日露戦争開戦120年
陸軍大将 大迫尚敏おおさこなおとし 弘化1年~昭和2年〔鹿児島〕

-旅順203高地を占領した第7師団長-

大迫尚敏
  • 大迫尚敏大将
  • 「日露戦役記念写真帖」(戦役-写真-80)から引用

主要略歴

明治4年3月御親兵、7月少尉、8月中尉、6年2月陸軍省八等出仕、7年8月大尉、 10年2月~9月西南戦役出征、4月少佐熊本鎮台参謀、16年6月中佐・歩兵第6連隊長、18年5月近衛歩兵第1連隊長、20年4月大佐、23年10月第4師団参謀長、 24年6月参謀本部第1局長、25年9月少将・歩兵第5旅団長、27年9月~28年6月出征、31年8月参謀本部次長、31年10月中将、33年4月第7師団長、37年11月~39年2月日露戦役出征、39年5月大将、7月休職、40年11月予備役、大正元年~6年学習院長

人物解説

大迫は薩摩藩士の家に生まれ、弟の尚道とともに兄弟で大将まで昇進しました。戊辰の役、西南の役に従軍し、日清戦争では、旅団長として第3師団長桂太郎麾下、各地に転戦します。33年4月には第7師団長に補せられ、明治37年開戦の日露戦争においては、11月26日から旅順要塞東北正面に対し第3回総攻撃を行う乃木希典の指揮下、第3軍の総予備となります。しかし、この第3軍主力による第3回攻撃が失敗したため乃木は27日、主攻撃正面を203高地に変更し、温存していた第7師団を203高地正面へ投入することを決意します。大迫は、29日、高崎山の第1師団司令部に到着し、203高地攻撃の指揮権を継承します。12月1日まで203高地をめぐる露軍との争奪戦が続きますが、死傷者の収容と態勢整備のため、一時攻撃を中断し、準備を整えた大迫は4日、「師団は明日#203高地の攻撃を再興せんとす」(下掲史料①)と攻撃命令を下達します。当時の203高地一帯をめぐる大迫指揮する攻撃隊と露軍の態勢は、下掲史料②のように、高地頂上に陣取る露軍の直下まで塹壕を構築して対峙するという緊迫したものでした。5日9時過ぎから第7師団歩兵第27連隊が死守していた西南部の一角を攻撃の支点として攻撃隊がまず203高地西南堡塁を攻撃し、同高地を完全に占領します。早速、第3軍は観測所を設けて旅順港の残存艦隊を砲撃撃沈しました。予備役となった大迫は、大正元年、乃木の後の学習院院長となります。

関連史料

①「旅順攻囲軍参加日誌 別綴」(⑪-日露-M37-559)
②「旅順方面に於ける第三軍戦闘詳報 第一〇号」(戦役ー日露戦役ー220)

旅順攻囲軍参加日誌
①「旅順攻囲軍参加日誌 別綴」(⑪-日露-M37-559)
②「旅順方面に於ける第三軍戦闘詳報 第一〇号」(戦役ー日露戦役ー220)
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