日露戦争開戦120年
海軍大将 片岡七郎 嘉永6年~大正9年〔鹿児島〕
-樺太攻略軍の海上輸送、上陸を掩護した第3艦隊司令長官-

- 片岡七郎 大将 「近代日本人の肖像」(国立国会図書館)から引用
主要略歴
明治4年9月海軍兵学寮入寮、10年6月少尉、19年4月少佐、22年5月佐世保鎮守府参謀、11月ドイツ出張、23年5月ドイツ公使館付、9月大佐、27年9月帰朝・軍令部出仕、12月金剛艦長、28年2月浪速艦長、12月橋立艦長、29年11月砲術練習所長、30年12月八島艦長、31年11月常備艦隊参謀長、32年2月海軍省人事課長、6月少将・呉鎮守府艦隊司令官、33年5月呉鎮守府艦政部長、35年7月竹敷要港部司令官、36年9月中将、12月第3艦隊司令長官、38年12月第1艦隊司令長官、39年11月艦政本部長、40年9月男爵、41年8月舞鶴鎮守府司令長官、43年12月大将、44年1月待命、44年12月軍事参議官、大正3年1月高等軍法会議判士長、6年4月待命、6年5月予備役
人物解説
片岡の語学力は非常に優れていて海軍部内で比肩するものは少なかったといわれます。片岡は、少佐で伏見宮博恭王・山階宮菊麿呂王両殿下の御洋行に随伴しドイツに留学、そのまま公使館付武官となりました。初めての実戦である明治27年からの日清戦争では、「金剛」艦長として威海衛への砲撃支援、28年には「浪速」艦長として台湾占領に赴きました。この間、温情、寛容の徳をもって部下から敬愛されました。37年からの日露戦争には、第3艦隊司令長官として出征します。この艦隊は、老齢艦が多かったにもかかわらず、朝鮮海峡の守備、旅順封鎖、38年5月の日本海海戦では大捷をなす要因となったバルチック艦隊の対馬水道への誘致など多くの功績を残しました。この大海戦の成果をもって、さらに優位に講和条約を進めるために南樺太を占領することとなり、片岡は、第3艦隊、第4艦隊、第1駆逐隊を率い、この樺太攻略軍である独立第13師団のコルサコフを占領する第1次上陸、アレキサンドル港を攻略する第2次上陸をそれぞれ掩護しました(下掲史料①②)。独立第13師団は、7月28日に在樺太露軍の降伏により全島を占領し、9月に調印された日露講和条約では北緯50度以南の樺太が日本領となります。この樺太占領における片岡の功績から海軍では、樺太の北知床岬及び多来加湾を「片岡岬」、「七郎湾」と呼ぶこととなります(下掲史料③)。