NIDSコメンタリー 第315号 2024年5月7日 日露戦争のグローバル・インフルエンス —— 開戦120年の節目に考える

戦史研究センター長
立川 京一

はじめに

今年2月に開戦120年を迎えた日露戦争は、「第0次世界大戦」といわれることがあるように、戦争の新しい形態を生み出して、のちの2度の世界大戦の先駆けとなったとされている。また、戦争と革命の世紀となった20世紀の幕開けとして、その後の流れを決定づけたといってよいほどの影響を世界の歴史に及ぼした出来事でもある。本稿では、これまでにも指摘されてきた日露戦争の影響の中から、開戦と終結(結果)に関係するものに対象を絞り、かつ、両世界大戦や冷戦期につながっていくものを取り上げて日露戦争の世界史における意味合いについてあらためて考えてみたい。

日露開戦と英仏協商

日本では日露戦争の始まりと関連して日英同盟の重要性がよく指摘される。それなくして日本は開戦を決断できなかったというわけである。他方、世界へ目を転じると、日露開戦の2か月後に成立した英仏協商がより重視されているのではなかろうか。紆余曲折を経ながらも英仏両国の友好関係の礎として今日まで維持されている英仏協商は、元をたどれば、エジプトはイギリス、モロッコはフランスというように植民地の勢力範囲を決めて互いに尊重することによって17世紀以来の植民地をめぐる両国間の直接的な対立に終止符を打つというのが趣旨であり、戦時の協力義務を規定するような軍事的な内容を含むものではない。

日英同盟については、そこにドイツが加わって日英独3国の同盟となる可能性のあったことが知られている。つまり、イギリスにはフランスではなくドイツと手を組む道もあったのである。しかし、イギリスはフランスを協商相手に選ぶ。フランスの国際関係史家ルネ・ジローはその理由をこう説明する。

当時、「イギリスの直接的『脅威』は何より極東にあった。そこで予測される日露戦争が、特にインド北部で起こりうる武力闘争と共に、ロンドンを危険な紛争に巻き込む恐れがあった。」インドの防衛を重視するイギリスは、最終的に次のような結論に達する。

植民地での一定の譲歩と引き替えに得られるフランスとの好ましい協調は、ドイツやロシアの野心の抑制に役立つであろう。こうして得られるフランス海軍の「中立化」のおかげで、イギリス海軍省はドイツとロシアに適用された二国標準主義の原則を一層容易に維持することができるであろう。さらに、ヨーロッパ紛争や軍事問題に関する明確な約束をフランスと結ぶのを回避することによって、後で自由になるあらゆる可能性が留保されるであろう(ジロー『国際関係史 1871~1914年』317頁)。

日露戦争当時、イギリスは日本と、フランスはロシアと同盟関係にあったが、戦争が日露2国間のものにとどまっている限り、英仏両国に参戦の義務はなく、実際、両国は日露戦争に対して公式には中立の立場をとる。しかし、先にイギリスが抱いていた日露戦争に巻き込まれることへの懸念について述べたが、フランスも同様で、英仏両国はこの巻き込まれによって互いを敵として戦わなければならなくなることを恐れた。

その危険性が最も高まったのは、ロシアのバルチック艦隊がイギリス漁船を日本海軍の水雷艇と誤認して攻撃したドッガーバンク事件直後である。このとき、イギリスとの戦争を避けたいフランスは英露間の調停に躍起となった。また、バルチック艦隊がフランス領インドシナ(仏印)の水域に長逗留した際も、日本が仏印に攻撃を仕掛けてくるのではないか、そうなればフランスは日本に抵抗せざるを得なくなり、日本と同盟関係にあるイギリスとも敵対することになるという不安にかられた。さらに、フランスは日露間の調停も試みようとするが力及ばず、周知のように、その役割はアメリカが担うことになる。

いずれにしても、当時、英仏両国にとって、互いに敵となって戦うことは無益と認識されていた。むしろ、急速に台頭するドイツに対応することにこそ共通の利益を見出していたのである。日露開戦後、急転直下、英仏協商が成立した背後には、そうした事情もあった。実際、イギリスに対抗しようと19世紀末から海軍拡張に乗り出していたドイツは、日露戦争が収束しないうちに、皇帝ヴィルヘルム2世がモロッコのタンジールを訪問してフランスの進出に反対する姿勢をあらわにした。このとき、英仏協商は早速その精神を発揮、イギリスはフランスを支持した。

日露戦争後も英仏協商は目的にかなう方向で機能し続ける。ドイツの求めによってモロッコ問題を議論するために開催されたアルへシラス会議や、ドイツがモロッコのアガディールに砲艦を派遣して緊張が高まった際にも、イギリスはフランスを支援した。さらに、イギリスとロシアが英露協商を締結すると、それが英仏協商、露仏同盟と結びついて英仏露の三国協商と呼ばれる関係が成立、来る第一次世界大戦で独墺伊の三国同盟に対抗する勢力として現出することになる。

日本の勝利・ロシアの敗北

話を戦争の結果による影響に移そう。辛勝ながらも勝ったのは日本である。この勝利によって日本は満州(現在の中国東北部にほぼ相当する地域)及び朝鮮半島の権益を獲得、アジアにおける地域大国となった。日本は日露戦勝によって築いた礎を足掛かりに、第一次世界大戦後には国際連盟常任理事国となり、いわゆる5大国の一角を占めるまでに成長する。

地域大国となった日本は新たな国家戦略を打ち立てた。「帝国国防方針」である。日本は防衛姿勢をそれまでの守勢防御から攻勢防御へと抜本的に転換した。また、主要想定敵国として、あらたにアメリカを加えた。陸軍は「平時25個師団、戦時50個師団」という体制を整備して、有事には満州でロシア陸軍を撃退、利益線である南満州を確保する方針を立てた。一方の海軍は「八八艦隊」を構想、西太平洋でアメリカ海軍主力の進出を待ち、艦隊決戦を行って雌雄を決するという「対米邀撃作戦」を計画した。以後30余年の間、海軍はアメリカを敵と想定して軍備を整え、また、訓練を積み重ねることになる。いざ、アメリカとの戦争となった際、それを拒むことができなかったのは、いわば当然のなりゆきであったろう。

そのアメリカでは日露戦争後、のちに「オレンジ・プラン」と呼ばれることになる対日戦争計画の立案に向けた作業が本格化する。アメリカは日本との太平洋戦争を概ねこの計画にそって遂行することになる。また、アメリカ国内ではカリフォルニア州を中心に日系移民に対する風当たりが強くなり、第一次世界大戦後には排日移民法の制定を招くに至る。イメージ論からすると、それは日米戦争の起源と位置づけられる出来事であった。

アジアの小国であった日本が西洋の大国ロシアに勝利したことの影響は主要国間にとどまらない。むしろ、当時、列強の支配を甘んじて受けていた人々への影響は大きかった。例えば、イギリスの植民地であったインド、フランスの植民地であったインドシナ等の独立運動家、西洋列強に分割されていた清の政治運動家、ロシアの統治下にあったフィンランドやポーランドの民衆等である。彼らはロシアに対する日本の勝利に刺激を受けて覚醒し、自民族の独立や自国の近代化・民主化への希望の念を強くした。

なかでもベトナム人ファン・ボイ・チャウは思い切った行動に出た。チャウは戦勝直後の日本へ渡り、大隈重信や犬養毅らに会って支援を求めた。人材の育成が先決であることを諭されたチャウは、王族のクォン・デをはじめ200人もの若者を仏印から来日させた。「東遊(ドンズー)運動」として知られることになるチャウの活動は、日仏協約締結後、日本がフランスとの関係を優先して取り締まりを強化したことにより、わずか4年で終わった。期待は裏切られたのである。しかし、チャウらは場所を移して活動を継続、その精神は第二次世界大戦後のインドシナ戦争へとつながっていく。

敗北したロシアは国際的な地位の低下を免れず、同時に国内の政治・経済・社会的状況は混迷の度を増した。敗戦の結果、極東への勢力拡張は断念を余儀なくされ、対外的矛先はかつてのように西方、すなわちヨーロッパへ向かうことになる。その政策は、とりわけバルカン半島でドイツ、オーストリアと拮抗、いわゆる汎スラブ主義と汎ゲルマン主義の衝突は第一次世界大戦の導火線となる。

一方、ロシア国内では、日露戦争が2年目に突入しようとする直前に、当時の首都サンクトペテルブルクで国会の開設、労働者の権利向上、日露戦争の中断等を要求してデモ行進する民衆に対して軍隊が発砲、多数の死傷者を出すという「血の日曜日事件」が発生、それをきかっけに第一次ロシア革命が始まる。農民の反乱や労働者のストライキは全国に波及、各地でソビエト(労働者、農民、兵士の評議会)が結成された。

帝政ロシア政府は憲法制定や国会開設で対応、騒擾の沈静化を試みた。しかし、結局、事態は弾圧という手段によって収拾が図られることになる。第一次ロシア革命は2年で収束したが、10年後の第二次ロシア革命の呼び水となり、さらには、第二次世界大戦後の冷戦へとつながる道の起点となった。

ちなみに、第一次ロシア革命のさなか、ウクライナ南部の黒海に面した港湾都市オデーサでもストライキが発生、時を同じくして艦内で水兵が反乱を起こした戦艦「ポチョムキン」が入港した。艦上で殺害された兵士を悼む集会は大規模デモ行進に発展したというが、それは後年制作される映画のモチーフとなる。

おわりに

今回は、2度の世界大戦や冷戦期につながる政治・外交・安全保障における事象に限定して述べたわけであるが、日露戦争が20世紀の世界史に多大な影響を及ぼしていることがあらためて認識されたであろう。対象を経済や文化にも広げれば、さらに遠大な議論が可能となろう。そうすることによって、日露戦争の脱国境的でグローバルな影響を真に理解することができるのかもしれない。

●主要参考文献

  • ・稲葉千晴『バルチック艦隊ヲ捕捉セヨ――海軍情報部の日露戦争』成文社、2016年。
  • ・黒羽茂『日露戦争はいかにして戦われたか』文化書房博文社、1988年。
  • ・軍事史学会編『日露戦争(一)――国際的文脈』錦正社、2004年。
  • ・ルネ・ジロー(渡邊啓貴ほか訳)『国際関係史 1871~1914年――ヨーロッパ外交、民族と帝国主義』未来社、1998年。
  • ・谷一巳『帝国とヨーロッパのあいだで――イギリス外交の変容と英仏協商 1900-1905年』勁草書房、2021年。
  • ・防衛庁防衛研究所編『日露戦争と世界――100年後の視点から』(平成16年度戦争史研究国際フォーラム報告書)2005年3月。
  • ・Pierre RENOUVIN, La politique extérieure de Th. Delcassé (1898-1905) (Paris: Centre du Documentation Universitaire, 1962).

Profile

  • 立川 京一
  • 戦史研究センター長
  • 専門分野:
    軍事史、国際関係史