陸軍中将 雨宮巽 明治25年~昭和20年〔山梨〕
沖縄に散った「支那通」の第24師団長
主要略歴
大正3.5陸軍士官学校卒業(26期)、14.11陸軍大学校卒業(37期)
昭和4.8少佐・参謀本部付(支那駐在)、5.3歩兵第49連隊大隊長、
6.3参謀本部部員(支那課)、8.8兼陸大教官
9.3中佐、9.12~12.1南京駐在武官、12.1軍務局付(新聞班)、
12.11大佐・大本営報道部企画課長、13.7北支那方面軍参謀(2課長)、
14.7兵器本部廠付(商工省物資調整官)
15.8少将、16.3北支那方面軍司令部付(天津特務機関長)、
18.6独立混成第9旅団長
18.10中将、19.2第24師団長
人物解説
雨宮は、支那駐在、参謀本部支那課、南京駐在武官などを勤め、いわゆる陸軍の「支那通」でした。雨宮は、昭和12年11月、大佐に昇進し、大本営報道部企画課長(内閣情報部情報官兼務)となり、「支那の抗日思想戦」という講演を行い(下掲史料)、思想戦、宣伝戦は「大体支那人の方が上手ぢゃないかと思います」と述べています。18年10月中将となった雨宮は満州の第24師団長に親補されますが、19年7月、沖縄第32軍の隷下に編入されます。師団は当初本島中部中頭地区、その後、南部島尻地区に配備されます。防御準備間、雨宮は、地元住民に迷惑をかけまいと、民家を接収せず、茅葺き小屋を作らせ兵舎にするなど、可能な限りの配慮をします。4月1日米軍が上陸、第24師団は軍命令により第一線へ配備変更され、また総攻撃の主力となり甚大な損害を受けます。その後、第32軍の島尻地区撤退にともない、雨宮以下師団司令部は摩文仁まで約2キロの宇江城の壕に後退しますが、6月23日には米軍に完全に包囲されます。極限状態の壕内で雨宮は、「誰か劇作家がいて、この最期を劇にすればきっと素晴らしいものになるだろうなあ」と独り言をいい、6月24日午前2時頃自決したといわれます。
〈参考〉終焉の地(糸満市宇江城)には「山雨の塔」が建てられています。