海軍大将 上村彦之丞かみむら ひこのじょう 嘉永2年~大正5年〔鹿児島〕

浦鹽斯德ウラジオストク方面の敵を撃破若しくは威嚇せよ、第2艦隊司令長官-

上村大将

主要略歴

明治10年6月海軍兵学寮卒業、27年6月「秋津洲」艦長(日清戦争)、12月大佐、28年7月常備艦隊参謀長、30年12月海軍省人事課長、32年2月英国出張(朝日回航委員長)、32年9月少将・駐英造船造兵監督長、33年10月海軍省軍務局長、35年3月兼軍令部次長、35年10月常備艦隊司令長官、36年9月中将・教育本部長、36年12月第2艦隊司令長官(日露戦争)、38年12月横須賀鎮守府司令長官、40年9月男爵、42年12月第1艦隊司令長官、43年12月大将、44年12月軍事参議官、大正3年5月後備役

人物解説

上村は、戊辰戦争に参加し、明治4年海軍兵学寮に入寮、10年6月卒業、少尉補となりました。明治27年の日清戦争では「秋津洲」の艦長として黄海海戦、豊島沖海戦に参戦します。そして第2艦隊司令長官として迎えた日露戦争では、対馬海峡以東の日本海全域の警戒とウラジオ艦隊の撃滅という任務を受領します。明治37(1904)年2月10日宣戦布告後数日にしてウラジオストクのロシア艦隊は、日本海に出没しました。連合艦隊は、3月1日、上村に、ウラジオ港前面に出撃し海上の敵を威嚇若しくは撃破、陸上の敵をウラジオ方面に牽制するよう訓令を与えます。上村は、3月2日08時、艦隊を率いて韓国南岸八口浦を出発、ウラジオストクに向かいます(下掲史料①②)。ウラジオストク付近では、濃霧と雪、結氷海面に悩まされますが、6日13時17分、艦隊主力は戦闘部署に就き、53分から8インチ砲の間接射撃を開始しました。さらに陸地から4千mまで近づき、14時10分、8インチ砲は距離約1万m先の造船廠、船渠付近、6インチ砲は8千m前後の諸砲台を目標に砲撃しました(下掲史料③)。艦隊は14時27分射撃をやめ離脱をします。発射弾数は、8インチ弾106発、6インチ弾130発でした。その後、上村率いる第2艦隊は、蔚山沖海戦でウラジオ艦隊に打撃を加え、本来の任務である日本海の安全を確保します。

関連史料

関連史料①「極秘 明治三十七八年海戦史 第一部 巻十」(⑨-千代田-483)
    ②③「極秘 明治三十七八年海戦史 第一部 巻十、十一附表及附圖」(⑨-千代田-485)

関連史料「極秘 明治三十七八年海戦史 第一部 巻十」
関連史料「極秘 明治三十七八年海戦史 第一部 巻十、十一附表及附圖」
関連史料「極秘 明治三十七八年海戦史 第一部 巻十、十一附表及附圖」
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