陸軍中将 安達二十三 明治23年~昭和22年〔石川〕

指揮の限界を常に自問自答したニューギニアの第18軍司令官

安達二十三 中将

主要略歴

明治43年5月陸軍士官学校卒業(22期)、
大正11年陸軍大学校卒業(34期)、
11年12月近衛歩兵第1連隊中隊長、
12年12月参謀本部付・部員、15年3月少佐、
15年12月兼軍令部参謀、
昭和2年12月陸軍大学校専攻学生、
3年12月参謀本部部員兼軍令部参謀、5年8月中佐、
7年9月欧州出張、8年4月関東軍鉄道線区司令官、
9年8月大佐、10年8月参謀本部課長(鉄道船舶)、
11年12月歩兵第12連隊長、13年3月少将・関東軍司令部付、
13年11月第26歩兵団長、15年8月中将・第37師団長、
16年11月北支那方面軍参謀長、17年11月第18軍司令官、
22年4月終身刑判決、22年9月10日ラバウルで自決

人物解説

安達は、陸軍大学校を卒業後、歩兵中隊長を経験した後、参謀本部鉄道課に勤務し、支那事変開始後、大半の期間は部隊長を歴任、昭和17年11月第18軍司令官に親補、最悪の戦場といわれるニューギニア作戦を指揮します。終戦まで2年9か月にわたる過酷な作戦は、兵員の補充もなく、将兵の疲労は計り知れず、総兵力約12万名の内、本国に生還できたのは僅かに1万名に過ぎないような戦いでした。しかし、抗命事件がなかったといわれるのは安達の人格の力によるといわれます。安達は、作戦の重大転機には必ず現地に赴き指導しました。そんな安達が常に注意を怠らなかったのは、指揮の限界でした。生身の人として果たしてこの命令が実行できるか、自問自答し、将兵には勇猛心の振起を要請しました。下掲の史料は、昭和19年7月6日、安達が、断行すべきか否か苦慮した猛号作戦(アイタペ攻撃)の断行を決意した時、全軍に配布した訓示です。猛というのは第18軍の兵団文字で軍総力を挙げてという意味を持ちます。訓示からは部下を思う気持ちと国家危急に際してこれに殉ずるという安達の強い思想が読み取れます。昭和20年8月16日早朝、終戦の詔勅を読んだ安達は、「何とも申し訳ないことになった」と漏らしたといいます。その後、安達は、戦病死、戦犯の部下を思い、内地への生還は絶対にしないと公言し、部下の復員を見届けたのち、自決しました。

関連史料

関連史料「猛号作戦 猛戦作命甲綴 昭19.6.27~19.8.19」(南東-東ニューギニア-5)