日露戦争開戦120年
元帥陸軍大将 野津道貫 天保12年~明治41年〔鹿児島〕
-析木城の戦い、軍は前面の敵を攻撃せんとす、第4軍司令官-
![野津道貫大将](./img/siryo44_person.jpg)
- 野津道貫 大将 「近代日本人の肖像」(国立国会図書館)から引用
主要略歴
小隊長で戊辰戦争に参加、明治4年3月藩兵3番大隊付教頭として上京(御親兵)、7月少佐・2番大隊付、5年8月中佐・近衛局分課、6年3月陸軍省第2局副長、7年1月大佐・近衛参謀長心得、10年2月~10月第2旅団参謀長(西南戦争出征、5月~8月豊後国指揮官)、11年11月少将・陸軍省2局長、12月東京鎮台司令長官、17年2月~18年1月陸軍卿大山巌の欧州出張随行、17年7月子爵、18年5月中将・広島鎮台司令官、21年5月第5師団長、27年8月~28年5月日清戦争出征、27年12月第1軍司令官、28年3月大将、28年8月伯爵、28年11月近衛師団長、29年5月東京防禦総督、29年10月東部都督、33年4月教育総監、37年1月軍事参議官、37年6月第4軍司令官、37年7月~39年1月日露戦争出征、39年1月元帥、40年9月侯爵・貴族院議員、41年10月死去
人物解説
野津は、鳥羽伏見の戦いから函館まで転戦の後、明治4年3月、藩の御親兵として上京、7月陸軍少佐に任ぜられます。7年1月大佐に昇進し、近衛参謀長心得で佐賀の乱、また10年の西南の役では第2旅団参謀長として出征し功を為します。日清戦争には第5師団長として出征、勇猛果敢に指揮し平壌を攻略します。27年12月、第1軍司令官山県有朋大将が内地帰還の際は、野津が変わって第1軍を指揮し、海城、牛荘、営口、田庄台と連戦戦勝、戦時中の28年3月大将に昇進します。凱旋後は、近衛師団長、東京防禦都督、教育総監、軍事参議官を務めましたが、日露戦争勃発後の6月下旬、第4軍が編成され野津はその司令官に任ぜられます。猛進する性格を有する野津には、軍の要である参謀長に女婿である上原勇作少将(のち元帥陸軍大将)を配しました(下掲写真①)。野津は、7月16日に遼東半島岫厳で軍の指揮を執り、28日には満州軍総司令官から第10師団と第5師団を指揮して析木城を占領せよとの訓令を受領します。野津にとり2個師団を指揮しての緒戦です。下掲の史料(②③)は、析木城付近における第4軍の戦闘詳報です。この戦いに勝利した第4軍は、さらに遼陽へと向かいます。明治39年1月17日凱旋した野津は、31日に元帥の称号を賜り、侯爵となります。その後貴族院議員などを務めますが、41年10月68歳で死去します。