日露戦争120年
―日露戦争に関する旧日本陸海軍の史料―
令和6(2024)年は、明治37(1904)年の日露開戦から120年の節目にあたります。
本デジタル史料展示では、防衛研究所戦史研究センター史料室が所蔵する、日露戦争に関する旧日本陸海軍の史料を展示します。具体的には、ロシア軍の一大拠点であった旅順をめぐる攻防戦や、奉天会戦と日本海海戦に関する史料について紹介します。
1.旅順港閉塞作戦
不凍港である旅順港は、東アジアにおけるロシア艦隊の一大拠点です。
司令長官・東郷平八郎の率いる連合艦隊は、ヨーロッパから派遣されるロシア・バルチック艦隊が東アジアに到達する前に、旅順のロシア艦隊を撃滅しようとしました。もし両艦隊の合流を許せば、連合艦隊は倍以上の規模の敵艦隊と対峙することになり、極めて不利な状況に陥ることになります。
連合艦隊は初めに、港外の敵艦隊の撃滅を図るも失敗、港内の奥深くに逃しました。そこで連合艦隊は、港内に籠る敵艦隊の出入りを封じるため、港口に艦船を沈めようとします。
この旅順港閉塞作戦は3回実施されました。閉塞隊の各艦船は夜陰に紛れ、港口付近まで航海し自沈する計画でした。2回目の作戦で「福井丸」指揮官の広瀬武夫・海軍少佐は戦死します(死後、海軍中佐)。連合艦隊はロシア側の砲撃による頑強な抵抗に遭い、港口の完全な封鎖に失敗しました。
- 【史料①】「福井丸」指揮官・広瀬中佐の戦死状況
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指揮官・広瀬中佐は、「福井丸」で旅順港口をめがけて突入し、自沈後、部下の杉野孫七・海軍兵曹長が行方不明であることに気が付きます。杉野兵曹長は見つかりませんでした。広瀬中佐は残りの部下と共に退避中、敵弾にたおれます。
本史料には、このような広瀬中佐の戦死までの状況が記されています。
- 【史料②】広瀬武夫・杉野孫七・「福井丸」の写真
- 本史料は、広瀬中佐と杉野兵曹長の写真、そして日露戦争後に撮影された旅順港口付近の写真です。
2.旅順要塞攻城戦
司令官・乃木希典の率いる第三軍は、旅順要塞を陥落させて港内のロシア艦隊を無力化しようとします。旅順要塞への総攻撃は3回実施されました。
主攻は要塞東北方面、具体的には東鶏冠山砲台と二竜山砲台に向けられます。第三軍は同方面を抜き、望台高地の陥落によって要塞全体の崩壊に導こうとしました。
しかし、旅順要塞の堅固な守りは第三軍に甚大な犠牲を払わせます。第三軍は要塞の東北方面への攻撃を継続する一方で、海軍の要請を受け、港内を見渡せる203高地の攻略に踏み切りました。
明治37(1904)年12月6日、第三軍は203高地の攻略に成功し、同地に観測所を設置します。この観測所から港内のロシア艦隊の位置を確認し、砲撃によって同艦隊を無力化しました。そして明治38(1905)年1月には望台の攻略にも成功し、旅順要塞のロシア軍を降伏させます。
- 【史料③】第三軍攻城砲兵の展開
- 本史料は、1回目の総攻撃における第三軍の攻城砲兵の展開を記したものです。色鉛筆によって砲撃の方向と範囲が示されています。1回目の総攻撃の時点においては、砲撃の狙いが203高地ではなく、あくまで要塞正面、特に東北方面に向けられていたとわかります。
- 【史料④】二十八珊(サンチ)榴弾砲・水師営の会見・旅順に入る第三軍の写真
- 第三軍は1回目の総攻撃の後、日本本土から二十八珊榴弾砲を入手します。二十八珊榴弾砲は旅順要塞の陥落に貢献しました。要塞陥落後、司令官・乃木希典と旅順要塞の司令官ステッセルは水師営で会見します。この時、日本側がステッセルらに帯刀を認めたことはよく知られています。
3.奉天会戦
明治38(1905)年3月、総司令官・大山巌の率いる満州軍は、ロシア極東陸軍(総司令官・クロパトキン)と奉天(現在の中国東北部の都市・瀋陽)付近において衝突しました。満州軍の総兵力は約25万人、ロシア軍は約31万人でした。
司令官・乃木希典の率いる第三軍はロシア軍の北方に回り込み、その退路を断とうとします。3月9日、ロシア軍は退却を開始。満州軍は翌10日、奉天を占領します。この3月10日は日露戦争後、陸軍記念日となりました。
- 【史料⑤】奉天会戦の戦況図
- 本史料は明治38年3月9日と翌10日の日露両軍の戦況図です。赤色がロシア軍、それ以外が日本軍を示しています。線路に沿って北へ退却するロシア軍の様子がわかります。
- 【史料⑥】奉天会戦における第三軍諸隊の位置図
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秋山好古少将の率いる秋山支隊は第三軍の一員でした。
本史料は明治38年3月10~11日の第三軍とロシア軍の位置を示した図です。ロシア軍は赤色(10日)と茶色(11日)、第三軍は黄緑(10日)、青色(11日)で示されています。秋山支隊(黒色の丸枠)の名前が確認できます。
4.日本海海戦
明治38(1905)年5月27日、連合艦隊は対馬東方近海において、ロシア・バルチック艦隊を迎え撃ちました。同日から翌日にかけて繰り広げられた戦いが日本海海戦です。
この海戦で、バルチック艦隊の戦艦6隻と装甲巡洋艦3隻、駆逐艦4隻等が沈没しました。これに対し、連合艦隊の被害は水雷艇3隻等の沈没に留まりました。この5月27日は日露戦争後、海軍記念日となりました。
- 【史料⑦】連合艦隊の出撃電報
- 本史料は、27日午前、連合艦隊が出撃に際して、大本営に宛てて打電した電報です。「本日天気晴朗ナレトモ波高シ」の文言を確認できます。
- 【史料⑧】日本海海戦後の戦艦「三笠」の被害図
【史料⑨】日本海海戦後の戦艦「三笠」の写真 - 連合艦隊の被害は比較的軽微でした。しかし本史料から、連合艦隊の旗艦「三笠」は、後檣(こうしょう)(赤色の丸枠)が破損する等、無傷ではなかったとわかります。旗艦とは、艦隊の司令長官もしくは戦隊の司令官が乗る軍艦を指しました。
【史料①~⑨】の史料名と請求記号の一覧
- 【史料①】
「極秘 戦闘詳報 第四巻」(文庫、千代田史料、169) - 【史料②】
「旅順閉塞記念帖」(⑧参考、写真、134) - 【史料③】
「第3軍戦闘詳報 明治37年11月」(文庫、千代田史料、142) - 【史料④】
『日露戦史写真帖 上巻』(091/大/4628) - 【史料⑤】
「奉天会戦図 明治38年5月」(文庫、千代田史料、1062) - 【史料⑥】
「第3軍戦闘詳報第1巻付図」(文庫、千代田史料、144) - 【史料⑦】
「日本海海戦 電報報告 明治38年5月27日」(海軍省、日露、M37-234) - 【史料⑧】
「第1艦隊戦闘詳報 日露戦役 日本海海戦」(海軍省、日露、M37-2) - 【史料⑨】
「極秘 明治37、8年海戦史附録写真帖」(⑨文庫、千代田、577)