陸軍中将 佐々木登 明治26年~昭和36年〔広島〕

-何のためにいつまでここを保持するのか?中部ソロモンの南東支隊長-

佐々木登 中将

主要略歴

大正3年5月陸軍士官学校卒業(26期)、
12年11月陸軍大学校卒業(35期)・騎兵第5連隊中隊長、14年8月軍務局課員、昭和3年4月ポーランド・ソ連駐在、5年8月軍務局課員、6年12月陸軍大学校専攻学生、7年4月陸軍大学校教官兼参謀本部員、
8年8月騎兵中佐、11年3月参謀本部部員、11年8月第3師団参謀、12年7月農林省馬政局資源課長、12年8月騎兵大佐、
14年8月少将・兵器本廠付、14年10月騎兵第4旅団長、15年12月第6軍参謀長、17年7月機甲本部付、18年5月南東支隊長、18年11月第8方面軍司令部付、19年10月中将、22年11月復員

人物解説

陸軍大学校優等卒業の佐々木は、陸大戦史教官時代、十分な支援、弾薬もなく攻撃する戦例に疑問を持つなど合理的に物事を考える将校でした。昭和18年5月、中部ソロモン防衛を任務とする南東支隊長に補せられた佐々木は、6月2日からニュージョージア島ムンダで指揮をとります。6月30日早朝、ムンダ南方約10Kmのレンドバ島北部海岸に連合軍が上陸します。レンドバでは陸海軍約2個中隊が防御していましたが、佐々木は、圧倒的戦力差などからこれらに存在意義はないと判断、ムンダに撤収させます。続いて連合軍は、7月6日、ムンダ東方約10Kmのザナナに上陸、2個歩兵連隊を並列してムンダへと攻撃を開始します。佐々木はこれを巧みに阻止、持久しますが、8月上旬、すでに反撃の見込みもなく戦力の限界と判断しムンダ放棄を決断します(下掲史料)。上級部隊は、反撃拠点として一角を確保せよと指導しますが、佐々木は、独断、西方に位置するコロンバンガラ島への重点転移、防御を命じます。コロンバンガラ島においても、佐々木は、戦力の限界と任務達成の2要件の狭間で苦悩し、これを受け最終的には大本営指示に基づきブーゲンビル島へ撤退(「セ」号作戦)します。米軍公刊戦史では、「4個師団に近い連合軍を相手とし、9400名を撤退させた。その勇敢で有能な戦闘指導は、祖国から感謝されるに値する」と佐々木を高く論評しています。

関連史料

関連史料①「ソロモン群島防衛第2期戦 機密作戦日誌 昭18.6」(南東-ソロモン・ビスマルク-34)
    ②「南東支隊ニューヂョーヂア防衛第2期戦 作戦一覧図」(南東-ソロモン・ビスマルク-86)

「ソロモン群島防衛第2期戦 機密作戦日誌 昭18.6」(南東-ソロモン・ビスマルク-34)
「ソロモン群島防衛第2期戦 機密作戦日誌 昭18.6」(南東-ソロモン・ビスマルク-34)
「南東支隊ニューヂョーヂア防衛第2期戦 作戦一覧図」(南東-ソロモン・ビスマルク-86)