日露戦争開戦120年
陸軍中佐 橘周太 慶応1年~明治37年〔長崎〕
-首山堡で死した軍神 歩兵第34連隊第1大隊長-

- 橘周太中佐 「明治29年12月1日~大正6年9月19日 歩兵第34連隊史」
(中央-部隊歴史連隊-137)から引用
主要略歴
明治20年7月陸軍士官学校卒業(旧9期)・少尉・第5歩兵連隊付、21年12月近衛歩兵第4連隊付、24年1月東宮武官、25年4月中尉、28年7月大尉、28年11月大本営付、12月近衛歩兵第4連隊中隊長、29年3月台湾守備歩兵第2連隊中隊長、29年9月近衛歩兵第4連隊付、29年11月歩兵第36連隊中隊長、30年5月戸山学校教官、35年4月少佐・名古屋地方幼年学校長、37年3月第2軍管理部長(出征)、37年8月歩兵第34連隊大隊長、37年8月遼陽の戦闘で戦死・中佐進級
人物解説
橘は、高潔な人間性と資質を認められ、明治24年1月、少尉で東宮武官として皇太子(大正天皇)の教育係を命ぜられます。橘は病弱の東宮に愛情の中にも厳しく接します。その後、大尉となった橘は、中隊長などを歴任、頗る教育を熱心に行い、いくつかの書物を著しました。35年4月には少佐で名古屋陸軍地方幼年学校長に補せられ、率先垂範、愛情の中にも厳しく生徒を教育します。37年3月には第2軍の軍管理部長として日露戦争に出征、8月には歩兵第34連隊第1大隊長となり、遼陽に攻撃前進する第2軍の先頭を進みます。当時、露軍の陣地は、遼陽南方、首山堡高地を中心にその東西数里にわたっていました。橘指揮する第1大隊は、8月30日、饅頭山で露軍と接触します (下掲史料①)。橘は同山への突撃を命じ、率先、部下を激励し、山地中央の散兵壕に、続いて頂上の塹壕陣地に突入します。しかし、露軍の逆襲により、頂上付近は惨状を極めます。橘は5発の弾丸を受け、さらに砲弾の破片が尻部を貫通、その場に倒れます。本部の内田軍曹が橘を高地から下げますが、遂に砲弾が胸を貫通します。橘は苦痛の姿はみじんも見せず、部下を激励し、陣地の状態、上司、部下の安危を気遣い、最期に皇太子殿下ご誕生の日に戦死することは名誉とし、午後6時半、絶命します(下掲史料②)。橘は、海軍の軍神廣瀬中佐に比する模範とすべき人と賞賛されました。