海軍大将 伊藤整一 明治23年~昭和20年〔福岡〕
沖縄突入作戦を指揮した第2艦隊司令長官
主要略歴
明治44.7海軍兵学校卒(39期)、大正12.10海軍大学校卒(甲種21期)、
昭和6.12大佐・鶴見特務艦長、7・3中華民国駐在(満洲特務機関付)
8・4駐満海軍部付、8・11木曽艦長、9・4人事局1課長、10・11最上艦長
11・4愛宕艦長、11・12榛名艦長、12・11第2艦隊参謀長
12・12少将、13・12人事局長、15・11第8戦隊司令官
16・4連合艦隊兼第1艦隊参謀長、16・9軍令部次長
16・10中将、16・10~17・6兼海軍大学校長、19・3~19・11兼海軍大学校長
19・12第2艦隊司令長官、20・4・7沖縄特攻で戦死・大将進級
人物解説
伊藤は、少・中佐時代、米国に駐在し、米海軍情報課のレイモンド・スプルーアンス中佐と親交を深めます。その後、栄進を続け、昭和16年9月に軍令部次長となり、開戦以来、海軍作戦を指導しますが、敗色濃い19年12月、第2艦隊司令長官に親補されます。20年4月、米軍が沖縄に上陸した際、連合艦隊は、第2艦隊の任務について、沖縄突入、日本海退避、本土防衛の浮砲台、と三案考えますが、沖縄への海上特攻を命じます。このため第1遊撃部隊指揮官となった伊藤は、4月6日、沖縄突入を下令し(下掲史料)、15:20徳山を出撃します。翌7日昼頃、大和艦橋の伊藤は、「午前中はどうやら無事にすんだな」と安堵します(吉田満『提督伊藤整一の生涯』)が、12:40頃にはスプルーアンス指揮下の艦上機群約200機が来襲します。さらに13:30には約150機の第二波が来襲、大和には10発の魚雷が命中、14:17、大傾斜(艦底露出)、誘爆もあり瞬時に沈没し、伊藤も運命をともにします。