海軍中将 草鹿任一 明治21年~昭和47年〔石川〕

見敵必戦、倒れて後已む、ラバウルの南東方面艦隊司令長官

草鹿任一 中将

主要略歴

明治42年11月海軍兵学校卒業(37期)、
大正10年11月海軍大学校甲種卒業(19期)、
昭和11年12月少将・砲術学校長、12年12月第1航空戦隊司令官、
13年4月支那方面艦隊兼第3艦隊参謀長、14年11月海軍省教育局長、
15年11月中将、16年4月海軍兵学校長、
17年10月第11航空艦隊司令長官、
12月南東方面艦隊兼第11航空艦隊司令長官、
21年7月~21年12月戦犯拘留、22年2月復員・予備役

人物解説

草鹿は、昭和17年10月、第11航空艦隊司令長官に親補されラバウルに着任、12月には南東方面艦隊司令長官となり、南太平洋における戦略態勢の堅持が任務となりました。当時、ラバウルの第8方面軍司令官今村均大将とは相互によく協力しましたが、倒れて後已むの気魄に徹した草鹿は、自己の信念と異なるときは大いに議論を交わしました。18年2月、ガダルカナル島撤退にともない、連合艦隊は母艦搭載機を一時期ラバウルに派遣し、4月初旬から強力な航空攻撃(い号作戦)を実施します。下掲史料は、当時、草鹿など主要な指揮官、参謀が参考にした4月7日の航空作戦用天気図です。作戦終盤の4月18日には、前線視察のため一式陸上攻撃機でブーゲンビル島に向かった連合艦隊司令長官山本五十六大将が敵機に邀撃され戦死します。草鹿の日記には、「GF長官搭乗機全部絶望ノ旨通知シ来ル嗚呼」(4月20日)とあります。その後、いわゆる絶対国防圏構想が9月30日発令されたものの、草鹿は、圏外に位置していたラバウルを要塞として固め、いささかでも全般作戦に寄与することを誓い、僅かな航空機をもって積極的な航空作戦を指導しました。また、戦争が長期にわたると判断した草鹿は、士気、陣地の洞窟化、現地自活、兵器類製造、教育訓練に留意しました。終戦後の、21年7月、シンガポールの戦犯容疑者収容所に抑留されましたが、同年末釈放されて帰国します。

関連史料

関連史料「い号作戦気象図(ラバウル進出航空作戦)昭和18.4」(複写)(⑥技術-気象-38)

「い号作戦気象図(ラバウル進出航空作戦)昭和18.4」(複写)(⑥技術-気象-38)
「い号作戦気象図(ラバウル進出航空作戦)昭和18.4」(複写)(⑥技術-気象-38)