第10飛行師団長 近藤 兼利 明治26年~昭和51年〔石川〕
-東京周辺の要地防空に任じた陸軍航空揺籃時代からの操縦者-
- 第10飛行師団長 近藤兼利
『戦史叢書 本土防空作戦』
486頁から
主要略歴
大正3年5月陸軍士官学校卒業(26期)、12月歩兵少尉、7年7月歩兵中尉・航空1大隊付、12年12月飛行第1連隊中隊長、昭和4年8月航空兵少佐・所沢陸軍飛行学校教官、12年7月飛行第5連隊長、13年7月航空兵大佐・明野陸軍飛行学校幹事、17年7月第2飛行団長、8月少将、18年6月大刀洗陸軍飛行学校長、19年6月宇都宮教導飛行師団長、20年3月中将・第10飛行師団長
人物解説
近藤は、人格識見まれにみる人物といわれ、昭和20年3月1日、京浜地区の防空を任務とする第10飛行師団長に親補されました。部下に対しては必勝の信念の堅持を要望し、折あるごとに各部隊を巡視し士気を鼓舞しました(山本茂男監修『B29対陸軍戦闘隊』今日の話題社、1973年)。近藤は飛行部隊等の徒労を除くため、来襲するB-29の少数機に対しては一部の戦闘機を充て、その他部隊等は平常の態勢をもって教育訓練を続行させるなど効率・効果的な部隊等の運用に努めました。その命令の一つが下掲史料①です。近藤は、東京竹橋の東部軍司令部内作戦室(下掲史料②)で作戦指揮を執りました。3月4日には初めてB-29が大編隊をもって来襲し、東京大空襲の3月10日には、零時から0240までの間に約130機が来襲、防空作戦の戦果として15機を撃墜したと記録にはありますが、一夜にして東京の東半部が焦土となってしまいました。その後も空襲は続き東京の大半が焼失する中でB-29に対する防空作戦は続き、昭和天皇からの御嘉賞も賜りますが、近藤はその罪責を強く感じていました。終戦も近い8月、終戦のうわさが出たころには師団首脳部は従来のような攻撃の督促を差し控えるようになり、15日には、近藤は朝から自室にこもり出てこなかったといわれます。戦後、近藤は、師団の操縦者について、敵戦闘機と戦闘できるもの10名内外、B-29に対する戦闘すら訓練未到のもの約1/3と回想しています(「近藤兼利中将回想録 昭和29.2」)。