日露戦争開戦120年
海軍大将 柴山矢八 嘉永3年~大13年〔鹿児島〕
-日清、日露と出征することなく、後衛を担った海軍大将-

- 柴山矢八大将
「大日本海軍写真帖」から引用
主要略歴
戊辰戦争参加を経て明治5年2月米国留学、7年2月帰朝、8月中尉・武庫司、8年5月大尉・砲兵大隊副長、9年6月浅間艦乗組、10年2月筑波艦乗組、10月海兵出勤、12年9月水雷術練習所長、12月少佐、15年9月中佐、16年2月水雷局長、17年2月~12月兼軍事部3課長、12月兼軍事部2課長、18年6月大佐、19年3月参本海軍部2局長、7月~20年6月欧米出張、10月艦政局次長兼兵器課長、22年3月海軍省2局長心得、5月筑波艦長、24年2月横須賀鎮守府参謀長、12月海門艦長、26年4月高千穂艦長、12月海軍兵学校長、27年7月少将・佐世保鎮守府長官、30年10月中将・常備艦隊長官、32年1月海軍大学校長、33年5月呉鎮守府長官、38年1月旅順口鎮守府長官、38年11月大将、39年2月待命、42年2月予備役、大正4年7月後備役、9年7月退役
人物解説
柴山は、明治5年2月、開拓使の選抜生として米国に留学、7年2月帰朝し8月には海軍中尉に任ぜられます。8年12月には、江華島事件をめぐる談判に黒田清隆が韓国に赴いた際、柴山は砲兵1個小隊を率いて警護に当たりました。しかし、9年の萩の乱、10年の西南の役には軍艦に乗って戦地に出動したものの実戦に加わることはなく、また、その後、27年7月7月、少将で佐世保鎮守府司令長官となるなるものの日清戦争に出征することはありませんでした。33年5月、呉鎮守府司令長官に補され、ここで日露戦争が勃発するのですが、また、柴山は広島湾戦時指揮官として後方勤務に従い、出征することはありませんでした。当時、海軍では現場勤めを艦隊派と呼び、その代表が柴山であったといわれます。しかし、柴山が艦隊派のリーダーと目されながら艦隊を率いて日清・日露戦争を戦えなかったのは、山本との対立が影を落としていたためともいわれています(『薩の海軍・長の陸軍』)。38年1月、旅順口の初代鎮守府司令長官兼ねて旅順港海面整理方針取調委員長を仰せつかります。ここでの柴山の仕事は、再生して海軍に編入するため、沈没したロシア軍艦の引き揚げでした。下記史料(「柴山旅順港海面整理方針取調委員長ノ報告」)は、6隻の沈没軍艦を引き揚げる際の引揚方法、器具機械及び材料、人員、予算、などが要図とともに記されています。