NIDSコメンタリー 第391号 2025年7月31日 タイ・カンボジア紛争——地域安全保障への含意

地域研究部長
庄司 智孝

7月24日、タイとカンボジアの軍は両国の国境地域で大規模な戦闘を開始し、双方に民間人を含め30人以上の死者が出た。また国境地域からは20万人以上が避難する状況となっている。7月28日、マレーシアのクアラルンプールで両国首脳は協議し、即時無条件の停戦で合意した。ただ、合意で現地での戦闘が確実に収まるか定かではなく、今後について予断を許さない状況となっている。

歴史的背景

今回の紛争は一義的には、両国の国境をめぐる対立と争いである。タイとカンボジアの国境地帯にあるプレアビヒア寺院遺跡については、長年両国によってその領有権が争われてきたが、1962 年、国際司法裁判所はこれをカンボジア領と認定する判決を出し、タイもこれを受け入れた。しかし、2007年にカンボジアが同寺院遺跡を世界遺産に登録申請したことをきっかけに、タイ側の領土ナショナリズムが再燃した。2008年から2009年にかけて両国の軍は国境地域に展開してにらみ合いとなり、散発的な戦闘によって死者も出る事態となった。カンボジアは改めて1962年の判決の解釈を求めて国際司法裁判所に提訴し、2013年11月にその判決が出た。国際司法裁判所は1962年の判決を踏襲し、プレアビヒア寺院遺跡はカンボジアの主権に帰属することを確認すると同時に、そこからタイの軍や警察は撤退するよう命じる判決を出し、同判決は、事態の収束を促進した。それから10年以上が経過したが、今回紛争が再燃した形である。

タイ・カンボジアの内政要因

15年前の紛争では、タイの内政事情が大きく作用していた。当時同国ではタクシン・シナワット元首相派と軍も与する反タクシン派の対立が激化しており、プレアビヒアを材料に、反タクシン派が政権の座にあったタクシン派を攻撃した。国民の領土ナショナリズムは刺激され、「タイの領土をカンボジアに割譲する」タクシン派への国民の反感は高まった。カンボジアのフン・セン首相とタクシン元首相の個人的に親密な関係も、両国の対立感情を刺激する材料に使われた。当時事態が鎮静化に向かったのも、2011年にタクシン元首相の妹であるインラック・シナワットが首相に就任し、事態の収拾に向けフン・セン首相との直談判に動いたことが大きく作用した。

今回、国境地域での対立は、5月に両国の軍の間で交戦が発生し、カンボジア兵1人が死亡したことが直接のきっかけとなった。その後それぞれの軍の増強、国境ゲートの封鎖などで両国間の緊張は一気に高まり、今回の交戦へと至った。事態の収拾に向け、タクシン元首相の娘であるペートンタン首相はフン・セン(現在は)前首相と電話で協議したが、ペートンタン首相がタイの軍に批判的でカンボジアに融和的な通話内容が漏洩し、首相は政治的な窮地に陥った。7月、憲法裁判所はペートンタン首相に職務停止命令を出し、プームタム副首相が暫定首相に就任した。

事態の収拾に向けペートンタン首相が直談判したのはフン・マネット首相ではなくフン・セン前首相であったことは、カンボジア政治の真の実力者の所在をいみじくも示していた。父フン・センから2023年に首相職を「譲り受けた」フン・マネットの権力基盤はいまだ確固たるものではなく、父親が影の最高実力者としてカンボジアの内政に権勢をふるっているさまが露呈した。別の意味では、フン・マネット首相もナショナリズムと国民の支持の点からタイに対して弱気の姿勢を見せることはできなかったわけである。

ASEANにとってのトラウマの再来と大国の圧力

15年前の紛争で、安全保障共同体としての東南アジア諸国連合(ASEAN)は、その限界を露呈した。劣勢のカンボジアはプレアビヒア紛争をASEANで話し合うよう訴えたが、タイがこれを拒絶したことによりASEANの紛争調停機能は動かなかった。経済・軍事他の総合的な国力の面でカンボジアに優越するタイは、今回も紛争は2国間で解決されるべきものとし、当初はASEAN議長国マレーシアの調停の提案を拒絶していた。マレーシアのみならず、タイは米中の仲介も拒絶した。

しかし、事態はトランプ大統領のディールによって新展開を迎える。タイとカンボジアはそれぞれ関税をめぐって米国と交渉中であったが、トランプ大統領は「戦闘が続く限り両国と関税に関する合意を結ばない」として関税と2国間紛争をリンクさせ、両国を協議のテーブルにつけることに成功した。関税とタイ・カンボジアの国境紛争という全く別の2つの問題を結びつけディールにすることが、特にタイには大きな外交圧力として作用した。巨額の対米貿易黒字を要因として36%の関税率を通告されていたタイは、ベトナムやインドネシアといった他の東南アジア諸国が米国との関税交渉を妥結させ、関税率の引き下げに成功したこともあり、関税交渉の妥結は至上命題であった。事情は、同率の36%の関税率となっていたカンボジアも同様であった。

7月28日、マレーシアの首都クアラルンプールで停戦協議が行われ、タイのプームタム暫定首相、カンボジアのフン・マネット首相、マレーシアのアンワル・イブラヒム首相に加え、米中の駐マレーシア大使も出席した。その場で、両国は無条件での即時停戦に合意した。停戦合意が成立したことで、ASEAN議長国マレーシアと、域内紛争を平和的に解決することを最重要原則の1つとするASEANは安全保障共同体としての面目を保つことができた。またタイ・カンボジア両国に強い影響力を持つ(と自負していた)中国も、停戦協議に関与することができた。

今回停戦合意は成立したが、15年前の事態が示すように、これで両国の国境地域の平和と安定が保障されるか、疑問は残る。プレアビヒアは、両国の領土ナショナリズムを軸に双方の内政事情や対外関係が複雑に作用する問題であり、タイの内政1つをとってみても、その状況次第で問題が再燃する可能性がある。ASEANとしても、米国の関与なくして停戦協議を開くことができなかったという点から、域内紛争をいかに自力で解決するかという課題は残ったままである。

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  • 庄司 智孝
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    東南アジアの安全保障