日露戦争開戦120年
陸軍中将 梅沢道治うめざわみちはる 嘉永6年~大正13年〔宮城〕

-花の梅沢旅団 沙河会戦の右翼を守った近衛後備混成旅団長-

梅沢道治中将
  • 梅沢道治 中将
  • 「歩兵第四十聯隊史(大正九年版)」から引用

主要略歴

明治4年1月大阪陸軍兵学寮青年舎、5年3月少尉心得・教導団付、5年6月少尉、7年4月中尉、10年2~10月西南戦争出征(歩兵第3連隊)、14年9月大尉・近衛歩兵第1連隊副官、14年10月歩兵第12連隊中隊長、15年3月人事局課員、17年6月近衛歩兵第2連隊中隊長、20年4月少佐・近衛歩兵第1連隊付、21年5月歩兵第24連隊大隊長、25年2月歩兵第23連隊大隊長、28年1月第2軍兵站司令官、28年1~5月日清戦争出征、28年4月中佐、29年9月歩兵第40連隊長、32年2月大佐、33年3月近衛歩兵第4連隊長、37年3月日露戦争出征、37年7月少将、37年7月後備歩兵第5旅団長(未赴任)、11月近衛後備歩兵第1旅団長、38年11月帰国、39年2月近衛歩兵第2旅団長、44年9月中将・第6師団長、大正4年10月後備役

人物解説

梅沢は、五稜郭の戦いで初陣、明治5年6月少尉任官、西南戦争、日清戦争と従軍し、明治32年には大佐、近衛歩兵第4連隊長となり日露戦争下、停年満期のところ前日少将に昇進、近衛後備歩兵第1旅団長となり出征します。同旅団は近衛後備混成旅団となり、37年9月初旬の遼陽会戦の後、日露両軍が沙河を挟んで対峙する右翼第1軍の最右翼に配備されます。露東部兵団は10月5日頃から第1軍を包囲するように梅沢旅団正面から攻撃を開始します。第1軍司令官は、7日、梅沢旅団に楡樹底下一帯まで後退することを厳命します(下掲史料①)。副官の荒木貞夫大尉(後大将)は、その晩糧秣などを後退させ部隊は翌日後退させましょうと上申しますが、梅沢は頑とはねつけ、「わしは若い時に五稜郭の戦ひに出陣したがなう、と角いくさといふものは君らが陸軍大学の机上で習ったのとは異ふよ。いくさには『にほひ』というものがある」(『参戦二十将星回顧卅年 日露大戦を語る〔陸軍篇〕』)と返します。荒木は何も言えず、その晩中に全部隊あげて退却します。結果、8日から下掲史料②のような激戦が開始されましたが、楡樹底下~本渓湖一帯で持ちこたえます。荒木は後年、もし1日遅れていたらと「いくさのにほひ」に驚嘆のほかありませんでした。そんな梅沢旅団は、「花の梅沢旅団」と呼ばれるようになります(前掲書)。

関連史料

「沙河会戦に於ける第1軍戦闘詳報」(戦役-日露戦役-205)

「沙河会戦に於ける第1軍戦闘詳報」(戦役-日露戦役-205)
①「沙河会戦に於ける第1軍戦闘詳報」(戦役-日露戦役-205)
②「沙河会戦に於ける第1軍戦闘詳報」(戦役-日露戦役-205)