陸軍中将 横山勇 明治22年~昭和27年〔福島〕

-昭和18年11月2日、「常徳作戦」開始、支那派遣軍第11軍司令官-

横山勇中将

主要略歴

明治42年5月陸軍士官学校卒業(21期)、大正4年12月陸軍大学校卒業(27期)、
昭和3年8月中佐(資源局事務官)、4年4月資源局企画部2課長、7年4月関東軍司令部付、7年8月大佐、8年8月整備局動員課長、9年8月歩兵第2連隊長、11年3月第6師団参謀長、12年3月少将・兵器本廠付、12年10月企画院総務部長、14年10月企画院1部長、14年8月中将・東部防衛司令部付、9月第1師団長、16年10月第4軍司令官、17年12月第11軍司令官、19年11月西部軍司令官、20年2月第16方面軍司令官兼西部軍管区司令官、20年10月予備役、21年7月逮捕、23年8月死刑判決、25年7月減刑、27年4月病死

人物解説

横山は資源局、陸軍省整備局、企画院などの部署を歴任の後、昭和14年9月、第1師団長に親補されて以降、第4軍・第11軍司令官、西部軍司令官、第16方面軍司令官と指揮官職を歴任します。指揮官として戦場に赴く横山は、常にはがきを持ち歩き、景色や風物を走り書きしていました。部下だった芸術家の岡本太郎上等兵に作品の指導を受けたこともありました。一方で横山は、軍司令官の任務は戦争に勝つことだと、作戦第一主義に徹しました。必ず事前に兵棋演習を行い問題点などの対策を立て、重要な場面では第一線へ進出、自ら決心しました。蒋介石の根拠地であった重慶に脅威を与える戦略上の要衝・常徳の敵軍撃滅を目的に、18年11月から行われた常徳作戦(横山の頭文字を取り「よ号作戦」、下掲史料①)では、頑強な抵抗を受けたものの常徳を攻略、多くの敵を撃破したため派遣軍命令をもって反転、帰還を準備します。ところが大陸打通作戦を計画していた参謀本部から常徳確保を指導された派遣軍は再度の常徳占領を命令します。これを妥当とみなさなかった横山は、「得策ニアラサル」と派遣軍総司令部と参謀次長に「第一線軍ノ統率上ヨリ」と意見具申の電報を打電しました(下掲史料②)。総司令官は不快に感じたものの、命令を撤回します。その後、横山は九州を担当する第16方面軍司令官で終戦を迎えますが、27年4月、巣鴨プリズンで病死します。

関連史料

関連史料①「支那方面作戦記録 第2巻」(支那-大東亜戦争全般-67-1)
    ②「中支那方面 支那派遣軍第11軍 関係電報綴」(中央-作戦重要電報-48)

関連史料①「支那方面作戦記録 第2巻」(支那-大東亜戦争全般-67-1)
関連史料②「中支那方面 支那派遣軍第11軍 関係電報綴」(中央-作戦重要電報-48)
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