日露戦争開戦120年
陸軍中将 伊地知幸介 安政元年~大正6年〔鹿児島〕
-203高地攻略、第3軍司令官を補佐した参謀長-
主要略歴
明治5年6月幼年学舎入校、8年12月陸軍士官学校入校、10年4月~5月西南戦争出征、12年2月砲兵少尉、5月陸軍士官学校卒業(旧2期)、13年5月~15年及び17年2月~21年6月ドイツ留学、22年11月砲兵少佐・野戦砲兵第1連隊大隊長、24年6月参謀本部第2局員、27年9月砲兵中佐・第2軍参謀副長、29年5月参謀本部第1部長、30年10月砲兵大佐、31年12月イギリス公使館付、33年4月少将、10月参謀本部第1部長、35年5月野戦砲兵監、37年1月京城公使館付、3月~39年2月野戦砲兵監、37年5月第3軍参謀長、38年1月旅順要塞司令官、39年4月東京湾要塞司令官、39年7月中将、40年9月男爵、41年12月第11師団長、43年11月待命、44年11月休職、大正2年1月予備役
人物解説
伊地知の軍歴は、それぞれ2回にわたるドイツ留学、公使館付などの外国勤務、参謀本部第1部長、野戦砲兵監など異色のものです。また、第2軍参謀副長として約1年半、軍司令官大山巌に仕えています(伊地知は大山の女婿)。そんな伊地知は、明治37年5月、旅順攻略を任務とする第3軍参謀長となります。6月上旬遼東半島に進出した第3軍は、予定の旅順要塞攻囲線に7月30日頃進出し、8月16日から第1回総攻撃を決行します。しかし1万名をはるかに超える死傷者を出し盤竜山東・西堡塁のみの占領にとどまります。続いて攻撃方法を対壕を活用する正攻法に転換し9月19日頃から前進堡塁への突撃を開始します。伊地知は軍参謀長として作戦もさることながら、軍全体の士気、弾薬補給など見えない部署に目を配ります。下掲史料①は、9月29日、参謀次長に大本営が戦況を秘密にするので、露側が日本軍の死傷者数を誇大に報じ、補充兵が脅え軍の士気に問題をきたしていると訴えているものです。下掲史料②は、これに対し参謀次長が、「補充兵の士気を振作するは甚だ必要の事なるを以て貴軍関係留守各部隊には貴軍の有利なる戦況にて通報することに取計ふ」と返信したものです。こうした問題も乗り越え、第3軍は12月5日、203高地を奪取、1月1日には望台を占領、露軍は白旗を掲げました。