陸軍元帥 寺内寿一 明治12年~昭和21年〔山口〕

-昭和18年8月7日、インパール作戦準備を命令、南方軍総司令官-

寺内寿一元帥

主要略歴

明治32年11月陸軍士官学校卒業(11期)、42年12月陸軍大学校卒業(21期)、 大正8年7月大佐・近衛歩兵第3連隊長、11年1月近衛師団参謀長、 13年2月少将・歩兵第19旅団長、昭和2年8月朝鮮軍参謀長、 4年8月中将・独立守備隊司令官、5年8月第5師団長、7年1月第4師団長、 9年8月台湾軍司令官、
10年10月大将、12月軍事参議官、11年3月陸軍大臣、12年2月軍事参議官・教育総監、8月北支那方面軍司令官、13年12月軍事参議官、14年7~11月ドイツ・イタリア出張、16年11月南方軍総司令官、18年6月元帥、20年11月予備役・南方軍総司令官、21年6月病死

人物解説

寺内は、父寺内正毅とともに、元帥、陸軍大臣となりましたが、極めて清潔、恬淡とした、政治的野心など毛頭ない純軍人肌の人物であったといわれます。昭和10年大将となった寺内は、二・二六事件の後、11年3月、陸軍大臣となります。寺内の大きな仕事は、粛軍のための人事刷新と陸軍省官制の改正でしたが、その中で軍部大臣現役武官制復活は大きなものでした。これによって後に軍部が政治に関与し、しばしば内閣の運命を左右することとなります。太平洋戦争間は、南方軍総司令官として広大な戦域で百万を超える将兵を指揮します。司令官としては、大綱の決心、隷下軍からの意見上申の裁決などのほかは総参謀長以下に任せていたようです。18年2月のガダルカナル島撤退以降、太平洋正面の戦局は悪化しますが、南方軍正面のビルマにおける第1次アキャブ作戦は進展が望めました。そうして大本営、政府は、ビルマを8月1日に独立させ、寺内は、8月7日、ビルマ方面軍に、ビルマの現防衛態勢を強化するために反撃作戦(インパール作戦)準備を命じます(下掲史料)。しかし、19年7月、インパール作戦は失敗、さらに20年4月にはラングーンが陥落し、脳溢血の病体だった寺内は、「自分の力及ばずしてして今日に至ったことを深くお詫びし・・・」と昭和天皇に宛てて打電し、済まない済まないと繰り返し口にしていたといわれますが、21年6月にマレーシア(レンガム)で亡くなります。

関連史料

関連史料「南方軍(隷下部隊)関係電報綴 昭和18.1~18.12」(中央-作戦指導重要電報-54)(複製)

「南方軍(隷下部隊)関係電報綴 昭和18.1~18.12」(中央-作戦指導重要電報-54)(複製)
「南方軍(隷下部隊)関係電報綴 昭和18.1~18.12」(中央-作戦指導重要電報-54)(複製)
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