日露戦争開戦120年
陸軍大将 松川敏胤 安政6年~昭和3年〔宮城〕
-日露戦争における陸軍の中枢、満州軍総司令部とその作戦参謀-
主要略歴
明治15年12月陸軍士官学校卒業(旧5期)、20年12月陸軍大学校卒業(3期)、28年4月少佐・第2軍参謀、28年5月台湾総督府陸軍局参謀(出征)、12月陸大教官、32年2月中佐、6月ドイツ公使館付、34年11月大佐、35年5月~41年12月参謀本部第1部長、37年6月~38年12月満洲軍参謀(作戦主任)、38年1月少将、39年4月~39年11月兼参謀本部第5部長、41年12月歩兵第6旅団長、44年9月歩兵第2旅団長、45年2月中将・第10師団長、大正3年8月第16師団長、5年8月東京衛戍総督、6年8月朝鮮駐箚軍司令官、7年5月朝鮮軍司令官、7月大将・軍事参議官、11年11月待命、12年3月予備役
人物解説
松川は、明治18年9月、陸軍大学校に第3期生として少尉で入校、メッケル教授の指導を受け陸軍有数の戦術家として名を馳せ、大尉で同校の教官を務めています。仙台城址に恩顧を受けた学生建立の「松川大将之碑」が残ることからその人柄がわかります。その後、ドイツ留学、第2軍参謀、在独日本公使館付などを歴任し、35年5月から41年12月までの6年半にわたり参謀本部第1部長を務めます。この間、日露戦争のため37年6月20日に満州軍総司令部が編制されると38年12月まで同司令部の作戦主任参謀を兼務します。下掲史料はその時の満州軍総司令部の職員人馬概見表(松川が参謀として掲載)と新橋駅から満州に前進するための満州軍日日命令です。松川ら一行は、新橋駅で軍楽隊の演奏を以て見送られたことがわかります。満州での松川は、大石橋、遼陽、沙河、黒溝台、奉天と児玉源太郎参謀総長を補佐し満州軍が大勝を得る基を築きました。谷壽夫『機密日露戦史』(原書房、1976年)によると、203高地の攻撃に拙攻を重ねる第3軍に赴く児玉に「乃木将軍へ、予に代り兒玉を差遣わす。兒玉の云う所は予の云う所と心得べし」との大山巌総司令官の書簡を持たせたのも松川と言われています。松川があっての満州軍総司令部だったともいえるでしょう。