されることになったが、そのことによって日本国内に治安悪化の恐れが生じたため警察予備隊が創設されることになったのである。同年8月のことである[1]

次に再建されることになったのが海上防衛力であった。野村吉三郎元海軍大将、保科善四郎元海軍中将らを中心とした、旧海軍軍人達による戦後の「海軍再建」活動はなかなか実を結ばなかったが、1951年10月、米側より艦艇貸与の申し入れがあったことから、吉田茂首相はその受け入れを決断した。その後、いわゆるY委員会での協議を経て、海上自衛隊の前身である海上警備隊が創設されることになる [2]。1952年4月のことである。

こうして戦後の日本に陸海の防衛力が再建されることになったのだが、ここで大きな問題が浮上することになる。つまり、これら二つの実力組織を戦前のように二つの並立したものとするのか、あるいは一つに統合するのか、そして統合するにしても幕僚組織まで統合するのかという問題であった。

行政組織のみならず、幕僚組織まで統合すべきであると主張したのは警察予備隊の首脳部であった。警察予備隊総監(現在の陸上幕僚長に相当)であった林敬三は次のように主張した。林は内務省出身、元宮内庁次長で軍務経験はなかったが初代の警察予備隊総監となった人物である。

「保安庁を作るときに一緒にするかどうか議論がありました。こりゃ当然一緒にした方がいいと思っていました。・・・いろいろな話を聞きますとね、第二次世界大戦で負けた一つの大きな原因は陸海の対立であるといわれる。陸軍から見れば敵はアメリカでなく海軍だった。海軍から見れば陸軍だった。乏しい資材だからその取り合いからだったと思いますが、それが本当に戦うときの大きな阻害になったと聞きます」[3]

このように戦前、戦中の陸海軍の対立を大きな歴史の教訓とし、戦後の新たな防衛機構の建設に際して、こうした問題の根本的な解決を図るための措置として「一軍化」が考えられたのである。林は、旧海軍軍人で海上警備隊創設に携わっていた主立った人物達に働きかけ、上記のような内容を訴えた[4]。林のような考え方は、警察予備隊本部、すなわち内局の前身の中でも見られたことである。 警察予備隊本部で人事局長を務めていた加藤陽三は次のように回想する。加藤は後に防衛庁防衛局長、次官等を歴任した人物である。

「私共は、部隊が小さいということと、旧陸海軍が非常にいがみ合っていたということが敗戦の大きな原因ではなかったかという論議が当時、国内にあった。・・・だから陸海は一緒にしようじゃないかということは、皆の頭に非常に強くありました。部隊は一緒にするわけにはいかない。しかし、幕僚監部にしても、大学校にしても、研修所にしても、あとの問題ですが、調達にしても、施設―今の防衛施設庁ですネ―ああいうものにしても極力一本にしようという考え方が、大体皆に共通してあったということは間違いないことだった」[5]

こうした考え方を政治レベルで後押ししたのが野田卯一建設大臣であった。野田は行政機構改革担当も兼ねており、行政機構の簡素化という観点から警察予備隊の主張を後押ししたのである。野田は、「往年の大陸海軍国であった当時の機構を復元、あるいは米国と同一様式を実施するなどという案は、国力の現状を知らない、また国民の負担を無視する暴論である」と指摘した[6]。さらに、陸海を二つの組織に分けることは機構の簡素化に反するとともに、人事や予算等の争奪から両者の対立を招くほか、「両実働部隊の統一的能率的活動を阻害する」との理由から一軍化を主張したのであった[7]

一方、海上警備隊の創設に携わっていた旧海軍軍人と海上保安庁はこれに反対した。旧海軍軍人達は戦後の再軍備に際して「海空一体化」構想を抱いていた。それは、彼らが日本の地理的環境について「海上及空中の防衛が第一で陸上防衛は第二であることは明らか」と考えていたからである。したがって、戦後新たに構築される機構については「海上空中両作戦の関連性が極めて大であることは戦史の明示する処であって、思想としては海空軍一体のものと陸軍との二本立てであるべき」というのが「海軍再建」に携わっていた旧海軍軍人達の主張だった[8]。1952年になって、新たな治安機構の創設と統合問題が浮上すると、「警察予備隊、海上保安庁及び海上保安予備隊(海上警備隊―筆者)は各独立並立せしむるべきであって実質的な統合は絶対に避くべき」と主張した[9]

また、一軍化への反対という点では、海上警備隊の創設をめぐって旧海軍側と対立していた海上保安庁側も一致していた。1951年秋に米側から貸与される艦艇の受け取り等をめぐって設置されたいわゆるY委員会では、「庇を貸して母屋を取られる」状態を避けたい海上保安庁側が、新たに創設される組織の形態や性格をめぐって旧海軍側と鋭く対立した。だが、「一軍化」問題の対応をめぐっては、旧海軍側と歩調を合わせたのである。当時海上保安庁長官だった柳沢米吉の回想を聞こう。

「ここで大問題がおきたのは、増原さんが『日本が戦争に負けたのは、海と(陸が)対立していたからだ。今度は絶対に陸優勢。海は陸の下に付け』といい出した。僕は『対立していたから戦争はここですんだ。陸に任せておいたら日本は全滅していただろう』といい『そんなことあるか』とやり合った」[10]

国内政治への働きかけについては、「海軍再建」活動の中心人物の一人だった山本善雄元海軍少将は、大橋武夫国務大臣(警察予備隊担当)に陸海二本立ての機構が必要と訴え、大橋もこれに同調した[11]。以後閣内では警察予備隊の後押しを受けた野田建設大臣と、海上保安庁・旧海軍軍人の意を受けた大橋が対立することになった。海上警備隊側の働きかけは国内外に及んだ。米海軍に対しては、極東海軍司令部副参謀長のバーク(Arleigh A. Burke)少将に対して野村吉三郎元海軍大将が働きかけ、バークは吉田茂首相に対して、米英等が実施しつつあった統合の困難性と作戦運用面での難しさについて説明した[12]。また、柳沢はジョイ(C. Turner Joy)極東海軍司令官に働きかけ、ジョイは「『私も出ましょう』といって吉田を通じて(増原に)いってくれた」という[13]

さらに、この問題に決着がつく数日前、旧海軍側は米海軍長官を通じて吉田に働きかけを行った。野村が米海軍長官との会談に備え、山本に依頼して作成した資料には以下のようにある。「研究者達の中には旧日本の陸海軍間に存在した相克摩擦の表面的な現象に捉われこれを解消せしめんとする考慮から陸軍、海軍はこれを合併して単一軍とすべしとする主張をするものが多く従って保安機構制定に当たって警察予備隊及び海上警備隊を併合して最高指揮者を単一人としその幕僚機構もまた単一とすべしとなす意見に支配せられようとする状況すらあると聞いています」[14]

このように、戦後、旧海軍軍人の中で活動する主立った者達は、「陸軍にコントロールされた統合司令部の危険性」を指摘し、国会議員や実業界の間を強く説いて回った。こうして、増原や林が当初は自分たちの意見に傾いていると感じていた吉田首相も、最後には海側の主張を認めるに至ったのである[15]

1952年8月、保安庁は発足した。これが後の防衛庁となり、現在の防衛省となる。警察予備隊(後に保安隊)と海上警備隊(後に警備隊)は保安庁という一つの行政組織に属することになったものの、幕僚機構の一元化をも構想していた警察予備隊側の意向は通ることなく、第一幕僚監部(陸)と第二幕僚監部(海)の二つの幕僚機構が併存することになったのである。

おわりに

戦後、統合に関する問題が初めて生起したのは、1952年に保安庁が設置される際であった。すでに存在していた警察予備隊に加えて、海上自衛隊の前身である海上警備隊が創設されることになったからである。陸海二つの実力組織をどのように束ねるのか。行政組織については新たに設置される保安庁で一本化することは当然ながら、このときは制服組の幕僚組織も一本化、一軍化することを目指すべきとの強い意見があった。この意見は背広組―警察予備隊本部―、制服組―警察予備隊総監部―問わず、主として警察予備隊に所属していた主立った者たちによるものであった。その背景には、戦前戦中の陸海軍の対立が国家の大きな欠陥であり、戦後、新たに防衛力を建設することになったこの機会を捉え、陸海対立を根本的に解決―「一軍化」―しようとしたものであった。これに対して、別のルートで「海軍再建」を目指してきた旧海軍関係者と海上保安庁関係者はこれに反対した。

旧海軍関係者が抱いていた構想は、海上防衛力と航空防衛力の一体化、すなわち海空一体化構想であった。これら二つの領域での作戦は強く関連しているというのが彼らの主張であり、したがって戦後日本において建設されるべき防衛力は、陸上防衛力と海空防衛力の二本立てであるべきというのがこの頃の彼らの主張である。加えて、こうした軍事的観点からの理由だけではなく、数で劣る海は、陸と一体化されれば陸に飲み込まれかねないという組織防衛上の、あるいは組織力学的な観点からの懸念も彼らの主張の底流に存在していた。こうした主張を、彼らは日本政界はもちろんのこと、米軍関係者にも根回しをし、そうすることによって当初は一軍化に傾いていた吉田首相を翻意させることに成功したのである。

Profile

  • 中島 信吾
  • 地域研究部
    戦史研究センター戦史研究室長
  • 専門分野:
    日本政治外交史、日本の安全保障政策史