陸軍中将 山縣栗花生つゆお 明治23年~昭和20年〔山口〕

東部ニューギニア、ギルワ付近撤収作戦を指揮したブナ支隊長

山縣栗花生 中将

主要略歴

明治44年5月陸軍士官学校卒業(23期)、
大正15年11月教育総監副官、
昭和8年中佐・朝香宮殿下御付武官、
12年8月大佐、10月第8国境守備隊第3地区隊長、
14年3月歩兵第11連隊長、
15年8月少将・基隆要塞司令官、
16年6月独立混成第21旅団長、
18年7月中部軍付、12月留守第53師団兵務部長、
19年7月中将・第26師団長、20年2月レイテ島で戦死

人物解説

山縣は、昭和16年6月、独立混成第21旅団長に就任します。当時、旅団は、北部仏印で警備任務についていましたが、17年11月、第17軍の隷下となりラバウルに向かい、ニューギニアの南海支隊救援を命ぜられます。このため、ラバウルから東部ニューギニアのパサブアへ駆逐艦で4次にわたり進出を試みますが、成功したのは山縣が直接指揮した第2次上陸のみで、兵力は歩兵1個中隊と旅団通信隊の一部に過ぎませんでした。その後、山縣は、現地の南海支隊と歩兵第41連隊なども隷下に入れブナ支隊長となりました。米豪連合軍に圧倒されている南海支隊の状況は厳しく、最終的に山縣以下の将兵は、ブナ北西4キロのギルワ付近で包囲されました。上級部隊の第18軍は、18年1月14日、山縣にギルワ北西約50キロのマンバレー以西への転進を命じます。下掲の史料は、参謀本部編さんの「大東亜戦史第7巻 南太平洋作戦 第八篇」です。これには、転進命令を受領した日から転進するまでのブナ支隊のギルワでの戦闘経過とその要図が記されています。この連合軍強圧の中での転進は、酸鼻を極め、命令より早く転進開始するなど、多くの問題を抱えつつ、最終的に2月7日、マンバレー付近に集結したのは、転進前の5千名中、3400名余りでした。その後、山縣は、第26師団長としてレイテ島に派遣されましたが、20年2月5日、ナグアン山で戦傷死しました。

関連史料

関連史料「大東亜戦史第7巻 南太平洋作戦 第八篇」(南東-全般-100)

関連史料「大東亜戦史第7巻 南太平洋作戦 第八篇」(南東-全般-100)
関連史料「大東亜戦史第7巻 南太平洋作戦 第八篇」(南東-全般-100)