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デジタル史料展示

太平洋戦争② ミッドウェー作戦からガダルカナル攻防戦

1. ドーリットル空襲

史料名

「昭和十七年四月 空襲被害調査報告 陸軍築城本部」
(請求記号 本土、全般、176)

昭和17(1942)年4月18日正午過ぎ、東京をはじめ本州各地に対し、米陸軍中佐ジェイムズ・ハロルド・ドゥリトル(James Harold Doolittle)指揮下の爆撃機16機が空襲を敢行します。これは、日本本土に対する初めての空襲でした。このドーリットル空襲により全国で数十か所が攻撃を受け、死者は約90名、負傷者は400名以上、全壊全焼家屋は100戸以上、半壊半焼は50戸以上に及びました。

本史料は、この際の被害写真および関連する図です。日米開戦前から米軍機の本土空襲を懸念していた連合艦隊司令長官山本五十六のみならず、この空襲を受けて軍令部も陸軍も、本格的にミッドウェー作戦の準備を進めていきました。

2. ミッドウェー海戦

史料名

「昭和17年6月1日~30日 ミッドウェー海戦 戦時日誌戦闘詳報」
(④艦船・陸上部隊、戦闘詳報‐戦時日誌、38)

連合艦隊は、米太平洋艦隊に対し戦局を優位に進めていった中で、ミッドウェー攻略を企図します。しかし、米海軍は日本海軍の暗号解読によってその動きを把握していました。昭和17年6月5日(現地時間4日)のミッドウェー海戦で、日本海軍は空母「赤城」・「加賀」・「蒼龍」・「飛龍」4隻他を失います。

本史料は、ミッドウェー海戦に参加した「飛龍」の戦闘詳報です。「赤城」・「加賀」・「蒼龍」が沈没する中、「飛龍」は孤軍奮闘しますが、米軍機の攻撃によって行動不能となり、味方駆逐艦によって処分されました。

3. ガダルカナル攻防戦

史料名

「『ガ』島ニ於ケル糧秣揚陸交付数量調 昭和18年2月 住谷悌史資料」
(南東、ソロモンビスマルク、247)

大本営はミッドウェー海戦後、米豪間遮断の観点から、航空基地建設の地点としてガダルカナル島に着目します。ガダルカナル攻防戦は昭和17年8月から始まり、大本営は陸軍部隊を相次いで上陸させました。

しかし、ガダルカナル島の将兵は飢えとマラリアに苦しみ、多くの犠牲者を出しました。昭和17年11月中旬には、米軍に制空権と制海権を握られ、陸軍の輸送船は、任務を遂行し得なくなりました。同島が「餓島」とも喩えられた所以です。

本史料は、同島上陸軍全般の糧秣補給定量および補給実施表です。絶食数日に及ぶことは珍しくなく、撤退が決定された同年末には、絶食状況は5日から1週間に達していたことがわかります。

日本軍は、このガダルカナル戦以後、守勢に転じます。(住谷悌大佐は、昭和17年10月から18年8月まで第17軍経理部長を務めました)

4. ルンガ沖夜戦

史料名

①「大東亜戦争 戦闘詳報 第二水雷戦隊 昭和十七年十一月~同年十二月」
(④艦船・陸上部隊、戦闘詳報 戦時日誌、120)

②「作戦研究資料5 ソロモン方面作戦」
(③大東亜戦争、南東、6)

昭和17年11月30日夜、田中頼三少将指揮下の第2水雷戦隊は補給物資輸送のためガダルカナル島に接近し、これを米艦隊が迎え撃ちました。第2水雷戦隊は米側にレーダーで行動を探知されるなど不利な状況でしたが、迅速に戦闘準備を整え、米巡洋艦1隻を撃沈、数隻を大破させます。

このルンガ沖夜戦は日本水雷戦隊が戦果を収めた最後の海戦となりました。一方で、ガダルカナル島への補給は途絶し、昭和18年2月、ガダルカナル島から部隊は撤退しました。

本史料は、ルンガ沖夜戦の「合戦図」および第2水雷戦隊に対する連合艦隊司令長官古賀峯一の感状です。

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