陸軍大将 東條英機 明治17年~昭和23年〔岩手〕

-昭和18年9月30日、「絶対国防圏」を決定、首相兼陸軍大臣-

東條英機大将

主要略歴

明治38年3月陸軍士官学校卒業(17期)、大正4年12月陸軍大学校卒業(27期)、 昭和4年8月歩兵第1連隊長、6年8月参謀本部課長、8年3月少将・参謀本部付、 8年8月兵器本廠付、9年3月陸軍士官学校幹事、9年8月歩兵第24旅団長、 10年8月第12師団司令部付、10年9月関東憲兵隊司令官兼関東局警務部長、11年12月中将、12年3月関東軍参謀長、13年5月陸軍次官、13年6月兼航空本部長、13年12月航空総監兼航空本部長、15年2月兼臨時軍事参議官、15年7月陸軍大臣兼対満事務局総裁、16年10月大将・首相、16年10月~17年2月兼内相、16年10月~19年7月兼陸軍大臣、18年11月~19年7月兼軍需大臣、19年2月~7月参謀総長、19年7月予備役、23年12月A級戦犯として刑死

人物解説

東條は、関東軍参謀長などを経て陸軍次官、陸軍大臣となり、昭和16年10月には陸軍大臣を兼務したまま首相となります。12月8日、日本軍はマレー進攻作戦と真珠湾攻撃を敢行、太平洋戦争の開戦です。当初は順調だった陸海軍の作戦も17年8月に始まったガダルカナル島の戦いから崩れ始め、全く予想もしていなかった南太平洋が国防の第一線となりました。結局、日本軍は18年2月にガダルカナル島から撤退します。さらに5月にはアッツ島が玉砕し、東部ニューギニア正面では9月22日、米豪連合軍がダンピール海峡を確保します。このことは、米軍が広い太平洋で自由に作戦できることを意味します。こうしたことから東條を含めた軍中枢では、次にどこで米軍に一撃を与え、自主的に戦争を終結させるのかという事が議論となります。そして9月30日、「今後採るべき戦争指導大綱」等に関する御前会議が東條進行のもと開催されました。4時間を費やす大論争となりましたが、「絶対確保すべき要域を千島、小笠原、内南洋及び西部ニューギニア、スンダ、ビルマを含む圏域とす」(下掲史料①)といういわゆる「絶対国防圏」構想が決まりました。会議の最後、今後の作戦に悲観的な言辞を述べた海軍に対し、東條は、「最後まで戦い抜かねばならぬ。今後の戦局の如何に関せず日本の戦争目的完遂の決意には何らの変更はない」(下掲史料②)と強気に述べました。

関連史料

関連史料「御前会議議事録 今後採るべき戦争指導の大綱 昭和18.9.30」
              (中央-戦争指導重要国策文書-1082)   

関連史料「御前会議議事録 今後採るべき戦争指導の大綱 昭和18.9.30」
関連史料「御前会議議事録 今後採るべき戦争指導の大綱 昭和18.9.30」
関連史料「御前会議議事録 今後採るべき戦争指導の大綱 昭和18.9.30」
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