陸軍中将 山崎保代 明治24年~昭和18年〔山梨〕

-生きて捕虜の辱めを受けず、アッツ島の北海守備第2地区隊長-

山崎保代 中将

主要略歴

大正2年5月陸軍士官学校卒業(25期)、12月少尉・歩兵第15連隊付、
6年8月中尉、7年4月~9年12月シベリア出征、
12年8月大尉・歩兵第15連隊大隊副官、13年4月同中隊長、
昭和3年5月済南事変出征、6年3月歩兵第15連隊付(沼田中学配属)、
8月少佐、8年8月歩兵第15連隊大隊長、11年8月中佐・歩兵第50連隊付、12年10月歩兵第50連隊補充隊長、14年3月第36師団兵器部長、
15年3月大佐、8月歩兵第130連隊長、18年2月北海守備第2地区隊長、
5月アッツ島で戦死・中将進級

人物解説

同期生から「山崎ハルテン」(「ハルテン」は独語の「保つ」)と呼ばれ親しまれていた山崎は、置かれた立場での任務に全力で臨むタイプの将校でした。シベリア出征では、弾雨のなかでも平然、常に陣頭に立って指揮したと言われます。昭和18年2月、山崎は、アッツ島要域確保を任務とする北海守備第2地区隊長となり、米軍の制海空権の中、4月18日、幕僚数名を伴い潜水艦で同島に進出します。アッツ島では、雪と氷、濃霧と強風のため飛行場、陣地の構築も困難でした。また、上陸予想地点も多く、それぞれに部隊を分散配置しなければなりませんでした(下掲史料①)。5月12日、米第7師団が、島北東、北海(ホルツ)湾から上陸します。山崎以下は頑強な抵抗を続けますが、次第に熱田湾方向に追い詰められます。大本営では20日、アリューシャンからの撤退が決まり、23日、北方軍司令官は、「最後に至らば潔く玉砕し、皇国軍人精神の清華を発揮するの覚悟あらんことを望む」と山崎に打電し、山崎は、29日、「生きて捕虜の辱めを受けざる様覚悟せしめたり」と返電しました(下掲史料②)。29日、第2地区隊は、その勇戦奮闘から2回目の天皇陛下のお言葉を賜ります。一方、すでに持久の可能性を放棄した山崎は、同日夜から30日朝にわたり第2地区隊、海軍部隊、軍属一団となり最後の夜襲を決行し玉砕します。山崎は2階級特進して中将となりました。

関連史料

関連史料①熱田島配備要図⇒「北海守備隊作戦経過報告書 昭和18.9」(北東-アリューシャン-13)
    ②戦闘詳報⇒「北海守備隊作戦経過報告書 付録 昭和18.9」(北東-アリューシャン-14)

熱田島配備要図⇒「北海守備隊作戦経過報告書 昭和18.9」(北東-アリューシャン-13)
戦闘詳報⇒「北海守備隊作戦経過報告書 付録 昭和18.9」(北東-アリューシャン-14)
戦闘詳報⇒「北海守備隊作戦経過報告書 付録 昭和18.9」(北東-アリューシャン-14)