海軍少将 酒井原繁松 明治27年~昭和22年〔山形〕
-昭和18年10月6日、ウェーク(大鳥)島大空襲、第65警備隊司令-
![東條英機大将](./img/siryo37_person.jpg)
- 酒井原繁松少将
- 『戦史叢書 中部太平洋方面海軍作戦〈2〉』 口絵から抜粋
主要略歴
大正7年11月海軍兵学校卒業(46期)、
昭和5年12月少佐・砲術学校教官兼分隊長、9年10月「高雄」砲術長、
10年11月中佐・「陸奥」砲術長、
昭和15年11月大佐・佐世保海兵団副長、
16年11月佐世保第二海兵団副長、
17年12月第65警備隊司令、
19年10月少将、22年6月歿(法務死)
人物解説
酒井原は、主に艦艇の砲術長、海兵団の教官などを歴任しましたが、昭和17年12月14日、第65警備隊司令としてウエーク島に着任します。警備隊司令は、同島所在の陸軍部隊も指揮し、太平洋の真ん中にある面積約10.5平方キロほどの孤島に陸海軍各約2000名が駐屯しました。ウェーク島は度々米爆撃機の空襲を受けましたが、特に18年10月6日、7日の両日は、米艦載機約740機の空襲と4000発以上の艦砲射撃を受け島の様相が一変する大損害を被りました(下掲史料①陸軍担当地域のみ)。酒井原は米攻略部隊上陸必至と判断、所要の準備をしましたが、結局米軍は、上陸しませんでした。しかし、集積糧秣の大部を焼失したことは、その後の在島部隊の生存に大きな影響を与えます。細々と続いた補給も19年2月のマーシャル諸島クェゼリン島玉砕以降ほとんど途絶し、空襲による戦死に加え衛生状況の悪化と栄養失調により死者が増大します。19年9月に第1回目の潜水艦補給があり多少は回復したものの、20年3月以降は再び死者が増大します。下掲史料の②は、19年から20年にかけての月毎の栄養失調による警備隊の死者数を表したものです(20年6月が最多)。ウェーク島での終戦までの戦死、戦病死者総数は1600名を超え、そのうち栄養失調などの戦病死は8割を占めました。酒井原は戦後、戦犯となり死刑判決が出され、22年6月19日に刑が執行されます。