陸軍中将 片桐茂 明治25年~昭和19年〔愛媛〕

-昭和18年後半、ニューギニア、フィンシハーヘンの攻防、第20師団長-

片桐茂中将

主要略歴

大正2年5月陸軍士官学校卒業(25期)、大正13年11月陸軍大学校卒業(36期)、 昭和4年3月騎兵少佐・参謀本部部員、4年12月陸軍大学校専攻学生、5年11月陸軍大学校教官、7年3月三笠宮付武官、 7年12月騎兵中佐、10年3月騎兵学校教官、11年1月騎兵第27連隊長、 12年8月騎兵大佐、12年11月第1師団参謀長、14年8月少将・騎兵学校付、14年9月騎兵第1旅団長、15年12月騎兵監部付、16年3月農林省馬政局次長、 17年12月中将、18年7月第20師団長、19年4月ニューギニアで戦死

人物解説

片桐は、昭和4年12月、選抜され陸軍大学校専攻学生となり、「対露将来戦における国軍の統帥と宣伝謀略との関係」について研究します。しかし、片桐が後年直面するのは、対露戦ではなく対米戦でした。昭和18年9月22日、米軍がニューギニアの要衝、ダンピール海峡、フィンシハーヘンに上陸します。片桐指揮する精鋭第20師団は邀撃を命ぜられ、上陸したオーストラリア第9師団に対して2か月以上にわたり攻勢作戦を継続します。この間、ジャングルの中で野営する将兵は、豪雨に濡れるに任せ、被服はボロボロ、裸足のものも多く、また糧食の欠乏から健兵は一人もいないという状況でした。そんな中でも片桐は、終始極めて冷静に先々を見通し、積極的な指揮に努めました。しかし、さすがの片桐も11月下旬、戦力の低下から転進を考えますが、今度は、上級部隊から「断固玉砕するまで攻撃を続行せよ」と命じられます。師団の総員数は2万から3千程度となっていました。そんな中、敵部隊が師団の左翼ラコナ部落に猛攻を開始します。すでに迎え撃つ兵力も手段も持ち合わせていなかった片桐は、12月15日、事実上の撤退である「逐次ラコナ川北岸拠点に配備を移行」することを決心しました(下掲史料)が、その直後、撤退を命じられます。片桐は、19年4月28日、ニューギニア北岸沿いに舟艇移動中、突如出現した連合軍魚雷艇3隻から集中砲火を浴び戦死します。

関連史料

関連史料「第20師団(朝)作戦命令綴」
(南東-東部ニューギニア-155)

関連史料「第20師団(朝)作戦命令綴」
関連史料「第20師団(朝)作戦命令綴」